VOICE
井出 幸子(東京都建築士事務所協会豊島支部 副理事、UIFA JAPON(国際女性建築家会議)広報担当理事、(株)井出幸子建築設計室一級建築士事務所)
「柴川又右衛門邸」(武田五一設計、1911年建設/2007年移築)。エントランスホールーサロンの開口部。
西園寺公望別邸「坐漁荘」(1920年建設/1971年移築)。暖炉・電気ヒーター。
「ブラジル移民住宅」(1919年建設/1975年移築)。ブラジル・サンパウロ州レジストロ市に建てられていた。
「ブラジル移民住宅」。硬い現地材で組んだという軒天井と丸瓦。
園路坂道の水路。チョロチョロとせせらぎ。日本庭園の手法を見る。
「鉄道寮新橋工場」(1872年建設/1968年移築)。近代機械史展示。
「猫の家(森鷗外・夏目漱石住宅)」(1887年建設/1964年移築)の玄関。
「猫の家」。玄関たたきのタイル。
連休少し前に、野外博物館「明治村」に行ってきた。当初以降、移築が進み、かなり賑やかになってきている。名古屋の友人たちは年間パスを使って、散歩するように訪れているという。
 寒い日々が続いた後の信じられないような好天のなか、中川武館長から話を伺い、次いで、好天が炎天に切り替わりつつある中、石川新太郎建築担当ディレクターの案内で巡った。彼らは、ここで現地保存がかなわず避難してきた建造物を「預かっている」という。その経緯は、『明治村だより』(現在106号)にも詳しく報告されている。登録文化財50年という条件に、当時いまだ達していなかった大正時代の帝国ホテルの様式保存の経緯は、何度か聞いていたけれど、18年前、京大構造出身の石川氏がこの職につき、不明快な構造のこの姿に出会った時の第一声は、「残ったがいいが、どうするねん!」だったそうだ。移築・修復・保存においては文化庁の研究課題でもあり、単なる展示物でなく人が入ることのできる建造物とすべく、現行法の適用・耐震性・設備の付加・メンテナンスの方法・研究も含め、各建物の説明はさらに奥深く続いた。今回、課題山積の帝国ホテルと、修復をほぼ終えた「宇治山田郵便局舎」(1909年建設/1969年移築)の修復方法の選択・経緯について、たっぷりお聞きした。
その日と翌日、目星をつけておいた建物を巡る。
 阪神淡路大震災で被災した西宮の「柴川又右衛門邸」(武田五一設計、1911年建設/2007年移築)、「北里研究所本館・医学館」(1915年建設/1980年移築)、西園寺公望別邸「坐漁荘」(1920年建設/1971年移築)。翌日、正門近くで出会ったボランティアガイド氏の道案内で、「日本赤十字社中央病院病棟」(1890年建設/1974年移築)、「ブラジル移民住宅」(1919年建設/1975年移築)、「ハワイ移民集会所」(1889年建設/1969年移築)、「半田東湯」(1910年頃建設/1980年移築)をめぐる。彼が定時ガイドだと急ぐ「鉄道寮新橋工場(機械館)」(1872年建設/1968年移築)にたどり着き、日本近代化におけるモノつくりの機械史の説明を聞いた。小林克弘先生の「世界コンバージョン建築巡り」が5月号で最終回を迎え、そこで語られた発電所をコンバージョンした「テート・モダン」ほどドラスティックではないが、この鉄道寮新橋工場の繊細でかつ大胆な鉄(骨)造(並列2棟の切妻屋根を支える鉄造キングポストトラス)の大きな空間が、機械史を展示する空間へと気持ちよくコンバージョンされていたのが印象的だった。
 あまりに機械史に詳しいガイド氏の元(?)職業をうかがったところ、営業畑でエンジニアリングには遠かったそうだ。
帰り際、千駄木の漱石らの住まい「猫の家(森鷗外・夏目漱石住宅)」(1887年建設/1964年移築)に敬意を評して再訪した。
 玄関の踏石前のたたきに大判の絵タイルが埋め込まれていた。後で瀬戸の友人は「本業タイル」かもしれないという。本業窯のサイトを検索したところ、明治以降の日本の建築を彩ってきた染付絵柄タイルの窯で、仏教寺院の敷瓦・茶道具、そして明治以降のマジョリカ焼などの影響を受けながら展開してきた窯のようだ。
 新たな出会いが楽しい明治村だった。
井出 幸子(いで・さちこ)
東京都建築士事務所協会豊島支部 副理事、UIFA JAPON(国際女性建築家会議日本支部)広報担当理事、(株)井出幸子建築設計室一級建築士事務所
1950年 東京都生まれ/1972年 日本女子大学住居学科卒//1972〜2012年 (株)アール・アイ・エー勤務、各種計画・意匠設計に従事/2012年 (株)井出幸子建築設計室一級建築士事務所設立
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