Kure散歩|東京の橋めぐり 第10回
両国橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶1875年に架設された木造方杖橋(三代 歌川広重筆)(紅林所蔵)
和式の木橋から西洋式木橋へ
 明治当初、東京市内の橋梁は、幕末の動乱と幕府の財政難で維持管理は疎かになり、老朽化が進行していた。このため新政府は、早期に架け替えに着手した。「万世橋」など都心部の小河川に架かる橋梁は、永久橋といわれた石造アーチ橋に架け替えたが、隅田川の橋梁は、地盤が軟弱なため重い石造アーチ橋では沈下が危惧されたこと、他方鉄橋は工事費が高かったことなどから、木橋で架け替えざるを得なかった。
 新政府は近代化を図るため、欧米からの技術導入を急ぎ、各分野の先進国から専門家を高給で招聘した。その範囲は、軍事、鉄道、土木、農業、教育、法律、外交など多岐に渡った。河川や港湾ではオランダから、後に港湾の近代化や砂防事業、木曽三川事業などに功績を残したデ・レーケやファン・ドールンを招いた。ファン・ドールンの補佐役として来日した若手技術者にリンドウがいた。リンドウは主に利根川や江戸川など関東地方の河川を調査し、1873(明治6)年、現在の隅田川の中央大橋のすぐ下流に「荒川河口霊岸島量水標」を設け、わが国の土地の高さの基準となる「水位基準点」とし、ここで測定した最低水位をAP±0mと定めた。当時の隅田川の正式名称は荒川で、APとはArakawa Peilの略で、Peilとはオランダ語で「水準線」や「基準」を表す。
 1875(明治8)年、新政府はリンドウに「両国橋」の設計を命じた。この橋の構造は西洋式の方杖式木橋(❶)で、橋長は163m、幅員は10.9mで、支間長は江戸時代の約2倍の10mに伸びた。馬車や人力車の通行を容易にするために縦断勾配を緩くし、歩道と車道を設けて歩車分離を図った。橋脚や桁には耐久性を高めるため塗装が施され、高欄はトラス橋を模して×型とし、親柱も西洋の橋にならい石造とされた。「両国橋」に続き、同年に「永代橋」が、翌年に「吾妻橋」がいずれも同構造の方杖式木橋に架け替えられた。
❷1904年に架設された鋼プラットトラス橋の絵葉書(紅林所蔵)。
❸橋門構のエンドポスト上に設置されていた装飾(東京都復興記念館に展示 2016年紅林撮影)。
❹1904年に架設された鋼プラットトラス橋の図面(紅林所蔵)。
❺1904年に架設された鋼プラットトラス橋の橋台図面(紅林所蔵)。
❻両国橋の中央径間を移設した南高橋(正面)(2013年紅林撮影)。
❼両国橋の中央径間を移設した南高橋(側面)(2013年紅林撮影)
❽金井彦三郎(出典:「前攻玉社工学校名誉校長 金井彦三郎先生伝」『玉工第13巻7号』)
❾金井彦三郎東京府採用通知書(紅林所蔵)
プラットトラス橋への架け替え
 「両国橋」は、1904(明治37)年に鋼プラットトラス橋に架け替えられた(❷〜❺)。隅田川に架設された鉄橋では、「吾妻橋」、「厩橋」、「永代橋」に続く4例目であった。橋長は165m、支間長は62.2m、幅員は18.1mで、トラス橋は石川島造船所が製造(ただし鋼材は英国から輸入)した。このトラス橋は下弦材にアイバーを、格点にピンを用いたアメリカンタイプで、明治期の隅田川の他の鉄橋がそうであったように、橋門構を鋳鉄製のデザインパネルで飾っていた。両端上部には塔屋を模したゴシック風の飾りが付けられていた。
 この橋梁は震災復興で、現在の鋼ゲルバー鈑桁橋に架け替えられるが、その際の工事費は86万円。震災復興で隅田川に架設された他の橋梁の工事費は、「清洲橋」が300万円、「永代橋」が280万円、「言問橋」、「蔵前橋」、「駒形橋」がいずれも180万円であり、これらに比べると「両国橋」の工事費は著しく安価で、特に「言問橋」と「両国橋」の形式は鋼ゲルバー鈑桁橋と同一で、橋長も幅員も概ね同じであるのに工事費には倍の開きがあった。このように「両国橋」の工事費が安かった理由は、1904(明治37)年に架設された旧橋の煉瓦橋脚や橋台を、補強して再利用したからであった。関東大震災で「両国橋」は、木造だった歩道の床版は焼失したものの、橋脚や橋台には被害がなかったため、震災復興では桁は架け替えたものの、橋脚と橋台は拡幅・補強し再使用したのである。なお、プラットトラス橋も震災での損傷は軽微だったため、震災後に中央径間の1径間を中央区亀島川の「南高橋」(❻、❼)へ移設し、現在も供用されている。
