連載:Kure散歩|東京の橋めぐり ㉓
豊海橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
震災復興で生まれたもうひとつの多彩な橋梁群
 震災復興では、隅田川に鋼タイドアーチ橋の「永代橋」や鋼自碇式チェーン吊橋の「清洲橋」などさまざまな形式の橋梁が架設された。このため橋の展覧会とか博物館に例えられてきた。震災の復興であれば、工期短縮を優先し、設計や施工を簡略化するために標準構造を定めてすべて同構造の橋梁を架けるという判断もあったであろう。もしくは、復興予算の大半を復興債という借金で賄い、その多くを米国民に頼ったという貧乏国であったことを加味すれば、経済性を最優先するという選択もあったであろう。そしてふたつの条件を加味すれば、当時最も安価であったトラス橋で統一するというのが、現代の感覚からしても頗る普通だったと思う。しかし、当時の技術者たちはそのような選択はしなかった。都市景観や日本の橋梁技術向上など大所高所から判断し、多彩な橋梁群をつくり上げた。
 この方針は、中小河川や運河に架かる橋梁にも適用された。SRCアーチ橋の「聖橋」、鋼ラーメン橋の「お茶の水橋」、RCバランストアーチ橋の「錦橋」、RCプラットトラス橋の「龍閑橋」、ラーメン橋台を持つ「一ツ橋」など、日本初や日本最大などの施工事例が目白押しだ。そしてこんな粋な配慮もされた。隅田川に注ぐ河川や運河の川幅は大差なく特徴がない。そこで、隅田川に注ぐ河口に架かる橋梁は形式を変えることで差別化を図ったのである。たとえば神田川の「柳橋」は鋼ソリッドリブタイドアーチ橋、山谷川の「今戸橋」は鋼上路式アーチ橋、小名木川の「万年橋」は鋼ブレストリブタイドアーチ橋、横十間川の「枕橋」はRCアーチ橋、亀島川の「南高橋」は鋼トラス橋、築地川東支川の「海幸橋」は鋼ランガー橋、日本橋川の「豊海橋」は鋼フィーレンデール橋など。これにより船頭たちは、橋の形で河川名を瞬時に判別できるようになった。
❶完成直後の豊海橋(東京都建設局蔵)。
❷現代の豊海橋(正面)(撮影:2022年、紅林)。
❸豊海橋竣工一般図(出典:『橋梁設計図集第一集』復興局橋梁課)
❹目黒橋(撮影:2002年、紅林)。
❺新黒沢橋(紅林所蔵)。
❻日満ふ頭昇開橋(紅林所蔵)。
❼実施設計を行った福田武雄(出典:『福田武雄博士論文選集』)。
フィーレンデール橋が架設された理由
 そのような中小河川や運河の河口に架かる橋梁の中で、最も特徴があるのは、「永代橋」の傍ら日本橋川の河口に架かる「豊海橋」(❶、❷)といえよう。
 橋長46.2m、幅員8mの現在の橋は、1927(昭和2)年に関東大震災の復興で、内務省復興局により架設された。橋梁形式のフィーレンデール橋はラーメン橋の一種で、トラス橋のように斜材がないため外観はスッキリしているが、その分部材は骨太で、梯子を横倒したようなフォルムをしている(❸)。素敵な響きを持つこの橋梁形式名は、ベルギーの発案者の名から付けられた。
 「豊海橋」は、鋼フィーレンデール橋では日本初の施工事例であった。そればかりか、当時米国や英国にも施工事例はないという最新形式であった。この後も戦前に国内には、富山県の「目黒橋」(❹)、岩手県の「新黒沢橋」(撤去、❺)、神奈川県の「日満ふ頭昇開橋」(撤去、❻)のわずか3橋しか架設されていない。
 このような希少形式を採用した経緯について、復興局橋梁課技師で後に日本大学土木工学科教授に就いた成瀬勝武は、「土木技術家の回想」(『土木技術』1971年4月)に以下のように記している。「永代橋の上流側に豊海橋があった。日本橋川の河口にあってトラス橋とするとコントラストが悪く、そこで私はヒィーレンデル形式を選んで、その形式を加えた比較設計の透視図を数葉、岡村蚊象氏(建築家 後の山口文象)に頼んで描いてもらい田中豊課長にお目にかけた。これが良い、ということになってヒィーレンデル型の橋に決まったが、不静定次数が10以上もある構造なので、誰がその応力を解くかという時に(大正14年の春)、新卒業の福田武雄氏(❼)が入局されたので、その設計と応力計算とは福田氏にお願いすることとなった。溌剌たる若い技術者が縦横にその腕をふるえる時代であったのだ」。これから、成瀬が比較設計を行ってフィーレンデール橋を推し、田中が了解を与え、福田が実施設計を実施したことが分かる。ここに記されたように、フィーレンデール橋が普及しなかった最大の理由が、コンピュータがない時代にあって、不静定次数の高さ(=計算の複雑さ)にあった。その難題を、東京帝国大学土木工学科を卒業してわずか1年目だった俊才の福田が解決したことになる。
