古民家から学ぶエコハウスの知恵 ⑦
ケーススタディ「木曽谷の民家」その1
丸谷 博男(一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル代表、(一社)エコハウス研究会代表理事)
図❶ スケッチ
図❷ 三岳村中切部落上田家 配置・平面図 典型的な家屋配置を見せている。
図❸ 平面図
図❹ 立面図
 島崎藤村著『夜明け前』第一部上、序の章一に以下のように木曽谷の特徴が語られています。

 木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間に埋もれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降って来た。道の狭いところには、木を伐って並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷の最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。
 東山道とも言い、木曾街道六十九次とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否でも応でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに塚を築き、榎を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。
 
 高速道路が配備されている現在でもなお、木曽谷は交通不便な場所となっているため、それだけに、現代人にとっても奥深い山間の里として実感させられます。この木曽街道沿いの集落で名高い集落は、重要伝統的建造物群保存地区となっている妻籠宿、奈良井宿、馬籠宿の3宿があり、さらに漆と木工芸の中心地、平沢が知られています。さらに、江戸時代に日本4大関所のひとつとして中山道の要衝となっていた木曽福島があります。
 「木曽谷の民家」が散在する地域は、この木曽福島から御岳山を目指し車で30分ほど奥に入ったところ、ちょうど御岳山の一合目に当たる黒沢集落を拠点とする旧三岳村地域です。実測調査は、昭和48(1973)年に行いました。これは、私の修士論文でもあります。
木曽は木材の産地
 天然材の日本3大美林のひとつに長野県の木曽川上流地域の木曽桧があります。他の地域のヒノキに較べ成長に約2倍の時間がかかり、その肌合いの美しさが珍重されてきました。その主な需要は、城郭建築、神社仏閣、武家屋敷等でした。産地として大きく注目されたのは豊臣秀吉の時代でした。戦国需要に対する木材供給の場として注目したのです。その後江戸時代に入り、徳川家康は木曽氏の家臣で木曽地方に支配力を持つ山本良候を木曽代官として領地支配を固め、木材生産にあたらせました。また、家康は第9子の義直を尾張藩主とし木曽を尾張藩に譲与しています。「桧一本首一つ」という厳しい伐採制限は、こうした流れの中で森林資源の確保と保護政策として打ち出されたものでした。また各藩に命じて職人の育成・確保、そして河川改修に尽力し、伐採運材の発展を促しました。「巣山」、「留山」と呼ぶ禁伐林の制度もその政策の一環です。
 明治維新により、藩有林から官有林となり、さらに明治22(1889)年に御料林に編入されます。その後、度重なる戦争による大きな需要、強制伐採があり、終戦時には木曽の山林資源もたいへん厳しい状態となり、昭和22(1947)年に御料林はすべて国有林とされていきます。これにより、計画伐採が進められ、現在に至っています。
 この歴史の中で、木曽谷の農民たちは、林業に携わるものが多く、農業と林業の兼業農家だったといえます。
 民家調査の中で発見できる棟札には、次のように関係者が描かれています。
 ・杣 ○○○○ ・木挽 ○○○○ ・大工 ○○○○
 杣は、どこにどのような木材があるのか、その情報を把握している特異な存在です。山家等との密接な情報をやり取りできる存在だったと思います。有名な話では、鎌倉期の東大寺金堂再建の時に、ヒノキの大材はその当時であっても、もう既に身近にはなく、山口県の徳地にしかないとの情報があり、その木材を調達するために宋から帰国した重源に東大寺再建を命じ、周防国の国司として派遣する。重源は道を切開き、川に堰を設け、山に轆轤を設け、山奥にある木材を瀬戸内海まで引き下ろす土木事業を完遂します。この時の木材情報は杣によって得られたものでした。
 木曽は、農民の多くが林業に従事し、そのなかに杣頭がおり、杣がいて組織化された職業集団だったと考えられます。
 私の恩師、奧村昭雄が、三岳村に板倉を移築した時に感動していたことは、「丸谷君。村人の中には、それぞれ上手がいて、石積みにコンクリートを合わせ基礎をつくるもの、大工をするもの、屋根板材を剥ぐものがいて、そして皆が手元として手伝える技量を持っているんだ!」と何度も話をしていただきました。

図❺ 石置き屋根
木曽谷の大工技術の系譜
 日本の民家の多くがそうであるように、木曽山村の民家も江戸時代までは平屋でした。街道筋の町家は1.5階建ての姿となり、税金の関係で間口を狭く奥行きの長いものとなっていました。明治時代に入り、御法度もなくなり、国を挙げての養蚕の振興政策に乗り、木曽山村の民家も2階屋へと増改築を進めます。建坪で50坪、総2階で100坪という大きな民家に発展していったのです。私が実測調査した時には、平屋と2階屋が村の中に混在していました。
 さて、木曽山村の民家の特徴は、何といっても「木だけでできている」ことです。屋根から壁から構造のみならず、雨樋までもです。それが大きな驚きでした。木曽の山にいくらでもある木材と石でつくられているのです。石は板葺き屋根を押さえる重石に使われています(図❺)。
 木曽街道の整備は、江戸時代に行われます。それ以前の木曽は飛騨高山に繋がる経済文化圏の中にありました。村の建設に携わる大工たちも、飛騨で修行したものが多かったと聞いています。飛騨の民家も石置き屋根が基本でした。
構造材は、土台にクリ材、柱・梁と板壁はマツ材
 木曽はヒノキの産地で有名ですが、現地で民用に使うことはほとんどなかったようです。だだし、屋根材には、木曽五木のうちのサワラが使われています。木曽にはクリの大材があり、水に強いため土台に使われてきました。これは多くの日本の民家に共通した用材といえます。
 母屋だけではなく、倉も含め、壁には土壁を使うことはなく板壁であることが木曽山村建築の特徴です。街道筋では、防火対策を考え土蔵が使われています。木材は入会地や所有林から調達します。