 この「両国橋」の橋脚と橋台の設計は東京市工務課長の金井彦三郎(❽)が、トラス橋の設計は東京市技師の安藤廣之が担当し、東京帝国大学教授と東京市技師長を兼任した原龍太が設計全体を総括した。明治時代、橋梁設計は、原のように東京帝大を卒業するか、初の国産鉄橋である「八幡橋」を設計した松本荘一郎のように米国留学をしたエリートたちが担っていた。
 その中にあって金井は、私学の攻玉社工学校出という異色のキャリアであった。1888(明治21)年に21歳で東京府に採用された際は、最も職層の低い日給60銭の「雇い」(❾)という、今日でいう非正規からのスタートだったが、翌年に正規職員の「技手見習い」となると、原の下で橋梁の設計や監督に携わり、1890(明治23)年の「お茶の水橋」の設計補助を手始めに、「新橋」、「江戸橋」、「京橋」、「浅草橋」、「万世橋」など、鉄橋の黎明期である明治20~30年代に、東京市内に架設されたほぼすべての鉄橋の建設に携わった。日本初の鋼アーチ橋の「浅草橋」(1898/明治31年)は、『バーの橋梁編』という英字本だけを頼りに独学で設計を行ったといわれる。この間、1891(明治24)年には係長にあたる技手に、1897(明治30)年に東京市内の土木行政が府から市へ移管されると東京市へ移り翌年技師に、1900(明治33)年には工務課長へ昇進。帝大を出ないと技師や課長になれないといわれた明治にあって異例の出世を果たした。
❿岡部三郎(出典:『岡部三郎先生を偲んで』)
⓫完成直後の両国橋側面(両国橋完成記念絵葉書)(紅林所蔵)
⓬完成直後の両国橋正面(両国橋完成記念絵葉書)(紅林所蔵)
震災復興最後の橋梁
 前述したように、「両国橋」は関東大震災では被害が軽微だったことから、当初の復興計画では架け替えを行わず、引き続き旧橋を使用することとしていた。ところが、1928(昭和3)年に内務省から東京市橋梁課長に着任した岡部三郎(❿)は、「両国橋」の幅員が前後道路に比べ狭いことから、後年交通のボトルネックになることを危惧し、計画に架け替えを入れ込むように国に申し入れた。しかし復興の終盤期で予算は残り少なく、さらに試設計をしたところ、桁高は既存より2mほど高くなり、この影響で前後道路の高さも上がり、再建されたばかりの沿道の家々は嵩上げが必要になることが判明した。このため、復興予算を所管する国は認可しなかった。
 これに対し、岡部から「両国橋」架け替えの検討を命じられていた東京市橋梁課の滝尾達也は、旧橋の橋脚と基礎を補強して再利用することで工事費の縮減を試み、さらに道路高を上げないために桁高をできるだけ薄くするふたつの対策を試みた。当時は珍しかった高張力鋼の使用と、縦断勾配を急にすることで橋脚上の桁高を確保する一方、橋中央部や両端の桁高は薄くする変断面桁の採用である。これにより、道路の嵩上げを抑えることができた。これで国も折れ、東京市により1932(昭和7)年に復興事業最後の橋梁として、橋長164.5m、幅員24mの鋼ゲルバー鈑桁橋(⓫)に架け替えられた。
 震災復興では、モダニズムの影響から親柱は簡素な形状が主流となったが、「両国橋」には球型の巨大な石造の親柱(⓬)が設置されている。この考案者も岡部であった。後年『自伝Ⅰ生い立ちの記』の中で、親柱のデザインコンセプトについて、「両国橋の名前の由来になった、武蔵、下総の国境というよりは、もっと大きな意味で両国を結ぶという気分のものであった」と記している。この球は地球を、中央の方形の照明具は「両国橋」を表している。
 岡部は国が反対する中、辛抱強く説得を繰り返したことで、「両国橋」の架け替えが行われた。もし当初計画の幅員が狭いままだったなら、戦後増大した自動車交通を支えられなかったことは火を見るより明らかであろう。またこのような架け替えを可能にしたのは、金井の設計や明治の施工に支えられた確かな煉瓦橋脚や橋台があったがゆえである。改めて、私たちの生活は岡部や金井など優れた先人が導いたインフラの上に成り立っているのだと思わずにはいられない。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)