Kure散歩|東京の橋めぐり 第8回
駒形橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶ 右岸下流側から見た駒形橋(撮影:紅林章央、2023年)
隅田川に多種多様な橋が架かるわけ
 隅田川には、同じ形の橋梁はふたつとないといわれるほど多種多様な橋梁が架かる。このため、「橋の博物館」や「橋の展覧会」と呼ばれる。パリのセーヌ川も美しい橋梁が多いことで名高いが大半はアーチ橋である。隅田川のように多様な橋梁が架設された川は、世界的に見てもかなり珍しい。
 現在、隅田川に架かる橋梁の多くは、関東大震災の復興で架設された。震災以前には、東京市内の隅田川には、5橋の鉄橋が架設されていたがいずれも鉄製のトラス橋で、構造に多様さはなかった。「橋の博物館」がつくられたのは、震災復興が契機であった。
 川幅がほぼ同じで、地質条件にも大差なければ、セーヌ川のように通常は同じ橋梁形式に帰結する。震災の復興であるため工期短縮を優先するのであれば、設計や施工の簡略化のために標準構造を定め、さらに経済性を加味し最も安価な構造(=トラス橋)で統一するというのが頗る普通だったと思う。もしトラス橋なら、1t/㎡もの鋼材を用いたタイドアーチ橋の「永代橋」や自碇式吊り橋の「清洲橋」の工事費は1/3程度に抑えられたと想定される。実際、建築家で内務省都市計画局第二技術課長だった野田俊彦は、土木雑誌『道路の改良』(1924年11月号、道路改良会刊)に「隅田川に架すべき六橋は同一様式たるべし」を発表し、すべてトラス橋で架設すべきとの論を張った。
 しかし、太田圓三土木部長ら復興局の技術者たちはそれを良しとはしなかった。後年、土木雑誌『エンジニア』(1930年3月号)が主催した座談会で、多様な橋梁形式を採用した理由を尋ねられた橋梁課長の田中豊は以下の様に答えた。
「例えば、同じタイプの橋を架けたらどうか。それが今の様になったのは、それはバラエティーが欲しい、同じ橋を2つも3つも架けるということは面白くない。土地の状況や路面の状況により、橋面の高さにも違いがある。それから地質の関係等もありますし、もっとも最後に技術家にとってそういうチャンスは千載一遇です。少壮の技術家が安く骨惜しみしないで大に働く、大に技量を振るうということは技術の進歩から見ても非常に良いことだと言う理です。」
 橋梁にはさまざまな形式がある。すべて同じ形式ならひとつの技術しか取得できないが、複数の形式を手掛ければ、その数だけ技術を取得できる。田中の発言からは、さまざまな形式を手掛けることで、技術者を育て、当時欧米諸国から大きく遅れていたわが国の橋梁技術を一気にアップさせようと試みたことが読み取れる。しかも単に違う形式を配しただけではなく、20世紀初頭の世界の最先端技術にこだわったのである。
 復興局のパートナーだった東京市の橋梁課長の谷井陽之助は、発災時には欧米の橋梁視察の途にあり、ローマで関東大震災の報を受け急遽帰国した。谷井はこの視察の報告会を、大正14(1925)年2月に土木学会で「欧米に於ける市街橋雑感」という題目で開催し、橋梁形式について以下のように述べた。
「橋は一種の芸術品であると感じておりましたが、欧米の視察を経て、更に深く感じて帰りました。(中略)橋自身が堂々たるものであっても、背景と調和しなければ価値はなくなります。(中略)仏国リヨンのローヌ川には多くのアーチ橋が架けられています。これらは個々には落ち着いた良い橋です。しかし、同じ形の橋が続き、ダメを押されているようで、良い気持ちはしません。変化が少なく、何だか既製品のように思えて、折角の橋がしまいには、安っぽく感じられます。今度の東京市のように、一度に沢山の橋を架ける場合には、特に考えなければならないと思います。」
 谷井は、都市景観の上からも多様な橋を架けるべきと考えていた。復興局と東京市の橋梁事業のトップが、理由は違うにせよ多様な橋を架けることを良しとしていたのだ。だからこそ今日の隅田川の多彩な橋梁群が生まれたのである。
❷ 駒形橋一般図(『橋梁設計図集』、復興局土木部橋梁課、昭和5/1930年3月)
❸ 東京名所図絵「駒形渡より吾妻橋之遠景」(明治20/1887年頃、紅林所蔵)
