連載:Kure散歩|東京の橋めぐり㉕
お茶の水橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶ 1931/昭和6年完成の現在の「お茶の水橋」(2代目)。近年耐震補強工事が行われ、橋脚部にX型のブレース材が取り付けられたが外観に大きな変化はない。(2025年 紅林撮影)
❷ 江戸時代の「神田上水掛樋」。下流から上流を眺める。奥に見える橋は水道橋。(「東都名所 御茶之水之図」初代 歌川広重筆、紅林所蔵)
❸ 1882(明治15)年に東京府に申請された石造アーチ橋。建設されず。(東京都公文書館所蔵)
❹ 皇居内に架設されていた鉄製吊り橋「山里釣橋」。撤去され競売に掛けられて当該地への架橋が目論まれたがこれも実現しなかった。(紅林所蔵)
架橋までの流れ
 御茶の水の橋といえば、神田川の渓谷に虹を描くように架かるコンクリートアーチ橋の「聖橋」をイメージされる方が多いと思うが、もうひとつ東京を代表する名橋がある。「お茶の水橋」である(1931/昭和6年、❶)。現在の橋は、「聖橋」(1927/昭和2年)と同様に関東大震災の復興で架けられた。
 橋の下を流れる神田川は、江戸時代初期に徳川幕府によって、本郷台地を開削して造られた人工河川である。主に伊達政宗が工事を担ったことから、江戸時代には仙台堀と呼ばれていた。川(堀)幅が広く谷も深いことから架橋が困難で、江戸時代には「水道橋」寄りに神田上水の掛樋(水管橋、❷)が架けられた以外は、神田須田町の「昌平橋」から「水道橋」の1.5km間に橋はなかった。
 明治時代になると架橋の動きが出てくる。1882(明治15)年、民間から東京府に、有料橋架設の申請がなされた。この橋は、支間長19.8m、幅員5.4m、水面からの高さ12.6mの東京随一の巨大な石造アーチ橋で、熊本にある国宝「通潤橋」のように、アーチの両側を鞘石垣で補強した構造(❸)であった。東京府は申請内容について、米国留学から帰国し当時国内随一の橋梁技術者であった東京府土木部技師長 原口要に照査させた。原口は設計の不具合を指摘し、さらに鉄橋(ラチストラス)との比較も行い、鉄橋の方が架橋条件に適し経済性でも勝ると報告した。申請者に改善を求めたが、工費の折り合いがつかず許可されなかった。
 1885(明治18)年には、皇居内に架設されていたわが国初の鉄製吊橋の「山里釣橋」(❹)が撤去されて競売にかけられ、東京府議会議員で実業家の小原勝五郎が落札し、当該地への架橋を目論んだがこれも実現には至らなかった。
 さらに1887(明治20)年にも、民間から鉄橋架設が申請されたが、幅員が狭かったことや工費が25,000円と高額であったこと、さらには民間による有料橋架設は明治初期には奨励されたものの、この頃になると適切ではないとの意見が大勢を占めるようになり、架橋は見送られた。
❺ 1891(明治24)年に架設された初代「お茶の水橋」側面図(『工学会誌』1893年3月号)
❻ 1891(明治24)年に架設された初代「お茶の水橋」。右上の洋館が御茶ノ水駅。当時は橋の「水道橋」寄りに駅舎があった。(紅林所蔵)
❼ 1923(大正12)年の関東大震災で木造だった床版などを焼失した初代「お茶の水橋」の復旧状況。「お茶の水橋上より半潰のニコライ堂を望む」とある。(紅林所蔵)
「お茶の水橋」の誕生──1891年
 1889(明治22)年に日本初の都市計画である「東京市区改正条例」が発布され、神田川を渡る新橋が都市計画に位置づけられた。これを受け東京府は架橋事業に着手し、設計を経て1890(明治23)年11月27日に着工、1891(明治24)年10月15日に開通した。市区改正条例発布から時を置かずに事業着手が図られたことからも、いかにこの新橋が望まれたものだったかを推察できる。
 初代「お茶の水橋」は全長69.8m、幅員11.4mで3径間からなり、橋梁形式は、中央径間は支間長45.7mの錬鉄製のピン結合の上路プラットトラス橋、両径間は支間長10.8mの鈑桁からなっていた(❺、❻)。国内初の上路式トラス橋で、設計は東京府技師の原龍太が、監督は金井彦三郎が担った。橋台、橋脚と床版などの施工は清水建設の前身の清水組(清水満之助)が、鉄桁の製作と架設はIHIの前身の石川島平野造船所が請け負った。なお材料の鉄材は、ベルギーのライトメイヤー社で製造、輸入された。使用した鉄材の総重量は117トン、工事費は34,282円。神田川の渓谷をダイナミックに渡る「お茶の水橋」は、東京の新名所となり多くの見物人で賑わった。
 関東大震災(1923/大正12年)では、地震の揺れで落橋はしなかったものの、床版やそれを支える縦桁や横桁が木造であったことから、周辺の火災が延焼してこれらが焼失し通行不能に陥った。震災後応急復旧(❼)を実施したが、火災の熱で鉄材は変形しダメージは大きかった。
❽ 御茶ノ水橋開通記念絵葉書。奥に「聖橋」(1928年)が見えている。(紅林所蔵)
❾ お茶の水橋(鋼ラーメン橋)橋梁一般図(東京都所蔵)
❿ 「お茶の水橋」の設計者、東京市橋梁課設計係長小池啓吉。(小池修二氏所蔵)
⓫ 小池啓吉の設計により「お茶の水橋」に先行して建設された同形式でサイズの小さいの「外苑橋」(1928/昭和3年)。(2016年 紅林撮影)
