関東大震災による東京市内の橋梁被害
復興を主導した内務省復興局土木部長の太田圓三は、大正13(1924)年7月2日に土木学会で開催された「帝都復興事業に就いて」という講演会で、関東大震災の東京市内の橋梁被害について、以下のように述べている。「昨年9月1日の地震により東京市の橋梁が受けました震害は、極めて僅少でありました。これは東京に於ける地震の震度が、比較的小さかったことと、橋梁の工事が比較的入念に出来ていたことに依るものと考えられます。ただ地震に伴う火災のために、幾多の橋梁が焼失したことは、遺憾に堪えない次第であります。」
阪神淡路大震災では、阪神高速をはじめ橋梁の崩落が相次いだことから、関東大震災でもそうであったと思われている方が多いと思うが、この太田の言から、東京市内の橋梁が地震の揺れで受けた損傷は僅かだったことがわかる。しかし、木橋が400橋もあり、60ほどあった鉄橋の多くも床が木造だったため、東京市の約4割が灰燼と帰した火災の影響を受けて、市内の橋梁670橋中290橋が焼失し通行が遮断された。
復興橋梁設計にあたっての留意事項
東京市内の復興は、復興局と東京市により行われた。主に幹線道路に架かる橋梁は復興局が、生活道路は東京市が担った。新設または改築した橋梁数は、昭和7(1932)年4月30日の朝日新聞のよれば、復興局が144橋、東京市が311橋に上った。復興にあたっては、震災の被害状況を踏まえ、以下のような対策が取られた。(1)不燃化
前述したように、震災での最大の被災原因は火災であったため、復興では不燃化が図られ、木橋にかわり多くの鋼橋や鉄筋コンクリート橋が架設された。
(2)耐震設計
日本の定量的な耐震設計は、東京帝国大学教授で復興局建築局長も務めた佐野利器が提唱した「震度法」に始まる。これに基づき建築では、関東大震災後に設計加速度は0.1G(Gは重力加速度)と定義された(その後0.2Gに改定)。橋梁でも復興で初めて震度法が採用され、設計加速度は水平方向0.33G、垂直方向0.17Gと定められた。この値は戦後、阪神淡路大震災までは水平方向0.2G、垂直方向0に下げられた。これは高度経済成長期に、短期間に多量の橋梁を架設するために経済性が優先されたためと推察される。これらと比すると復興橋梁では、かなり大きな値を見込んでいたことが分かる。
(3)上路式アーチ橋の採用
震災で上路式アーチ橋は、ほとんど震害を受けなかった。太田は前述した講演会で、このことについて以下の様に述べている。「アーチ橋が比較的著しい震害を受けなかったことは、特に注意する価値がある。(中略)橋梁の形式から申しても地質の良い所にはアーチ橋の如きを用い……。」このように耐震性の高さが実証されたことに加え、橋上に部材が出ず眺望がよいことから市民の評判もよかったために、地盤が良好で川面からのクリアランスも十分確保できる箇所では、上路式アーチ橋が積極的に採用された。これが顕著に表れたのが神田川で、浅草橋からお茶の水の聖橋まで7橋連続して上路式アーチ橋が架設されている。
(4)基礎構造の重視
地震動により崩落した橋梁はなかった東京に対し、震源地に近い神奈川県では横浜の豊国橋や小田原の酒匂橋などが崩落した。このため東京の橋梁復興でも、基礎構造の強化が重視された。この対策として、神田川沿いなど比較的地盤が良好であった箇所では、底面の広い重力式橋台が多く用いられた。また永代橋や清洲橋のように、支持層がGL-30mとなるような地盤の悪い箇所では、深い位置まで掘削し強固な基礎を構築できる、当時唯一の施工法だったニューマチックケーソン工法によりケーソン基礎を構築した。
蔵前橋の橋梁形式
前述した講演会で太田は、橋梁形式について以下のように述べている。「橋は道路の一部であります。その点から申しますと橋の上を通る時、ここに橋ありという特別な感じは起こさせず、自分は橋の上を通ったのか如何かを意識することなしに、通り過ぎ得るものがよいと言う人もありますが、これもまた大いに理屈のあることと存じます。(中略)この趣旨から申しますと皆デッキ型(上路形式)のものがよいのであります。鉄構造のものが桁の上に出てきますといかに苦心しても、ぎこちない感じを起さずにすむということは、はなはだ難しいことと考えます。ただし隅田川の永代、清洲の様なものになるとスルー(下路式)にするより仕方がないから……。」
