
❶明治初年の鎧の渡し。(「古今東京名所 よろひのわたし」三代 歌川広重 筆、紅林所蔵)。この地では江戸期を通じて舟による渡しが続いた。
鎧の渡し
中央区日本橋兜町は、証券取引所や多くの証券会社が軒を連ねる日本の経済・金融の中心地。この地で日本橋川に架かるのが「鎧橋」である。これら「兜町」、「鎧橋」など厳めしい地名の由来は、平安後期までさかのぼる。当時、東京都東部や埼玉県東部は、江戸湾に注いでいた利根川を初め多くの河川が網の目のように流れる湿原で、江戸から東北や房総方面への交通は陸路ではなく主に兜町付近からの舟運に頼っていた。1051(永承6)年、源頼義は東北地方で起きた安倍氏の反乱(前九年の役)の鎮圧に赴いた。その途中この地で暴風雨に遭遇し、船は難破するなど軍勢は立ち往生した。頼義は意を決し、鎧を川中に投じて風雨鎮静を祈念したところ風雨は鎮まり、全軍無事に渡河することができたという。後年、この地は古事に因み「鎧が淵」と呼ばれるようになった。
兜町という名も、頼義の嫡男の源義家が、後三年の役で奥州を平定して凱旋した際に、戦勝のお礼と東国鎮定を祈願してこの地の土中に兜を納めたため、後に「兜塚」と呼ばれるようになり「兜神社」が建立されたことに由来する。
江戸時代になると周辺は埋め立てられて多くの運河が開削され、そのひとつの日本橋川にも「日本橋」や「江戸橋」などの橋梁が架設されたが、この地では江戸期を通じ渡船による「渡し」が続いた。渡しは前述した古事から「鎧の渡し」(❶)と名付けられ、延長は約50mと短かったものの、日本橋川で唯一の渡しであったため名所となり、多くの絵や文学の題材となった。

❷1872/明治5年に架設された初代鎧橋。(「東京開名景競 よろいはし」三代 歌川国貞 筆、紅林所蔵)。右背面の洋館は「第一国立銀行」。
鎧橋の誕生
明治になると兜町周辺は、1872(明治5)年に「三井組ハウス」(明治初期の3大疑洋風建築のひとつ、翌年国立第一銀行に改組)が建設されるなど、わが国の経済の中心地となった。しかし、当該区間の日本橋川には1kmにわたり橋がなく、渡船の利用者は1日当たり千人にも上ったことから新橋架設の機運が高まり同年に「鎧橋」が誕生した(❷)。構造は橋長57mの和式の木造桁橋で、建設費は豪商の三井、小野、島田の3者が担った。東京の橋は、幕末の政変などで架け替えが滞り維持管理が疎かになったことから、明治初年には老朽化が進行し、新政府にとって橋梁の架け替えは急務となっていた。しかし財政難から更新は思うようには進まず、このため民間による新橋の架設を奨励していた。「鎧橋」はそのような橋のひとつとして誕生した。橋の架設後、1876(明治9)年には左岸側に日本橋蛎殻町に米穀取引所が、1878(明治11)年には右岸側の橋のたもとに証券取引所が誕生し、兜町はわが国随一の金融街としてさらに発展した。「鎧橋」は文字どおり日本経済の中心地で、橋渡し役を担ったのである。

❸1888/明治21年、鉄橋に架け替えられた鎧橋。(「東京名所鎧橋真景」小林幾英 筆、紅林所蔵)。左岸上流側から描いている。

❹鉄橋 鎧橋の橋梁一般図(東京都蔵)。斜材の配置が独特である。

❺1905/明治38年に市電が開通した鎧橋。(紅林所蔵)

❻市電複線化に合わせ1915/大正4年に拡幅、補強された鎧橋。(紅林所蔵)
鉄橋への架け替え
初代「鎧橋」は、1888(明治21)年に東京府により橋長55.8m、幅員13.8mの錬鉄製の鉄橋に架け替えられた(❸、❹)。橋梁形式は、ホイップルトラス橋(プラットトラスの格間長を短くすることを目的として、ひとつの斜材を2格間に配し、かつ隣接する斜材を1格間で重複させたトラス橋)で、橋台は煉瓦造で松杭が打たれていた。なおホイップルトラスは、この時期に本橋と「高橋」(1882/明治15年、亀島川)、「厩橋」(1893/明治26年、隅田川)、「天満橋」(1888/明治21年、大阪市 淀川)の計4橋が架設されたが、以後施工事例はなく広く普及することはなかった。設計は「吾妻橋」などを設計した東京府の原口要が、監督は後に「厩橋」や「永代橋」を設計する東京府の倉田吉嗣が担った。桁は、英国から輸入した錬鉄を用いて官営工場の浦賀工廠で製作され、煉瓦造の橋台は清水組が請け負った。
東京では1903(明治36)年に数寄屋橋~神田橋間に路面電車が開通し、1905(明治38)年には「鎧橋」にも軌道(単線)が敷設された(❺)。しかし路面電車の利用者が増加し混雑が激しくなると複線化の要望が高まった。これを受け東京市は、1915(大正4)年に「鎧橋」の拡幅工事を実施。新たにトラス主構を3面追加して5主構のホイップルトラス橋へと改造した(❻)。路面電車は内側の旧トラス橋部分を通り、その外側には車両が通行し、さらにトラス主構の外側に張り出して歩道が設けられた。現在でも見られない大胆な構造補強である。当時は第1次世界大戦直後の財政難で鉄も不足していたため、架設後30年にも満たない鉄橋を架け替えるという選択肢はなかったものと思われる。この補強によって、「鎧橋」はその名のごとく、いかついフォルムを手に入れることになった。