⓬ 耐震補強工事にあわせて復元された橋灯。(2025年 紅林撮影)
鋼ラーメン橋の2代目「お茶の水橋」──1931年
 1931(昭和6)年、初代「お茶の水橋」は、関東大震災で被災したことに加え、復興計画で道路幅が有効幅員22mと大幅に拡幅されることになったことから架け替えられた。新橋は橋長80mで、中央径間の橋梁形式は長さ30.48mの鋼πラーメンで、側径間は長さ25.91mと22.0mの鋼鈑桁でゲルバー(カンチレバー)構造で受けていた(❽、❾)。設計者は、東京市橋梁課の設計係長小池啓吉(❿)と徳善義光技師で、鋼桁は横河橋梁製作所(現 横河ブリッジ)が製作し、橋台などの施工は中央土木株式会社が請け負った。
 2代目「お茶の水橋」の設計時には、国内に鋼πラーメン橋の施工事例はなかった。世界的にも最新の橋梁形式であり、その採用理由について小池啓吉は、「御茶之水橋架替工事」(『土木建築雑誌』1930/昭和5年11月)に以下のように記している。
 「まずどんな橋種を選ぶかが問題で、すぐ考えに浮かぶことは、下流の聖橋との対照である。今でこそ聖橋がどんな風に環境をリードしているかを一目瞭然だが、本橋の設計に着手した際は、復興局で模型や図面を見、或いは現場を見るなりして、まず想像を馳せるばかりであった。今から考えると第三者は笑いごと位にしか思ってくれないだろうが、設計者の立場からは当時は決してそんなものではなかった。何分聖橋の架設位置はお茶の水橋より大分高い。しかも鉄筋コンクリートアーチ橋というからには出来上がりは相当雄大な観のものに違いないことは肯かれ明瞭、かつ工事の着手も復興局が先になることも明らかで、我々(東京市)は不利な立場にたっていた。こんな具合でとにかく橋種は鉄橋にして、軽快な形式としてなるべく曲線を用いないものにしようという考えであった。一方施工の方法も考えなくてはならない。在来橋がなくて、新に架橋するならばいざ知らず、駿河台から本郷に行く唯一の道路なるが故に、この道路を止めることということは余りに技術者として術のないことだ。いまひとつ下を通る中央線が問題だ。例えば1径間のトラス橋や(3径間の)バランストアーチ橋では施工の際、鉄道上がなかなか簡単にいきそうにない。なるべく主構を中央部においた3径間のものにした方が良い。以上のような事情のもと、以下の5案、①バランストアーチ橋 ②単純鈑桁橋 ③連続鈑桁橋 ④アーチ+鈑桁橋 ⑤ラーメン鈑桁橋 について比較検討を行った。当時、お茶の水橋はアーチに限ると言われた方もあったが、結局⑤ラーメン鈑桁橋を採用した。この形式は今までに経験のない初めての計画なので、ちょっとどんな風になるかという不安があったので、小手調べとして同形のものを、明治神宮の外苑橋(⓫)に行ってみて、大いに意を安んじたのである。それに場所柄、一般交通は無論電車も自動車も一日たりとも止めたくないという考えであった」。
 以上から、先行して復興局が施工するコンクリートアーチ橋の「聖橋」との景観的バランス、下を通る鉄道や歩行者や自動車動線の確保などの施工条件をもとに、現在の橋梁形式が採用されことが分かるが、御茶ノ水のような渓谷であれば、構造的にも景観的にも、前文中に「お茶の水橋はアーチに限る」という言もあったように④アーチ+鈑桁橋が妥当なところだったと思う。それを、⑤ラーメン鈑桁橋を、国内初の設計、施工で構造に不安があったため、サイズの小さい「外苑橋」に架けて検証をしてまで採用したのは、「聖橋」を架設した復興局橋梁課に対する東京市橋梁課の対抗心、小池啓吉の橋梁技術者としての矜持のようなものを感ぜずにはいられない。「聖橋」と「お茶の水橋」は、隅田川の橋梁群を除けば、震災復興で最大の橋梁であった。隅田川で復興局は「永代橋」、「清洲橋」、「蔵前橋」、「駒形橋」、「言問橋」の幹線道路橋を架設。一方東京市が架設したのは、「両国橋」、「厩橋」、「吾妻橋」で、構造的にも景観的にも市民の評価でも後塵を拝していた。それを挽回する最後のチャンスが「お茶の水橋」だったと感じていたのではないだろうか。
 工事は、旧橋に隣接して下流側に新橋の半幅員を先行して架設した。まず神田川上に木造トラスの工事桁を架設し、神田川を使って船で運搬した鋼桁をその上に引き上げて中央径間を組み立てた。続いてこの中央径間上で側径間の鈑桁を組み立て、夜間の終電後に鉄道(現JR中央線)上を架設した。その後、新橋に交通を切り回した後に旧橋を撤去し、旧橋の架かっていた上流側に、同様の方法で残り半幅員をかけるという2段階施工で行われた。こうすることで、1時間あたり4,000人に及ぶ歩行者や、鉄道も止めることなく架設が終了した。
 「お茶の水橋」は近年耐震補強工事が行われ、橋脚部にX型のブレース材が取り付けられたが、外観に大きな変化はなく、この工事に合わせ失われていた橋灯(⓬)も復元され、塗装も当初のグレーに戻され、竣工時の姿が蘇った。間もなくJR御茶ノ水駅の改良工事も終わり、神田川の上を覆っていた桟橋も撤去され、工事で十数年途絶えていた「聖橋」と「お茶の水橋」の競演も復活する。「聖橋」の雄大な曲線と小池が目論んだ「お茶の水橋」の直線的でモダンなフォルム。改めて2橋が演ずる優れた都市景観を楽しんでみようと思う。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)