Kure散歩|東京の橋めぐり 第15回
言問橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶言問橋(撮影:2021年、紅林)
 震災復興橋梁のひとつとして、1928(昭和3)年に新たに架設された。
名にしおば……
 「名にしおば いざ言問わん都鳥 わが思う人はありやなしやと」これは古今和歌集や伊勢物語に収められた和歌で、平安初期の歌人在原業平の代表作である。業平が東国へ赴任する際に、京都に残してきた恋人を想って隅田川の渡しで詠んだ歌とされる。言問橋(❶)の名は、この和歌から取られた。もっとも、この渡しは現在の白鬚橋のところにあった「橋場の渡し」といわれ、さらに当時は利根川が東京湾に注ぎ、多くの河川により東京東部には広大なデルタが拡がっていたと想定され、業平の詠んだ隅田川が、現在の隅田川と合致していたかも怪しい。
❷竹屋の渡し(紅林所蔵)
 震災以前は橋はなく、渡し舟が水戸街道を繋いでいた。
❸言問橋側面図(『橋梁設計図集 第二輯』復興局土木部橋梁課、1928/昭和3年7月)
 渡河部160.03mの橋梁形式はゲルバー(カンチレバー)鋼鈑桁橋で、中央径間67.21mのうち35.2mが吊径間。
❹言問橋桁架設写真(「言問橋竣工記念絵葉書」紅林所蔵)
 上フランジを共有した4本のダブルウェブ構造の主桁を設置している。
❺完成直後の言問橋(前出『橋梁設計図集 第二輯』)
❻言問橋主桁断面図(前出『橋梁設計図集 第二輯』)
❼横断面図(前出『橋梁設計図集 第二輯』)
❽アプローチ部 一般図(前出『橋梁設計図集 第二輯』)
 両岸のアプローチ部には、桁長37.7mの3径間連続桁が採用された。
言問橋の構造概要
 言問橋は、震災復興橋梁のひとつとして、1928(昭和3)年に架設された。この時が初めての架橋で、それ以前は、ここには江戸を起源とする「竹屋の渡し」(❷)があり、水戸街道が隅田川を渡っていた。
 設計は復興局橋梁課長の田中豊が指導し、橋梁課技師の岩切良助が行った。全長236.6m、幅員22m(❸、❹、❺)、このうち渡河部160.03m(径間長:46.41m+67.21m+46.41m)の橋梁形式はゲルバー(カンチレバー)鋼鈑桁橋で、中央径間67.21mのうち35.2mが吊径間である。建設当時、桁橋としては国内で突出した規模を誇った。主桁は上フランジを共有したダブルウェブ構造(❻)で、このようなダブルウェブの主桁4本から成っていた(❼)。
 両岸のアプローチ部には、いずれも桁長37.7mの3径間連続桁(❽)が採用され、主桁数は13本から成っていた。連続桁は今日架設される橋梁の主流をなしているが、計算が複雑なため、採用されるようになったのは昭和30年代以降と思っていたが、約100年前の震災復興で採用されていたことは驚きである。このような3径間連続桁や、蔵前橋の側径間のRC2ヒンジアーチ橋など、復興局は側径間の小橋梁にも、さりげなく新構造を織り込んでいたのである。しかしこの連続桁は、戦後、地盤沈下で橋脚が不等沈下し橋体が変形したことで架け替えられた。
❾橋梁検討案(『帝都復興事業に就いて』復興局橋梁課、1924/大正13年8月)
 この中に言問橋に採用された鋼ゲルバー鈑桁橋の図はない。
❿橋梁検討案(土木学会誌、1924/大正13年10月)
 7番の案に鋼ゲルバー鈑桁橋が加えられている。
言問橋の橋梁形式は隅田川で最後に決定
 復興局土木部長の太田圓三は、1924(大正13)年7月2日に土木学会で「帝都復興事業に就いて」という演題で、インフラの復興方針についての講演を行った。この中で、隅田川の橋梁についても触れている。この講演録は、同年8月に復興局で同名の冊子としてまとめられ、同年10月には土木学会誌にも掲載された。
 ❾は、8月の冊子に記された、復興局が、隅田川に架設するために検討した橋梁案である。このうち、5案は永代橋、6案は清洲橋、7案は駒形橋、8案は蔵前橋、9案は隅田川支川の相生橋として実現した。1案と2案は清洲橋の、3案と4案は永代橋のそれぞれバリエーションだったと思われるが、いずれも2次部材にトラス構造を使用しているため、二次応力の問題や、空爆での脆弱性から不採用になったと考えられる。
 注目されるのは、この中に言問橋に採用された鋼ゲルバー鈑桁橋の図がないことである。さらに太田は、第8案の3径間鋼上路式アーチ橋について、「極めて普通なる無難のものでありますから、蔵前や言問に架けてみたいと思って居ります」と評していた。つまり8月時点では、言問橋の形式は3径間鋼上路式アーチ橋になる可能性が高かったのである。
 同年10月の土木学会誌では、前述した講演録が一部改訂された。❿はそこに掲載された橋梁検討案である。ここでは7案に鋼ゲルバー鈑桁橋が加えられ、さらにこれについて太田は「言問橋に用いてみたいと思っております」と記し、8月の意見を翻している。おそらく、8月から学会誌が発刊された10月の間に、言問橋の橋梁形式が鋼ゲルバー鈑桁橋に決定されたと思われる。
 また前述した隅田川(支川含む)の5橋については、事業進捗率が記されており、すでに設計や工事に着手していたことがわかる。これから、言問橋は復興局が施行した隅田川の橋梁で、最後に橋梁形式が決定されたと推察される。
 講演で太田は、永代橋のタイドアーチ橋を「極めて平凡な形式」と、駒形橋と蔵前橋の中路や上路式アーチ橋については、「極めて普通な無難なもの」と評している。それに対して、言問橋に用いた鋼ゲルバー鈑桁橋については、「やや大胆な設計を試みた」と述べている。国内で初めて支間長100mを超えた永代橋や、国内随一の構造であった駒形橋(初の中路式アーチ橋)や蔵前橋(国内初の3径間上路式アーチ橋)を「平凡、無難」と評し、現代ではさして特徴があるとも思えない言問橋を「大胆な設計」と持ち上げている。なぜ、太田はこのように評したのであろうか?
