
❶ 江戸時代の浜御殿「浜大手門」と「浜大手門橋」。(紅林蔵)

❷ 関東大震災前の「浜離宮大手門」と「大手門橋」。(絵葉書、紅林蔵)
浜離宮
江戸由来の汐入の池が拡がる回遊式庭園と現代的なビル群。浜離宮は、現代の東京を代表する景観として、都民は無論のこと近年では多くのインバウンド客で賑わう。浜離宮の歴史は、江戸時代前期まで遡る。四代将軍徳川家綱の弟で甲府宰相と呼ばれた松平綱重は、将軍家の鷹狩場であった芦原が拡がる「芝」の海岸線を下賜されると、埋め立てを行い1654(承応3)年に下屋敷として別邸を建てた。その後、綱重の子の綱豊(家宣)が6代将軍になると将軍家の別邸となり「浜御殿」と命名。度々の改修を経て11代将軍家斉の代にほぼ現在の姿になったという。明治維新後は皇室が所有し「浜離宮」と改名。1869(明治2)年には敷地内にわが国初の迎賓館である「延遼館」が建設され、グラント米国前大統領をはじめ多くの賓客が滞在したが、この建物は老朽化から1889(明治22)年に撤去された。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物や樹木が焼失したが、終戦直後に東京都に下賜され、1946(昭和21)年4月から都市公園として一般公開された。
浜大手橋
現在の浜離宮は、東側は海に面し残る3方は濠に囲まれるが、江戸時代は東と南側が海に面し、西側の濠は汐留川の最下流部で、北側の濠は築地川の最下流部であった。なお汐留川と築地川は、昭和30年代に首都高速の建設などで埋め立てられるまで存在した。浜離宮への出入口は、江戸時代も現在と同じく北西隅と西側の2カ所に設けられていた。❶は北西隅の門を描いた江戸時代の浮世絵で、「浜大手門」と記されている。この門は一般的な武家屋敷門とは異なり、城郭に見られる桝形構造であった。当時「浜大手」と呼ばれたのは、ここが江戸城にとって江戸湾に向けての海道上の見附だったからで、まだ月島や晴海、芝浦などの埋め立て地もなく海に突き出るような立地で、江戸城の防御上重要な「出城」の役割を担っていたと考えられる。これは、14代将軍家茂が上洛の帰路や、15代将軍慶喜が大阪城からの退散に海路を用いた際には、敷地内に設けられた石造の艀の「将軍お上がり場」から上陸したことや、幕末には海防上の大砲が設置されていたことが物語っているといえよう。
江戸時代も、現在と同様に門前に橋が架かり、現在の「南門橋」(浜離宮大手門橋)は「浜大手門橋」と呼ばれていた。橋の創架は、安藤菊二の『浜庭薬園考』によれば1669(寛文5)年という。
❷は関東大震災前の写真であるが、立派な城門がありその前に木橋が架けられおり、高欄には江戸城の濠に架かる橋と同様に擬宝珠が付けられている。橋脚は石造に見え、両岸から石垣を張り出して架設しており、1921(大正10)年に浜離宮を計測した『浜離宮総図』によると、橋長は20mほどで現在の半分程度だった。この橋は城門とともに、関東大震災の際に火災で焼失し、震災復興で現在の形に架け替えられた。
浜離宮の北側にあるにも関わらず「南門橋」と呼ばれるのは、明治時代に浜離宮の北側には海軍省(後の築地市場の敷地)があり、その南門前に架かる橋が「南門橋」と呼ばれ、「浜離宮大手門橋」に隣接しており、この橋名を震災復興後に移したためと想定される。

❸ 現在の南門橋。(2025年、撮影:紅林)

❹ 施工中の南門橋。(『南門橋改築工事落成記念絵葉書』紅林蔵)

❺ 竣工した南門橋。(『南門橋改築工事落成記念絵葉書』紅林蔵)。現在は失われている橋灯やアーチ側面の橋側灯がある。

❻ 南門橋一般図(『本邦道路橋輯覧』)(紅林蔵)

❼ 橋脚に設けられた半円形のアルコーブ(2025年、撮影:紅林)

❽ 橋脚に設けられたアルコーブを支える柱。下方ほど拡がっている。(2025年、撮影:紅林)。

❾ 半円が連続するアーチスパンドレル上部。(2025年、撮影:紅林)
南門橋の構造
現在、浜離宮を訪れる人の多くは、JRや地下鉄の駅に近い「南門橋」を利用する。橋を渡る際に横から眺める人はまずいないと思う。しかし、橋や建築に興味がある方は、ぜひ立ち止まって横から眺めて欲しい。きっと、その美しい姿に驚かれるであろう。欧州の町にあってもなんら遜色がない、正統派の古典様式のデザインのアーチ橋。私は国内でも屈指の美しいアーチ橋だと思う(❸)。この橋は公園へのアクセス橋であるが、震災復興で「永代橋」や「清洲橋」など主要道路橋の工事を担った内務省復興局橋梁課の手で施行された(❹)。これは離宮の玄関口に架かる橋だったゆえと思われる。完成は1926(大正15)年1月(❺)。橋梁形式は一見石造アーチ橋に見えるが、アーチスパンドレルに花崗岩を貼った鉄筋コンクリートアーチ橋である(❻)。橋長45.2m、支間長20m、幅員11.2mで、バスなどの大型車も通行可能である。
この橋の最大の特徴はデザインで、建築様式はロマネスク調といわれ、橋脚部と橋台には半円形のアルコーブが設けられ(❼)、それを支える円筒形の柱は下方ほど拡がりを見せ(❽)、アーチスパンドレルの張石の上部には連続した半円形の彫刻が施されている(❾)。現在は失われているが、竣工時には4基の橋灯とアーチクラウンには橋側灯が設置されていた(❺)。

