Kure散歩|東京の橋めぐり 第16回
千住大橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶千住大橋橋門構(撮影:2013年、紅林)
❷「大橋」とのみ記された橋名板(撮影:2013年、紅林)
千住大橋と千住の誕生
 豊臣秀吉から関東転封を命じられた徳川家康は、1590(天正18)年8月1日に江戸へ入府したといわれる。当時の江戸は寒村で、現在の墨東地区や都心部の多くも海域であった。家康は、埋め立てなどで城下町を建設するのと並行して街道整備も進めた。
 大手門からの道は直進すると「常盤橋」を経て奥州(日光)街道へと続いていたことや、東海道が多摩川を渡る「六郷橋」の架設が1600(慶長5)年だったのに対し、奥州街道が隅田川を渡る「千住大橋」の架設は1594(文禄3)年と6年も早かったことを勘案すると、天下を取るまでの家康は、新領地となった関東北部の統治を重視して街道整備を進めたであろうことが読み解ける。
 1594(文禄3)年に初めて架設された「千住大橋」の架橋箇所は現地点より200mほど上流で、工事は関東郡代の伊奈忠治が奉行に就き行われたとされる。架設当初は単に「大橋」と呼ばれていたが、やがて下流に「両国橋」が架かり、この橋が大橋と呼称されるようなると、区別化を図るため「千住大橋」と呼ばれるようになった。現在も橋門構の上部には、「大橋」とのみ記された橋名板が設置されている(❶、❷)。
 江戸時代になると、橋の両岸の日光街道沿いに宿場町(南千住、北千住)が形成された。当時の千住は江戸市内ではなく、江戸を出て最初の宿場町として、東海道の品川、甲州街道の新宿、中山道の板橋と並び、江戸4宿のひとつとして栄えた。なお千住が東京市内になるのは、15区であった旧東京市が、1932(昭和7)年に隣接する郡部を合併して大東京市が発足してからである。
❸『第四号国道同大橋改修工事概要』(紅林所蔵)
千住大橋の不流伝説
 「千住大橋」には、「不流伝説」がある。これは、橋の架設に当たって伊達政宗が、虫がつかず耐久性が高いといわれたコウヤマキ(高野槙)を調達し橋杭に使用したため、腐朽せずに出水にも耐え、1885(明治18)年7月の水害で流失するまで、江戸期を通じ流失しなかったとするもので、今も語り継がれている。
 しかし、1927(昭和2)年に現橋が架設された際に、事業者の東京府が発刊した『第四号国道同大橋改修工事概要』(❸)には、「流失あるいは焼失により架換えたること数度に及び今日に至れり」と記載されている。また1936(昭和11)年、39(昭和14)年に発行された主に江戸時代の橋梁の変遷を纏めた『東京市史稿 橋梁編』には、1685(貞享2)年、1728(享保13)年、1766(明和3)年に流失、1772(明和9)年にも洪水で大破したと記載されている。これらから、江戸期を通じて流失がなかったとは考え難い。しかし、出水での被害は、「両国橋」など下流の橋梁に比べ圧倒的に少なく、それが伊達政宗というビックネームと相まって「不流伝説」を生んだと考えられる。
 なお、下流域の橋に比べ橋の寿命が長かった理由は、上流部のほうが洪水の影響を受けにくかったこと、下流域のような汽水ではなく真水のため船虫がつき難く、耐久性が保たれたことなどが挙げられよう。
❹江戸時代の千住大橋(『名所江戸百景 千住の大はし』(安藤広重)、紅林所蔵)
❺奥のほそ道へ旅立った松尾芭蕉を描いた壁画(撮影:2024年、紅林)
❻明治~大正時代の木造方杖橋(『第四号国道同大橋改修工事概要』)
千住大橋の変遷
 「千住大橋」は江戸時代を通じ、幕府が直接建設し管理も行う「御入用橋」であった。橋は和式の木造桁橋(❹)で、1742(寛保2)年の調査によれば、規模は橋長120m、幅員7.3m、17径間からなり、支間長は澪筋で9.1m、それ以外は5.5mであった。橋脚はφ60~80cmの柱が1橋脚当たり3本立てで、主桁は25×50cmの角材で、主桁数は5本であった。
 橋の南西側の南千住六丁目に熊野神社がある。1594(文禄3)年の初めての架橋の際は、工事は困難を極め、工期は1年にも及んだ。普請奉行の伊那忠治は、この神社に加護を求めて成就を祈願し、工事が無事竣功した後に、橋の残材で社を造営して奉納したと伝わる。以来、架け替えの度に、新社造営が慣例となり、熊野神社は「千住大橋」の鎮守と呼ばれるようになった。
 現在橋の下の護岸の壁には、旅装束の2人連れ(❺)が描かれている。これは松尾芭蕉を描いたもので、芭蕉は深川から船で隅田川を上り、この地から陸路、奥の細道へと旅立ったことを記したものである。
 幕末は政治的動乱から維持管理が滞ったため老朽化が進み、明治になると余り時を置かずに、1875(明治8)年に架け替えられた。この橋は、1885(明治18)年7月4日の水害で流失し、流れ下って下流の「吾妻橋」に衝突し流失させた。「千住大橋」は同年11月末に復旧した。この橋の構造は方杖式の木橋(❻)で、橋長108m、幅員7.2mで、13径間からなっていた。復旧期間は約4カ月と短期であったことから、流失したのは一部で、おそらく1875(明治8)年の架け替えの際に、すでに和式の木橋から方杖式の木橋に架け替えられていたと推察される。なお、この水害では荒川のひとつ上流に架かる「戸田橋」も流失した。