太田は橋上に構造が出る下路式の橋梁形式を嫌い、現在、日本を代表する名橋と称えられる永代橋や清洲橋でさえ、「スルーにするより仕方がない」と、地形条件から消去法的に採用したと受け取れる発言をしている。
それに対して、橋上の眺望を阻害しないデッキ型(上路形式)で耐震性も高い上路式アーチ橋と、太田が望んだ形式を具現化したかのような橋梁が蔵前橋だった。地盤が悪く地盤高も低い永代橋や清洲橋付近に対し、蔵前橋付近は支持層がGL-10mと比較的良好な地盤で、また両岸の地盤は低かったものの、役所が所有する官有地であったため、地盤の嵩上げが可能だった。このため復興局では、桁下を船が航行できるように両岸を約5mほど嵩上げし、隅田川渡河部に3径間の鋼上路式アーチ橋(❶、❷)を採用した。なお目立たないが、墨田区側には区道を跨ぐ側径間がある。ここには充腹式の2ヒンジ鉄筋コンクリートアーチ橋(❸、❹)が架設されている。国内に架かる鉄筋コンクリートアーチ橋はたいてい固定アーチ橋で、このようにアーチスプリキングにヒンジを持つ有ヒンジアーチ橋は国内で4橋しかない。アーチが扁平であることと、基礎への負担を少なくするためにヒンジが設置されたと想定される。
蔵前橋の設計
蔵前橋は震災復興で架設された現在の橋梁が初代である。橋長は173.1m、幅員は22.0m、径間長は48.2m+50.9m+48.2m+12.2mで、基礎は橋脚と墨田区側の橋台は木杭、浅草側の橋台はケーソンが用いられた。外観の特徴は、橋脚に設けられた半球型の水切りとアルコーブ(❺)で、古典主義的なデザインで、復興橋梁の中では駒形橋と並び珍しく装飾的である。工事は大正13(1924)年9月2日に起工し(❻)、昭和2(1927)年11月26日に開通式が挙行された。橋名は江戸時代この付近に幕府の米蔵があったことにちなんで命名された。現在の黄色い橋の色は、米蔵に収められた稲穂をイメージし、平成の初めごろに塗り替えられたもので、建設時はブルーグレイの塗装色であった。
設計は復興局橋梁課長田中豊が指導し、構造設計は橋梁課技師の井浦亥三が、意匠設計は古川末雄(❼)が担った。古川は、山口文象と同様に逓信省営繕課の製図工で、後に山口が設立した創宇社建築会にも参加した。復興局職員録によれば、営繕課から橋梁課へ異動したリーダー格で帝大出高等官の山田守は「嘱託」、山口文象は月給100円の「技術雇」であるのに対し、古川は日給1円50銭の「事業手」というアルバイトのような扱いであった。
蔵前橋の改修
前述したように、橋脚の基礎は木杭であることから耐震性が懸念されたため、平成14(2002)~平成16(2004)年に橋脚の周囲を鋼管矢板井筒で囲んで、既存のフーチングを井筒の頂盤と一体化させることで、井筒に上部荷重を受けかえる耐震補強工事が行われた。また2012年度から、腐食した鋼材の取り換えと床版補強などの長寿命化工事が行われた。震災復興の鋼橋の床版は、現在のような鉄筋コンクリート床版ではなく、厚さ8mmの鋼鈑上に無筋の軽量コンクリートを打設したバックルプレート床版が使用されている(❽)。蔵前橋ではこの大きさは1.346m×1.194mで、裏面は錆止めのタールが塗られ、滞水しないように凹面加工され中央部に穴が開けられていた。これらは建設時から更新されておらず、腐食が進んだものも散見されたため、約2割を新しいものと交換した(❾)。製作は、震災復興時と同様に、大型プレス機を用いて行った。
その後に塗装工事、ライトアップ設置工事(❿)が行われ、令和元(2019)~令和2(2020)年に、平成初めに実施された修景工事で改変されていた橋灯(⓫)を、古川が設計したオリジナルデザインに戻す工事が行われた。ただし材質は、オリジナルはセミスチール(片状黒鉛鋳鉄)製であったが、今回の工事ではメンテナンスなどを考慮してステンレス製を使用した(⓬)。アールデコ調の美しいデザインで、20世紀初頭のモダンさを感じさせる秀逸なデザインである。
蔵前橋で景観的に残念なのは、すぐ下流側にあるNTTの専用橋が眺望を阻害していることである。この無粋な橋が、せっかくの隅田川の橋梁景観を台無しにしている。私は、この橋が一刻も早く地下化されることを望んでいる。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)
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