連載:Kure散歩|東京の橋めぐり ㉒
四谷見附橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶1991/平成3年に架設された現在の四谷見附橋(撮影:2021年、紅林)。
四谷見附橋の来歴
 JR中央線を四ツ谷駅で降りホームに立つと、眼前に鮮やかな煉瓦の壁が拡がる。仰ぎ見ると上空には緑色の鋼桁が架かる。国道20号が通る「四谷見附橋」である。現在の橋は、1991(平成3)年に架設された橋長44.4mの鋼πラーメン橋(❶)。隅石に花崗岩を配した迫力ある煉瓦壁は橋台で、現橋への架け替えにあたり、1913(大正2)年に架設された旧橋の煉瓦橋台のイメージを踏襲し、RC躯体に煉瓦を貼ったものである。
 現在ホームのある箇所は、江戸時代には江戸城の外濠であった。江戸時代には、江戸城から幹線道路が放射状に延び、堀を渡る36箇所に見附(城門)が設けられていた。当該箇所には甲州街道が通り「四谷見附」が置かれていた。外敵を防ぐために石垣を立ち上げて桝形を設け、甲州街道はクランク状に曲げられ、外濠を現在の新「四谷見附橋」付近で渡っていた。外濠すべてを橋で越えていたのではなく、大半は土塁で、門前に短い橋が架設されていた。
 1872(明治5)年に城門は撤去されたが、道路線形はクランクのままであった。土塁も残され、1894(明治27)年に開通した甲武鉄道(現JR中央線)は、この土塁にトンネル(四谷隧道)を掘って敷設された。現在の位置に橋が架設されたのは1913(大正2)年で、東京市の都市計画である「市区改正」により甲州街道が拡幅され、これにあわせてクランクを解消するために「四谷見附橋」が新設された。
❷架け替えられる前の旧四谷見附橋(『建築写真類聚 デテール集 橋梁』)。1913/大正2年に開通直後の姿。
❸旧四谷見附橋橋梁一般図(東京都建設局蔵)
❹図面左下に書かれた作成者のサイン。「Y Kawaji」と記されている。その下に1910年12月1日の日付がある。
❺構造設計者の川地陽一。
旧四谷見附橋の誕生
 「四谷見附橋」は、1913(大正2)年10月5日に開通した。橋梁形式は鋼ソリッドリブ2ヒンジアーチ橋(❷)で、橋長37.2m、幅員22.0m、鋼材は米国のカーネギー社製で、製作は高橋鉄工所(1944/昭和19年 大日本精機→1946/昭和21年 石川島精機)が担った。
 ❸は「四谷見附橋」の竣工時の橋梁一般図である。図面の左下には、「Designed & Drawn by Y Kawaji Dec.1.1910」と記されている(❹)。「Y Kawaji」は、図面の作成者であり、橋の構造設計である東京市橋梁課技師の川地陽一(❺)のサインである。川地は建築雑誌『建築世界』(1913/大正2年11月)に「四谷見附橋新築工事概要」を寄稿しており、同誌に東京市営繕課長 田島穧造(意匠設計)とともに、設計監督として紹介されている。
 川地は1883(明治16)年に東京市牛込に生まれ、1908(明治41)年に東京帝国大学土木工学科を卒業して東京市橋梁課に奉職し、翌年には技師に昇格した。「四谷見附橋」は1910(明治43)年2月に市議会の議決を経て事業着手したことから、大学を卒業してわずか2年目で、このような大規模な橋梁を任されたことになる。「四谷見附橋」の開通後は内務省に転じて宮城県、富山県に配属され、1923(大正12)年に関東大震災が発災すると、復興局土木部東京第一出張所に異動し、技師として都心部の道路や橋の復興に尽力した。その後は大阪市土木課長を経て、1932(昭和7)年に日産土木大阪出張所長に転じた。
 意匠設計を担当した田島穧造は、1870(明治3)年に奈良県に生まれ、1892(明治25)年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業して、陸軍建築部技師、台湾総督府技師などを経て1910(明治43)年に東京市営繕課長に就き、「新大橋」や「鍛冶橋」などの意匠設計に携わったが、1917(大正6)年に在職中に死去した。
❻旧四谷見附橋の横桁端部、鉛直材上部の飾り(『建築写真類聚 デテール集 橋梁』)。
❼旧四谷見附橋の意匠図(採用案)(東京都建設局蔵)
❽旧四谷見附橋の意匠図(比較案)(東京都建設局蔵)
❾旧四谷見附橋の橋名板は高欄中央に設置されていた(『建築写真類聚 デテール集 橋梁』)。
旧四谷見附橋の特徴