❼ブレストリブタイドアーチ橋完成直後(紅林所蔵)
❽ブレストリブタイドアーチ橋一般図(『第四号国道同大橋改修工事概要』)
❾桁架設工事中(『第四号国道同大橋改修工事概要』)
❿繊細な上横構(撮影:2013年、紅林)
⓫耳桁端部の装飾(撮影:2024年、紅林)
⓬親柱、高欄竣工図
⓭灯具などが復元された現在の親柱(撮影:2024年、紅林)
鋼ブレストリブタイドアーチ橋への架け替え
 現在、北千住駅西口のすぐ西側を南北に通る千住本町商店会の通りが、大正以前の日光街道(国道4号)であった。幅は3間(5.4m)程度と狭く、通行量も多かったことから、「千住大橋」から新たに開削された荒川放水路(現荒川)の「千住新橋」に至る、延長約1.9kmのバイパスが、市街地を迂回して西側に建設されることになった。事業は東京府が施行し、1918(大正7)~24(大正13)年度の7カ年事業として着手された。これに引き続き、「千住大橋」の架け替えも、1922(大正11)年度に東京府議会での承認を受けて、1923(大正12)~26(大正15)年度の3カ年事業として着手した。
 1923(大正12)年9月、関東大震災発生。隅田川の諸橋が火害により通行不能に陥る中、「千住大橋」は木造であったが、周辺からの延焼を免れたことで通行は確保された。
 復興計画で「千住大橋」は、道路ネットワーク上、東京市と綿密なつながりがあるとされ、復興事業に位置付けられ、架け替えに復興予算が充当されることになった。また市電の通行も計画され、これにより幅員が拡がり荷重も増加したため設計を変更。この影響で事業期間は1927(昭和2)年度まで延伸された。工事費は104万円で、内復興事業としての国庫補助金が52万円、他に市電を運営する東京市が負担金として26万円を支出した。復興事業は、主に国の帝都復興局と東京市が担ったが、前者から比べるとわずかであるが東京府も担った。東京府が一部を負担した橋梁では主なものとして、本橋と多摩川に架かる「日野橋」が挙げられる。
 新しい「千住大橋」の橋梁形式は、鋼ブレストリブタイドアーチ橋(❼、❽)で、橋長は92.5m、幅員は24.2mで、下部工と桁架設は大林組、桁製作は石川島造船(現IHI)が担った(❾)。同形式では、国内現存最古の橋梁である。
 復興事業で、復興局はトラス橋の構造的脆弱性を嫌い、橋の一部にさえトラス構造を用いなかった。また東京市も、地盤高が軟弱な江東区を除きトラス橋を架設しなかったが、東京府が施行した本橋では、アーチリブがトラス構造のブレストリブアーチ橋を採用した。ブレストリブアーチは、「永代橋」のようなソリッドリブアーチに比べ、使用する鉄の量が少ないことに加え、重量も軽いことから下部や基礎構造への負担が小さく、ひいては工事費が抑えられる。東京府が、「千住大橋」にブレストリブアーチ橋を選択した理由は、国や東京市に比べ財政力が劣っていたため、経済性を優先させた結果だと推察される。
 また設計は、当時の東京府にはこのような大規模な橋梁を設計できる技術者がいなかったため、米国で設計事務所に勤務し、帰国して設計コンサルタントを起業した増田淳を「嘱託」として採用し行われた。増田は他に、「白鬚橋」、「日野橋」(多摩川)、「二子橋」(多摩川)なども設計した。
 新しい「千住大橋」は、流れるような全体のフォルム、マッシブな橋門構に対し細い部材で構成された繊細な上横構とのコントラストなど、たいへん美しい橋梁である(❿)。耳桁端部のディテールなども手抜きはない(⓫)。親柱は、戦後長年灯具などが失われていたが、2005(平成17)年の補修時に、竣工図(⓬)をもとに復元された(⓭)。
 現在「千住大橋」は、下流側には1973年に拡幅された連続桁橋が、上流側には水管橋が架かり、上下流とも橋を俯瞰することができなくなってしまった。折角の美しい橋が、残念である。都市景観の上からも、せめて水管橋を地下化できないものだろうかと思う。
今も生き続ける不流伝説
 2003(平成15)年6月、古老の船頭から、川中に船底に何か引っかかるものがあるとの声が寄せられ、隅田川を管理する東京都建設局は調査を実施し3本の木杭を確認した。この木片を採取して分析した結果、コウヤマキであることが判明し、改めて伊達政宗由来の不流伝説がクローズアップされた。
 1927(昭和2)年、木橋から鉄橋に架け替えられる際に、旧材が払い下げられ、千住の旧家が発起人となり、千住出身の彫刻家富岡芳堂に依頼し、橋は仏像など多くの彫刻に姿を変えた。長寿の橋が、縁起が良いとされたのであろう。これらの多くは戦災で失われたものの、今も数件の旧家に伝わるという。千住は大橋と共に誕生し、そして繫栄し、この彫刻に見られるように地元の多くの人に愛されてきた。現在の橋も長寿。あと3年で100歳を迎える。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)