VOICE
高妻 昭子(東京都建築士事務所協会会誌専門委員会・江戸川支部)
戦後80年
私は「もはや戦後ではない」と宣言されてから数年後に生まれたが、子どもの頃にはまだ傷痍軍人が池袋の駅の前で物乞いをしていたり(この人たちは恩給がもらえない朝鮮籍の方だったのかも……)、少女漫画には戦争モノがよく掲載されており、戦争の悲惨さはまだ身近にあった。
 30代で私を産んだ母は12歳から16歳に第2次世界大戦を経験し、その母を40代で産んだ祖母(母は12人兄弟の末っ子だった)は第1次世界大戦も経験しており、人生では1度は戦争を経験しないといけないのか…と、子ども心に戦々恐々としていた。
 しかし、小学校3年生の社会科の授業で「あたらしい憲法のはなし」の副読本を見て、武器などが大きな瓶? に捨てられている絵に衝撃を受けた。「そうか、戦争はもうしなくていいんだ!」と心の底から安堵したことを覚えている。
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1945年3月10日は東京の下町が燃え尽きた東京大空襲の日。約10万人が亡くなり、罹災家屋は約27万戸と甚大な被害を受けた。この後名古屋、大阪と焼夷弾による空襲は続いていくわけだが、被害を大きくした要因は「防空法」と言われている。
 1937年制定のこの法律は日米開戦直前の1941年11月に都市からの退去禁止と空襲時の応急消火義務が追加され(罰則付)猛火からも逃げてはならないとなった。当時改正を主導した佐藤賢了陸軍省軍務課長は「空襲の実害はたいしたものではない」と国会答弁し、各新聞は国の宣伝を報じた。日本軍は既に1937年に中国の重慶などを爆撃しており、その威力を十分知っていたにもかかわらず安全神話を振りまいた。
アメリカは焼夷弾を保有せず「高性能爆弾によって限定目標を破壊する」という理念を固持していたが、ドイツ軍の焼夷弾によるロンドン大空襲が行われた1940年、一部軍需専門家によって導入され、改良を重ねた。
 1943年にはソルトレイクシテイ南西のダグウエイ実験場で焼夷弾の燃焼実験のため日本とドイツの住宅の建設を始める。家屋はベルリンや東京にあるものとすべての点において同様に建築された。
 日本家屋の建築設計についてはA・レーモンドがあたり、畳・ちゃぶ台・座布団・火鉢・洗い桶に至るまで再現された。砂漠の中にドイツ住宅6軒と日本の長屋(3間×4間の2階建)12棟が完成する。この建物に対し、M50・M52・M69の3種類の焼夷弾による実験を5月~9月に行い(破壊されるや否や、満足な結果を得られるまで次々と建てられた)、結果を以下に分類した。
A:6分間の消火活動によっても消火不可能で住宅を全焼させた。
B:消火活動を行わなければ住宅を全焼させた。
C:全焼には結びつかない程度。
 結論として、M69が最も日本家屋に対して効果あり(A68%)と評価された。
レーモンドは1917年に徴兵された際、情報将校(スパイ)となる。第一次大戦終了後の1919年にF.L.ライトに誘われ来日。以後戦前・戦後にわたり、日本の建築界に多大なる功績を残した。
 レーモンド自伝によると燃焼実験について「その目的は、できるだけ小型の軽量爆弾をつくり、飛行機で大量に運搬ができ、それにより多くの飛行士の生命を助けることにあった。私と妻にとって、日本を負かす意味を持つ道具をつくることは、容易な課題ではなかった。日本への私の愛情にもかかわらず、この戦争を最も早く終結させる方法は、ドイツと日本を可能な限り早く、しかも効果的に敗北させることだという結論に達した」とある。このコメントについての私見はあえて述べない。
 今週末(2月22日)、レーモンドの「聖アンセルモカトリック目黒教会」(https://new.catholicmeguro.org/)の見学会に参加する。戦争と平和の意味を考えようと思う。

参考書籍:
E. バートレット・カー著、大谷勲訳『戦略・東京大空爆:一九四五年三月十日の真実』
三沢浩『アントニン・レーモンドの建築(SD選書246)』
ロバート・M・ニーア著、田口俊樹訳『ナパーム空爆史 日本人をもっとも多く殺した兵器 ヒストリカルスタディーズ』
(高妻 昭子)
高妻 昭子(こうづま・あきこ)
東京都建築士事務所協会江戸川支部副支部長、(株)大和創建一級建築士事務所
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