❹ 駒形橋桁架設状況(ゴライアスクレーン架設)(駒形橋開通記念絵葉書、紅林所蔵)
❺ 駒形橋橋脚に設けられたアルコーブ(撮影:紅林章央、2023年)
❻ モダニズムデザインの駒形橋の橋灯(手前)と、基準照度を満たすために平成初期に追加されたグレーの橋灯(撮影:紅林章央、2023年)
❼ 竣工直後の姿を伝える絵葉書(紅林所蔵)
❽ 開通直後のすっきりした駒形橋橋上(絵葉書、紅林所蔵)
❾ 橋灯が林立する現在の駒形橋橋上(撮影:紅林章央、2023年)
❿ ライトアップされた駒形橋。多い照明の明かりが目障りに感じる(撮影:熊谷健太郎、2022年)
駒形橋の設計と施工
 駒形橋(❶)は、大正13(1924)年7月25日に着工し、昭和2(1927)年6月25日に開通式が行われた。橋長は149.1mで、主径間は鋼中路式アーチ橋で径間長は74.7m、両側の側径間は鋼上路式アーチ橋で径間長は32.5mである(❷)。国内初の本格的鋼中路式アーチ橋であった。設計は、復興局橋梁課長の田中豊の指導を受けた橋梁課岩切良助技師が構造設計を、建築家で山口文象と同じ橋梁課技術雇の阪東貞信が意匠設計を担当した。
 震災前には、至近に吾妻橋や厩橋が架設されていたものの、この場所には橋梁はなく、「駒形の渡し」が設けられていた(❸)。
 橋名は、浅草方の橋詰めにある「駒形堂」から命名された。駒形堂は、浅草寺の御本尊が推古天皇36年(628年)に隅田川で漁をしていた漁師の網に掛かった場所と伝えられており、ゆえに湿地帯が拡がっていた古代にあっても陸地だったところと推測される。このことからも分かるように、駒形橋周辺は隅田川流域で最も地盤のよい箇所である。震災復興時に行われた地質調査によれば、川底から3mほどで良質な砂礫層が確認されている。ゆえに永代橋や清洲橋、吾妻橋などでは、基礎にニューマチックケーソンが使用されたが、駒形橋では木杭が使用されている。
 地盤のよさは、桁形式の決定にも影響を与えた。永代橋のような地盤の悪い箇所では、アーチの下端のアーチスプリキング同士をアーチタイで結ぶことで水平力を相殺して、橋脚や基礎に負荷を掛けないようにしているが、駒形橋は地盤がよいために中路式としてアーチにより生じる水平力を橋脚で受けている。
 復興局土木部長の太田圓三は、大正13(1924)年7月2日に土木学会で行われた「帝都復興事業に就いて」という講演会で、隅田川に架かる橋梁の個々の橋梁形式について述べており、この中で駒形橋について以下のように触れている。
「駒形橋は、中央に245尺の鋼拱を架し、その両側に径間99尺の鉄筋コンクリート拱を各1径間ずつ架設する計画であって……」。
 このことから、当初は側径間に鉄筋コンクリートアーチ橋を計画していたことがわかる。現代では鉄筋コンクリート橋の架設は、支保を設けず両側から張り出しながら行うカンチレバー工法で行えるが、当時は川中に支保を設けて型枠を支えコンクリートを打設するしかなかった。このため、長期に渡って隅田川の舟運に影響することが危惧された。ゆえにそのリスクを考慮して、鉄筋コンクリートアーチ橋から鋼上路式アーチ橋へ設計を変更したと推察される。
 中央径間の架設は、川中にベントを設置してI桁を渡してその上にステージングを組み、両側に軌条を敷いてその上に門型のゴライアスクレーンを設置して、鉄部材を架設していった(❹)。
 外観の最大の特徴は、橋脚部に設けられた花崗岩の貼られた半円型の美しいアルコーブにある(❺)。アルコーブの歩車道境界には親柱を思わせる石造の壁が設けられ、縦長のモダニズムデザインの橋灯が設置されている(❻)。このシンボリックな橋灯は、復興橋梁の橋灯の中でも秀逸なデザインだと思う。ただ、平成初期に修景事業が行われた際に、道路の基準照度を満足させるために、異質のデザインの橋灯が多く設置された。開通直後のすっきりした橋上の写真(❼、❽)と見比べると、現在の状況(❾)はいかに煩雑で、さらに夜間のライトアップ(❿)にも支障になっていることがわかると思う。都が今後補修工事を行う際に、見直していただけることを切に願う。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)