 「四谷見附橋」の最大の特徴は、日本橋と並び称された橋上の華麗な意匠にある。川地は「四谷見附橋新築工事概要」に意匠について記している。その中から主な記載を以下に示す。
①「橋梁の構造をなるべく外部に表し、単に構造的装飾を施した」
 アーチ橋は、人や車の通行を支える主桁を、アーチから鉛直材やブレス材を立ち上げて支える。明治時代には、この支える部材が煩雑であると好まれず、これらをアーチスパンドレルに鋳物の化粧板を設置することで隠していた。それに対し「四谷見附橋」では、化粧板を設置せずに構造を前面に出し、横桁端部に鋳物の装飾を施した(❻)。
②「本橋の位置東宮御所前なるを以って対象上『仏国式手法』を施した」
 「四谷見附橋」は、片山東熊が設計し1909(明治42)年に完成した「東宮御所」(現 迎賓館)と近接している。この記載からも、「四谷見附橋」の意匠設計は、「東宮御所」の建築様式(ネオバロック様式)を考慮して行われたことが分かる。❼は「四谷見附橋」の高欄、橋灯などの意匠を描いた図面である。一方、❽はその比較案であるが、この案は高欄の格子模様や橋灯など英国のゴシック風のデザインであったため、「東宮御所」とデザイン上調和しないと判断されたことが、採用を見送られた理由と推察される。
③「高欄は八尺間にイオニア柱の簡単に変形せる鋳鉄製間柱を建て、その間に鉾を縦に連ねこれに仏国式の彫刻を組み合わせたるものを取り付け、高欄中央部には青銅製橋名板を取り付く」
 高欄のデザインもフランス風を意識したことが分かる。「四谷見附橋」では、通常親柱に設置する橋名板を、高欄の中央部に設置している(❾)。これは他では見られない、「四谷見附橋」ならではのデザインである。
❿「長池見附橋」と橋名を変え多摩ニュータウンに移設された旧四谷見附橋(撮影:2024年、紅林)。
⓫移設にあたり、高欄や橋灯、失われていた横桁端部の飾りなどが建設時の意匠や構造に忠実に復元された(撮影:2024年、紅林)。
⓬四谷見附橋の橋灯(撮影:2018年、紅林)。旧橋の高欄、橋灯は修復され現在の四谷見附橋に再使用されている。
四谷見附橋の移築保存と架け替え
 1980(昭和55)年頃、建設省と東京都は国道20号線の拡幅を進めており、それに伴い「四谷見附橋」の架け替えを計画していた。しかし地元住民の橋への愛着は深く、橋を保存して欲しいとの声が上がった。その要望を受け、建設省と都は土木学会に「四谷見附橋」の土木史的調査を委託した。学会では都市工学・土木史の権威の新谷洋二東京大学教授を委員長、橋梁工学の権威の田島二郎埼玉大学教授を副委員長とする調査委員会を設置し、橋の歴史的価値の検証を行った。そして前述した近接する「迎賓館」との意匠の関係性などが明らかになり、委員会は土木史上たいへん貴重な構造物であると提言した。
 田島は調査を通じて橋の歴史的価値を強く認識するようになり、合わせて健全性も確認できたことから、どうにか保存できないかと考えるようになった。そして単行本『四谷見附橋物語』(1988/昭和63年、四谷見附橋研究会 田島二郎ほか)を刊行するなど、各界に「四谷見附橋」の意義と保存の必要性を訴える運動を展開。これが功を奏し、建設省と都は、橋を八王子市内で建設中であった多摩ニュータウンの長池公園に移設し保存することを決定した。それまで、古くなった土木構造物は無用と見なされ撤去されるのが常であった。しかし「四谷見附橋」では、橋に歴史的、技術史的価値を見出し、それを保存するという道を拓いたのである。
 建設省と都は、橋の移設方法の検討を再度土木学会に委託した。学会では今度は田島を委員長、新谷を副委員長として移設委員会を立ち上げ、解体・再建方法の詳細な検討が行われた。田島はこの橋を後世に完全な形で残すべきと考え、失われていた横桁端部の飾りなど建設時の意匠や構造を復元することと、橋を移設組み立てる際には、溶接やボルトではなく、建設時に使用されたとの同様にリベットを用いることなどを提言した。
 旧橋は1993(平成5)年に八王子市内の長池公園へ移設され、「長池見附橋」と橋名を変え現存している(❿、⓫)。高欄や橋灯、横桁端部の飾りは、オリジナルに忠実に復元された。NHKの朝の連続テレビドラマ「虎に翼」で、ロケ地として度々登場したため、ご覧になった方も多いかと思う。
 なお、旧橋に使用されていた親柱や高欄、橋灯は修復され、現在の「四谷見附橋」に再使用されている(⓬)。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)