 震災前、隅田川に架設されていた5つの鉄橋は、いずれもトラス橋であった。これは、トラス橋は他の形式に比べ、使用する鉄の量を少なく抑えることができたからである。八幡製鉄所が稼働する明治末まで、国内に大規模な製鉄所はなく、鉄は大半を輸入に頼り高価であったため、使用量を抑えられる橋梁形式が求められたのである。これは隅田川に限らず、日本橋川や神田川などの小河川に架かる橋梁も同様であった。
 一方桁橋は、剛性が高いものの使用する鉄の量が多く、工事費も嵩むことから敬遠されてきた。震災復興では、積極的に鋼鈑桁橋が採用されることになるが、それでも桁橋は、長スパンになると桁高が高くなり、前後道路との取り合いや、桁下のクリアランス確保に支障が生じるため、太田は前述した講演で、隅田川以外では桁橋の支間長を「18mくらいを限度とする必要が生じてくる」と述べている。このように、使用は概ね小橋梁に限定していた。これに比して、言問橋に採用された中央支間長67.21mは、いかに規格外のサイズであったかが想像できると思う。
言問橋を鋼ゲルバー鈑橋で架設した理由
 『復興局橋梁概要』(復興局橋梁課、発行年不詳)では、言問橋の桁橋の決定主旨について以下の様に記している。「言問橋は隅田川上流なる隅田公園に臨めるを以て其の形状は荘重或いは軽快なりとするも風趣を妨ぐる事なきを要し、通行者が橋上より周圍の緑樹水色を恣に望み得るは無論之を遠望して周圍に調和せるの快感を与ふる事また必要なり。軽快なる拱橋(上路式アーチ橋)を以て更に風趣を添ふるは一の方法なれども地質軟弱にして拱橋に適せず。而して各種討究の結果前例に乏しく稍大膽なる感ありしかども全長525尺を有する本橋に対して三径間の上路型突桁(ゲルバー)式の鋼鈑桁を選び、鋼鈑は函型にして四列配置せり。本橋両岸の公園地帯は土地低きを以って本橋と街路との接続に各三径間連続鋼鈑桁を架し而して本橋基礎には開函を採用せり」。
 これから言問橋の橋梁形式は、隣接する震災復興の三大公園のひとつの隅田公園への景観上の配慮や橋上の眺望から、永代橋や清洲橋のように橋上に構造の出る下路式の橋梁形式は排除され、当初想定した上路式アーチ橋は、水平力を支えるために大きな基礎が必要で、軟弱地盤では支えきれないために断念し、消去法的に「前例に乏しく稍大膽」であるが、鋼ゲルバー鈑桁が選択されたことが分かる。その結果、鈑桁は桁高が厚く、路面高が上がるため、両側に地盤とすり合わせる3径間連続桁のアプローチ橋や盛土区間が設置された。
 渡河部も桁高をできるだけ抑えるために、3径間連続桁を検討したと思われるが、地盤が軟弱なため、下部工が将来不等沈下を起こしても、支承の嵩上げなどの対策が容易に行えるよう、ゲルバー構造で桁の縁を切ったと思われる。
フリードリッヒ・エバート橋のコンペ
 『復興局橋梁概要』では、隅田川の橋梁形式の章の最後を、以下のようにドイツのフリードリッヒ・エバート橋のコンペ結果を載せ締めくくっている。
 「大正14年秋兼ねてより懸賞募集中なりし独乙マンハイム市のネツカア河上に新設せらるべき全長196米のフリイドリッヒ・エバアト橋の競争設計発表せられ其の審査の結果に依れば言問橋と近似せる突桁式(ゲルバー)鈑桁の設計第一等を獲得し、永代橋と同様なる繋拱(タイドアーチ橋)の設計第二等に当選せるを見たり。また大正十五年に起工せられたるベルリンレアタア停車場付近のフンボルト・ハアフェンの街路橋は大さ略略隅田川橋に同じく其の型式は清洲橋と同一にして、之等は設計関係者にとりて実に興味ある事実なりき」。
 世界の橋梁技術者が注目する世界最先端の橋梁コンペでの第1位は、言問橋で採用した鋼ゲルバー鈑桁橋で、さらに2位は永代橋と同構造であった。またベルリン市内では、清洲橋と同形式の橋が建設中であった。震災復興で隅田川に配した橋梁計画は間違っておらず、世界最先端で最高水準のものと証明されたのである。これは、明治以降世界を追い続けてきた日本の橋梁技術が、ようやく世界に追い付いた瞬間でもあった。
 永代橋が採用したタイドアーチ橋は、昭和30年以降は国内で架設されなくなった。自碇式チェーン吊橋の清洲橋は、国内では他に架設記録はない。一方、言問橋のDNAを受け継いだ桁橋は、架設数とともに支間長も伸ばし、現在では架設される橋梁の大半が桁橋で、桁橋(鋼床版箱桁)の最大支間長は260mに達している。あの時、太田や田中らが試みた「大胆な設計」は、未来の橋へと続いていたのである。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)