 福田は期待に応え設計を無事終えると、1年後に母校に助教授として呼び戻され、後年、同学教授や千葉工業大学学長、土木学会会長などを歴任する土木工学の巨星となった。死後まとめられた『福田武雄博士論文選集』の中で、福田はフィーレンデール橋の選定理由について以下のように記している。「橋を設計するとき、その当時の基本的考え方は『橋はモニュメントである』という認識です。したがって、永代橋の近くに同じアーチでは具合が悪い。あまり小っちゃなトラスでも困る。そういう意味でがっちりしたフィーレンデール橋を選んだのです」。隣接するマッシブな「永代橋」に対し、景観的に邪魔にならず、それでいて埋没せず自己主張できる形式として、骨太なフィーレンデール橋が適していると判断したのであろう。
❽黒部川第二発電所と目黒橋(撮影:2002年、紅林)。
豊海橋から生まれた目黒橋
 この最新形式の橋梁は、ひとりの若い建築家の山口文象をも魅了した。当時、山口は山田守に誘われ、逓信省から復興局橋梁課に異動し、「永代橋」など橋梁の意匠をデザインすることで、建築家へ道の緒に就いたばかりであった。橋梁課長田中豊は、若き山口の才能を認め、「黒部川第2発電所」の設計者を探していた日本電力土木課長(後の取締役 技師長)の石井頴一郎に山口を推挙した。山口は、黒部川第二発電所(❽)や上流の「小屋平ダム」の設計を依頼され、設計のためにドイツに派遣され、グロピウスに師事し後年の礎が築かれるなど、山口が大きく飛躍する礎となった。
 黒部渓谷のトロッコ列車ではこれら施設を見ることができる。モダニズムの先駆けとなった白亜の発電所の前には、赤い鉄橋が架設されている。「目黒橋」というが、これも山口の設計である。わが国唯一の鉄道のフィーレンデール橋である。この橋梁について山口は、後年長谷川堯との対談(「兄事のこと」『建築をめぐる回想と思想』)の中で、以下のように述べている。「発電所に渡る橋がありますよ。当時、土木はブレーシングをかけたがるから、私が全部それとって、エンドのカーブを余計にしたりしてね、スマートですよ」。山口は、「豊海橋」で採用されたフィーレンデール橋に惚れ、自らの出世作となった黒部川第二発電所の玄関口に架かる橋梁に、「ブレーシングをかけた橋」(=トラス橋)ではなく、フィーレンデール橋を配したのである。骨太で煩雑さがなく飾りのないフォルム。モダニズムの旗手となった山口が憧れたのが納得できる橋梁形式である。
豊海橋が伝えるもの
 「豊海橋」の設計時、設計者の福田武雄は22~23才、そのパースを描き斬新な構造に憧れて自らも黒部川に設計した山口文象も同年代であった。彼らが優秀であったことは言を俟たないが、このように素晴らしい橋梁を、若手技術者が自在に設計するなど現代では考えられない。そして震災復興では、世界最先端の形式の橋梁を東京市内に散りばめるように架けていった。多様性の時代といわれながら、架設する橋梁の99%が桁橋になってしまった現代の橋梁技術者からみると夢のような時代であった。
 「橋の魅力」とは、構造の多様性にこそあると思う。そしてそれは技術の裏付けがあってこそ成し得ることができる。現代のように、橋梁形式を経済性(=安さ)だけで決めるシステムでは、復興橋梁のように多くの人に愛され地域の誇りとなるような橋は生まれないし、技術力も衰退する一途であろう。
 「豊海橋」のような優れた土木遺産は生きた教科書である。このように素晴らしい橋を眺めながら、私たち技術者は何をなすべきなのかをもう一度考えて見ようではないか。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)