連載:Kure散歩|東京の橋めぐり㉔
万世橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶1912年開業の万世橋駅の一部だった「万世橋高架橋」。(2017年撮影)
❷1904年にドイツから輸入された「昌平橋架道橋」。(2025年撮影)
❸「昌平橋」(1923年)と後方に開通直後の「松住町架道橋」(1931年)。(絵葉書)
❹開通直後の「神田川橋梁」(1931年)。右側は「松住町架道橋」。(総武線お茶の水・両国駅間開通記念絵葉書)
❺1930年に架橋された現在の「万世橋」。高さ約4mの巨大な親柱が特長。(2025年撮影)
橋の聖地 秋葉原
 かつて秋葉原といえば、大小さまざまな店が軒を連ねる電気街として有名であったが、近年ではサブカルチャーの聖地として世界的に名を馳せている。しかしこの地域は、橋マニアにとってもコアな橋が高密度で密集する「橋の聖地」なのである。
 まず目を引くのが、神田川沿いの煉瓦の連続アーチ橋(万世橋高架橋、❶)。橋の上にはJR中央線が走る。アーチ下は商業施設の「アーチエキュート」として利用されているが、以前は「鉄道博物館」として、さらに時代をさかのぼれば1912(明治45)年に開業した甲武鉄道(現JR中央本線)の始発駅の「万世橋駅」の一部であった。このアーチ橋の神田駅寄りで国道17号を跨ぐのは、1928(昭和3)年に架設された「万世橋架道橋」。日本初の曲線橋である。
 お茶の水側で都道を跨ぐのは、1904(明治37)年にドイツから輸入された「昌平橋架道橋」(❷)。北側で大きく緑色の弧を描くのはJR総武線の「松住町架道橋」(❸)で、1931(昭和6)年に鉄道初のタイドアーチ橋として架設された。これに隣接して神田川を跨ぐのは「神田川橋梁」(❹)。同年に架設され、国内初のハの字型の橋脚を持つ。そのすぐ下流側に架かる道路橋は、鉄筋コンクリートアーチ橋の「昌平橋」(❸)。関東大震災直前の1923(大正12)年7月に架設された。震災前に建設されて現存する橋は大変少なく、車道と歩道が分離した橋というのも珍しい。そして、大きな親柱がひときわ目を引くのが、中山道の国道17号が通る「万世橋」(❺)である。
❻筋違御門と木造の太鼓橋「筋違橋」。(江戸見附写真帖(向陵社))
❼1873年、石造アーチ橋で架設された「萬代(世)橋」(よろずよはし)。(紅林所蔵)
石造アーチ橋「萬世橋」の誕生
 「万世橋」の歴史は古く、江戸時代前期までさかのぼる。徳川幕府は、江戸城の外濠として神田川を開削し、中山道が交差するこの地に橋を架設した。当時は、現在より100mほど上流に架けられ、この地に設けられていた江戸城の36の城門「三十六見附」のひとつである筋違御門にちなみ「筋違橋」(❻)と命名された。「筋違」とは門のすぐ北側で中山道から上野寛永寺に通じる御成道が分岐していたことに由来した。橋の構造は木造の太鼓橋で橋長は22mほどであった。
 1873(明治6)年、明治政府は筋違御門を破却し、その石材を用いて、明治以降では東京初となる石造アーチ橋(❼)を架設した。橋長22.9m、幅員11.0mで、これを期に「萬世橋」と改名された。名付け親は、元幕臣で東京府知事を務めていた大久保一翁で、当時は今日のように「まんせいばし」ではなく、「よろずよはし」と読んだ。
東京の石造アーチ橋の生みの親、山城祐之
 東京では「萬世橋」を皮切りに、1880(明治13)年までの7年間に都心部に13の石造アーチ橋が架設された。これを立案したのは、薩摩藩出身で東京府橋梁掛の山城祐之であった。
 明治初年、東京市内の橋梁は木橋が大半で、幕末から維持管理が滞り老朽化が進んでいた。また前述した江戸城三十六見附では、道の両側に石垣が立ち上がり、櫓やクランク状の枡形が設けられ、これらは円滑な交通や街の発展にとって大きな障害となっていた。加えて、門前に架かる太鼓橋は縦断勾配が急だったため、馬車や人力車など新しい交通機関にとって通行の支障でもあった。
 この状況を見た山城は、『石橋増築の儀』を立案。山城は石造アーチ橋建設の利を以下のように説いた。

①道路・橋梁の近代化は、日本社会の近代化に不可欠で、中でも石造アーチ橋への架け替えはその要である。
②石造アーチ橋は木橋に比べ、建設費は高額だが、維持管理費はかからず寿命は長く、長期的には経済的である。
③江戸では石は採れないが、見附の石を撤去しその石を再利用すれば、橋が架かった上に交通上の障害も撤去でき一石二鳥である。