図❻ 剥ぎ板の工程
剥ぎ板葺き
 日本の民家の屋根は草葺きと板葺きの2種類に大きく分けることができると思います。どちらも手近にある材料ですが、草はほとんどが一年草ですが、木材の方が使えるまでに20〜30年くらいは必要とされるので貴重な材料といえます。
 板葺き屋根にも色々な工法があります。高級な仕事としては、紫宸殿や桂離宮等で使われている杮葺きがあります。また、瑠璃光寺などにみられるような桧皮葺きもあります。
 木曽谷の民家は、長さ2.5×幅0.2〜0.5尺(約750mm×60〜150mm)×厚さ2〜2.5分(6〜7.5mm)の剥ぎ板を使用し石を載せて押さえます。勾配は2.8〜3.5寸です。
 剥ぎ板葺きの特徴は次のようにまとめることができます。
・ 材料は、水に強く剥ぎやすい針葉樹のサワラか広葉樹のクリが基本。木曽ではサワラを使用している。
・柾目取りのため、反りにくい。
・柾目取りのため、春目が乾燥して凹み秋目が凸っているため、毛細管現象が生じにくく雨水が横方向に流れにくい。
・葺き足は、板の長さの1/3の長さとし、目地をずらしながら葺き重ねて行く。
・風に飛ばされないように破風板と鼻隠しは必須だった。
・棟押さえは、内側を刳り貫いた半割り丸太を被せるようにして納め、石置きにより固定する。
・軒樋、竪樋も、古くは丸太の刳り貫き材を使っていた。竪樋については刳り貫き丸太の半割りを再び合わせて使用していた。
・切妻屋根が基本。
・葺き板の差し替えは1年おきに行う。各集落では、「結」によって行い、材料と労力を持ち寄る。

図❼ 2階蚕室への直接アプローチ
図❽ 深い軒
バルコニーと深い軒
 木曽谷でも、養蚕は盛んに行われていました。2階はもちろん、1階のいたるところで養蚕を行っていたのです。最盛期には1畳でも貴重な収入源でしたので、床の間の床板が外せるようになっている民家もありました。2階に上がると、板葺き屋根は下地板がないため、中から見上げると空が見えていました。風通しがよく木材の断熱性が効いているため意外に涼しかったということです。
 この木曽三岳村の民家に感動したのは、総2階の四周にバルコニーが回されている景色がとてもモダンに感じたことでした。その理由は、調査しながら理解できたことですが、先ほどの「床の間一畳でさえ養蚕に使っていた」ことから、2階の蚕室に廊下をつくることのもったいなさを解決するために考え出されたのが外周のバルコニーだったのです。また、斜面地に建つ家では、裏山から桑を背負って架け渡しておいた橋を水平に渡ることができるように工夫されていました。無駄と無理のない農民の工夫には重ねて驚かされます(図❼)。
 木曽谷の民家の軒の出は、総2階の場合には7尺(約2,100mm)もあります。平屋では4尺(約1,200mm)。これが何といっても美しい。斜面地に軽快に延びる軒の姿は誰をも感動させます。図❽を見ていただくと理解できると思いますが、7尺出すために登梁を使い、母屋を外側に1本持ち出しています。この外周の通路には、葺き替え用の屋根板がストックされ乾燥させていました。

図❾ 壁を二重にした馬屋      図❿ 斜面を利用した室
馬屋
 北国の民家の特徴は、馬屋が母屋の中にあり、人間と一緒にひとつ屋根の下にあるということです。木曽谷の民家も同じです。驚くのは、冬は零下5〜10℃くらいになり、飲料水が凍ってしまうため、馬用の水も常に凍らないようにしていたということです。それが「馬槽」です。土間には石造りの竃が置かれ大釜は常に火が焚かれていました。
 馬屋は干し草が敷かれていますが、構造体の根本が腐りやすいため、構造体とは別に内側に壁をつくり、二重壁にしている事例を見ることができました。(図❾)
 真冬に水も野菜も凍ってしまうので、凍害から食料を守るには地熱を利用していました。副産物としては夏には冷やすことができるということにもなります。
 家の中の土間に穴を掘り板の蓋を敷いて利用していたムロ(図❸の平面図参照)に、家の外では、斜面に横穴を掘りムロとしていた工夫があります(図❿)。奧村昭雄の「木曽の小屋」(宿泊室付きのアトリエ、『コア東京』2016年2月号参照)では、沢水が流れる「水船」の上に小さな小屋をつくり、「冷蔵所」としてスイカ等を冷やしていました。
丸谷 博男(まるや・ひろお)
建築家、 一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル代表、一般社団法人エコハウス研究会代表理事、東京藝術大学非常勤講師
1948年 山梨県生まれ/1972年 東京藝術大学美術学部建築科卒業/1974年 同大学院修了、奥村昭雄先生の研究室・アトリエにおいて家具と建築の設計を学ぶ/1983年 一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル arts and architecture 設立/2013年一般社団法人エコハウス研究会設立