❿ 復興局職員録(土木部橋梁課)(紅林蔵)。山田守(嘱託)や岡村瀧三(山口文象 技術雇)の名が見える。

⓫ 壁高欄端部。橋名も刻まれていない。(2025年、撮影:紅林)
意匠設計者 山口文象
関東大震災の復興での橋梁の設計は、今日のように土木技術者だけで行うのではなく、構造設計は土木技術者、意匠設計は建築家というように両者が協同して実施した。建築家を確保するにあたり、復興局土木部長の太田圓三と橋梁課長の田中豊は、若手建築職員を多く抱えた逓信省営繕部に掛け合い、そこから戦後「日本武道館」や「京都タワー」を設計する大建築家となった山田守を、続いて後年わが国のモダニズム建築の第一人者となった山口文象(当時 岡村蚊象)らを異動させた(❿)。彼らは、橋の高欄や照明、親柱などの意匠設計を行ったことに加え、お茶の水の「聖橋」のパラボラアーチを始めとするアーチ橋のスパンドレルデザインや、橋全体のフォルムを整える作業なども行った。「南門橋」は、山口文象が意匠設計を担った。これについて山口は後年、長谷川堯が山口へのインタビューを収めた「兄事のこと」(『建築をめぐる回想と思索』1976年、新建築社)で、「逓信省から浜離宮に入るところに、ロマネスク風の橋がいまも残っております。あれが一番最後だと思いますが、あれは橋梁課長の田中さんが『今度はモダンでなくて、あそこは離宮なんだからとにかく様式的なものをやってくれ』というのでやむおえずやりました」と語っている。
また、「南門橋」の完成直後に書いた「橋梁を語る」(雑誌『工芸時代』(1927/昭和2年5月号)では、当時の一般的な橋梁の意匠設計について、「私のここに謂う美的価値転換とは、虚飾を捨てて橋本来の姿に帰れというに他ならない。現代人の誇りである鉄骨、鉄筋コンクリート構造をなぜ骨董的価値しか持たないルネサンスで包みゴシック様式を以って覆わなければならないのか。現代の橋は余りに誤られたる建築のために毒せられ、所謂芸術性のみを偏重して本質を軽視し没却してきた」と辛口の批評をしている。
古典様式の「南門橋」のデザインと、山口のモダニズムの作風には乖離がある。前述したインタビューや論文から、山口にとって「南門橋」のデザインは、意に沿うものでなかったことがうかがえる。
もっともそのような中にあっても、山口らしさは見てとれる。前述した「橋梁を語る」では、建設されつつあった復興橋梁について以下のような感想を述べている。
「何れの橋にも灯柱が4、5本宛立っていること、これにその橋の中心を置いているかの如く、装飾付加に莫大なる経費をかけていることである。なんのためにこの柱を立て、飾りつけをしなければならないのか……」。
ここで述べている「灯柱」とは、橋の4隅に置かれた照明を設置した親柱と思われる。大正期の橋では特に親柱のデザインに注力し、巨大な親柱がつくられた。震災復興でも、由緒ある橋ではこの方針は継続された。しかし、震災復興で山口が意匠設計を行った橋、たとえば「永代橋」には親柱がなく、山口が会心の作と述べている「数寄屋橋」(1958/昭和33年撤去)では壁高欄の端部を親柱に兼ね、そして「南門橋」でも目立った親柱はなく橋名さえ刻まれていない(⓫)。
東京2020オリンピック開催に向け舛添要一都知事は、「延遼館」の復元を発表した。その際に、都庁内では焼失した「大手門」の復元の話も話題になったというが、門を建設すると「延遼館」建設の重機や資材運搬の支障になると見送られたという。結局、「延遼館」の建設自体も、知事辞任に伴い棚上げとなった。復元された「大手門」も見てみたかったが、和式の門にはロマネスク調の「南門橋」は似合わないであろう。上屋が焼失し残された石垣は、現代アートのような佇まいにも見え、それゆえ山口がデザインした橋にマッチしたのだと思う。この橋の意匠設計を行った際、山口文象は22~23歳。この橋を眺めていると、山口の才能の素晴らしさを改めて感じる。

紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社多摩橋梁担当課長、室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/1985年 名古屋工業大学卒業後、入都/奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/平成29(2017)年度に『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で、令和6(2024)年度に『東京の美しいドボク鑑賞術』で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『浮世絵を彩った橋』(2025年4月、建設図書刊)
1959年 東京都八王子生まれ/1985年 名古屋工業大学卒業後、入都/奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/平成29(2017)年度に『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で、令和6(2024)年度に『東京の美しいドボク鑑賞術』で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『浮世絵を彩った橋』(2025年4月、建設図書刊)
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