 大久保知事はこの提案を認め建設が進められた。
 石造アーチ橋の建設立案は、山城が薩摩藩出身であったことが、強く影響したと思われる。幕末、約500万両の借金で破産状態にあった薩摩藩は、家老 調所広郷のもと、琉球を通しての清との密貿易や奄美での黒砂糖栽培の強要により、財政を立て直し300万両の蓄財を果たした。そして内200万両を、道路、橋、河川などのインフラ整備にあてた。特筆すべきは、肥後から岩永三五郎を棟梁とする種山石工を招聘し、「西田橋」など36もの石造アーチ橋を架設したことで、これにより藩内には、大雨でも途絶えない強固な道路ネットワークが張り巡らされた。薩摩藩は、当時の日本において唯一、車馬が藩内いたる所を通行できる道路インフラを手に入れたのである。流通は活発化して産業が新興、軍事面でも大きく貢献し、維新の礎となった。それを一下級藩士であった山城も肌で感じたに違いない。
❽神田明神に保管されている石造アーチ橋「元萬世橋」の親柱。
❾1903年、鋼アーチ橋に架け替えられた「新萬世橋」。(絵葉書)
鋼アーチ橋への架け替え
 日本初の都市計画である「市区改正」により、1903(明治36)年、現在の「万世橋」の位置に、鋼アーチ橋の「新萬世橋」(❾)が架設された。これを機に石造アーチ橋の「萬世橋」は、「元萬世橋」と改名された。しかし甲武鉄道(現JR中央本線)の万世橋駅建設に伴い、1906(明治39)年に橋は撤去された。その際に旧橋の親柱だけは神田明神へ移設され、現在も境内裏に保存されている(❽)。この親柱に刻まれた「萬世橋」という字は、山城祐之が揮毫したと伝わる。
 新橋は橋長25m、アーチスパンドレルが桜吹雪をデザインした鋳物製の化粧パネルで飾られた美しい橋で、設計は東京市工務課長の金井彦三郎が担った。
❿1930年、鉄筋コンクリートアーチ橋に架け替え直後の「万世橋」。橋の下の川底に地下鉄銀座線のトンネルが通る。(東京都所蔵)
⓫万世橋付近の縦断面図
⓬神田川の水を流した巨大な鋼鉄製の樋。この下を掘削してトンネルを構築した。
⓭樋の中を航行する船。(「万世橋の河底開鑿隧道工事」『土木建築工事画報』第5巻4号)
⓮旧公衆便所が右岸側の地下に設置されていた。(2025年撮影)
鉄筋コンクリートアーチ橋
 関東大震災では落橋しなかったものの、復興計画に基づき1930(昭和5)年に現橋(橋長26m、幅員36m、❿)に架け替えられた。一見石造アーチ橋に見えるが、構造は側面のアーチスパンドレルに切り石を貼った鉄筋コンクリートアーチ橋である。
 橋の四隅には高さ4mもある巨大な親柱が立つ。震災復興で建設された橋のデザインは、モダニズムの影響を受けて、明治期に見られたような華美な装飾は採用されず、親柱も簡易なものになったが、その中にあって、「万世橋」の巨大な親柱は異色な存在である。
 橋の直下には地下鉄銀座線が通り、「万世橋」は銀座線のトンネルの上に直接載っている(⓫)。橋とトンネル工事は、東京市が一体で施行した。橋の上流側で神田川を堰き止め、水は大きな鋼鉄製の樋で下流側に流し、樋の下で川底を掘削してまず地下鉄のトンネルを構築した(⓬、⓭)。これはわが国初の川底トンネルであった。そして、そのトンネルの上に橋を直接構築した。
 この難工事を計画し主導したのは、東京市橋梁課長の岡部三郎であった。岡部は東京帝国大学を首席で卒業して内務省に入省し、青山士のもと新潟県の信濃川の大河津分水路工事に従事した。しかし1927(昭和2)年に信濃川ダム決壊の責任をとって内務省を退職。その直後に岡部の才能を惜しんだ東京市役所の安芸土木局長から誘われ、東京市橋梁課長に転じた。専門は橋梁ではなく河川であったが、「万世橋」と銀座線の工事で見られた、神田川を堰き止め川底にトンネルを構築するという離れ業は、この岡部の専門性が存分に活かされたものであった。
 「万世橋」には、他の橋には見られない、もうひとつの特徴がある。橋台の下流側にある地下室である(⓮)。右岸側の地下室は公衆便所として建設された。この公衆便所は平成初めに管理上の問題から地上部に新しい便所が新設され、現在は使用されていないが、震災復興時に市内各所に建設された公衆便所の唯一の生き残りである。当初地下に建設されたのは、都市景観に配慮したためと思われる。「万世橋」は、江戸から現代までの橋の移り変わりや、都市の歴史を知る上で大変貴重な語り部といえよう。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)