❼1958/昭和33年に架け替えられた現橋の鋼ゲルバー鈑桁橋。(紅林撮影、2010年)。太いスティフナーとそこから連続した高欄支柱が特徴。

❽太い黒御影石の横桟がインパクトある高欄。(紅林撮影、2025年)。1953年設計とは思えないモダンなデザイン。

❾甲冑をモチーフとした親柱。(紅林撮影、2025年)

❿東京都橋梁課時代の一ノ谷基。(一ノ谷基氏提供)
現橋への架け替え
その後「鎧橋」は、1945(昭和20)年に米軍が投下した焼夷弾により破損したため通行止めとなり、1953(昭和28)年に撤去。1958(昭和33)年に、現在も供用されている橋長56mの3径間鋼ゲルバー鈑桁橋に架け替えられた(❼)。桁は当時の最先端技術であった溶接を用いたスレンダーでシャープなフォルムで、太いスティフナー(垂直補剛材)が外観のアクセントになっている。曲線を多用した裾拡がりの橋脚形状も珍しい。高欄は黒御影と白御影が使用され、水平方向を強調したダイナミックなデザイン(❽)で、支柱は外側へ張り出しスティフナーと連続している。親柱は甲冑をイメージしたもの(❾)。70年前に設計されたとは思えないモダンなデザインである。
構造設計は東京都道路部橋梁課の一ノ谷基(1929–2017、❿)で、1953(昭和28)年に早稲田大学を卒業し、入都1年目で「鎧橋」を設計した。高欄や親柱の意匠設計は、東京都営繕部の建築職の職員が担った。このような土木技術者と建築家が協働してひとつの橋梁を設計するのは、戦前は「日本橋」や震災復興橋梁をはじめ広く行われていたが、戦後はほぼ皆無になった。戦後の橋梁ではたいへん珍しい事例といえよう。

⓫鎧橋の煉瓦橋台。(紅林撮影、2010年)。明るい色の煉瓦が1888/明治21年建設時、暗い色の煉瓦が1915/大正4年拡幅時の橋台。現在も自動車荷重を支える。
明治の煉瓦橋台を再利用
15年ほど前に、鎧橋の設計について一ノ谷さんに直接お話を聴く機会を得た。当時の橋梁課は米国と独国の土木雑誌を購読し、職員の多くは原語のまま読んでいたという。そのような中、独国の最新橋梁を設計の参考にしたこと。高欄のデザインは、兜町という土地柄「戦後の日本経済の力強い発展」を願う意味から、高欄の一番上の横桟を太く、そして黒御影石を使い黒色にして水平方向の線を強調することで力強さを表現したことなどを伺った。橋上から両岸を覗くと、橋台が煉瓦造りなのがわかる(⓫)。しかも煉瓦の色がふたつに分かれている。明るい色の煉瓦は1888(明治21)年の建設時のもので、暗い色の煉瓦は1915(大正4)年の拡幅時のものである。明治の橋台が140年後の現在も供用されているのである。この明治の煉瓦橋台を再利用した理由についても尋ねたところ、私の目を見据えて瞬時に回答された。
「鎧橋の橋台は、関東大震災でも無傷だったんだよ。しかも明治の鎧橋は橋脚がなく、橋台だけで荷重を支えていたが、新橋は橋脚を2本追加し計4カ所で荷重を支えることになった。つまり、橋台が受け持つ荷重は以前の半分ほどに減った。どうしてつくりかえる必要があると考えるかね」。
実に合理的で明快な設計思想である。近年の橋梁の耐震補強や長寿命化と呼ばれる補修を見ていると、現在の技術者は構造の本質を見誤り、細分化された基準類に縛られて自ら考えることを放棄しているかのように思える。一ノ谷さんの言葉が今でも心に残っている。
140年前の煉瓦構造物と戦後モダンの融合。現在では幹線道路ではなく、首都高の高架下にあるため目立つ橋ではないが、戦後橋梁の傑作のひとつだと思う。

紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社多摩橋梁担当課長、室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/1985年 名古屋工業大学卒業後、入都/奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/平成29(2017)年度に『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で、令和6(2024)年度に『東京の美しいドボク鑑賞術』で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『浮世絵を彩った橋』(2025年4月、建設図書刊)
1959年 東京都八王子生まれ/1985年 名古屋工業大学卒業後、入都/奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/平成29(2017)年度に『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で、令和6(2024)年度に『東京の美しいドボク鑑賞術』で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『浮世絵を彩った橋』(2025年4月、建設図書刊)
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