まちの記憶を残したい──現在進行形の文化財保存日記 第5回(最終回)
未来への繋がり
村田 くるみ(東京都建築士事務所協会杉並支部副支部長、冬木建築工房二級建築士事務所代表)
平成26(2014)年暮れ。東京都の文京区と杉並区では、ふたりの文士にまつわる建築物の保存運動が別々に展開していた。前者は明治20年代に樋口一葉が通った菊坂の「旧伊勢屋質店」。後者は昭和10年代に太宰治が下宿していた荻窪の「碧雲荘」。ふたつの文化財保存運動の現場からの報告、最終回をお送りする。
これまでの『コア東京』掲載号:
第一回「ことのはじまり」2015年5月号
第二回「組織づくり」2015年7月号
第三回「保存へのうねり」2015年11月号
第四回「全国的な広がり」2016年9月号
土曜日に「菊坂跡見塾」(旧伊勢屋質店)を訪れると、見学者が詰めかけていた。文京区の指定有形文化財になったことで補助金制度も使え、蔵の屋根を段階的に葺き替えたそうだ。(撮影:筆者)
女子教育の先駆け一葉ゆかりの地が女子の学びの場に
──東京都文京区にて
 樋口一葉は、14歳で伊勢屋からほど近い歌塾「萩の舎」に入門、後には教鞭も取っている。時代は「女性が輝ける社会」への夜明けを迎えていた。萩の舎では主に華族、士族の女性たちが和歌や書、古典文学を学んでいたが、一葉の家は生活が逼迫。18歳で菊坂に移り住んだ後は、しばしば伊勢屋質店に駆け込んだといい、日記には「伊せ屋がもとにはしる」と記されている。
 そんな旧伊勢屋質店の建物が直面した解体の危機。保存を訴えたのは、それまで10数年にわたり「一葉忌」に一般公開を担ってきた市民団体のみなさん。その後、区議会や区長への要望、建築関連団体や日本ペンクラブ会員からの要望など、非常にスピーディな展開を経て、平成27(2015)年に学校法人跡見学園が土地と建物を取得。めでたくも危機が去った。3年経った今(平成30/2018年)、一葉ゆかりの建物はどう活用されているのだろうか。
 まず、平成28(2016)年に「文京区指定有形文化財」の指定を受けた。平日は観光コミュニティ学部(平成27年新設)の授業、学外実習を中心に、文学部やマネジメント学部での教育にも利活用されているそうだ。着物の着方や所作を江戸時代の町家造りの中で体験し、オリンピック2020へ向けて英語でのおもてなしも学ぶ。ユニークな「教室」である。一方、週末の空き時間には無料で一般公開。跡見学園の職員、臨時職員が丁重に解説をしてくれる。多い時には1日200名近い見学者が訪れ、まさに市民に開かれた文化財活用が実践されている。その名も「菊坂跡見塾」という。
「ゆふいん文学の森」外観。東京荻窪から大分県湯布院町に移築された太宰治が住んだ「碧雲荘」の建物。外壁が荻窪の頃よりもかなり黒っぽい仕上げになっている。また、小高い場所に建っているので、いくぶん堂々として見える。(撮影:筆者)
オープン記念式典でのテープカット。(左より)新所有者、由布市長、「ゆふいん文学の森」館長、杉並区長、保存運動会長。(撮影:黒川直美)
2階左端の太宰が暮らした部屋で、メディアのインタビューに応じる柚野真也館長。(撮影:筆者)
グッドバイ、荻窪の碧雲荘!
──東京都杉並区にて
平成27年11月13日:9月に杉並公会堂で1,003名の参加、又吉直樹さんの出演を得て「太宰サミット」第2回を成し遂げた。その達成感と脱力感の中、骨休めに静岡県三島市を訪問。太宰は昭和9(1934)年と14(1939)年に滞在し、「私にとって忘れられない土地」と書き残している。三島大社では、碧雲荘にかつて下宿していた男性から荻窪時代の様子を聞いた。
11月16日:報告会を持ち、保存運動の経緯を振り返る。議員や他地域の方々も交え議論。会場は緊迫感に包まれた。
12月18日:署名簿第二弾を杉並区長に届けた。前回と合わせ5,746筆となった。建築史家の松本裕介さん(当連載第四回で紹介)にも同行いただき、碧雲荘がかけがえのない文化財であることを説く。
12月22日:世田谷区の劇場にて、語り芝居のアフタートークとして「太宰サミット:特別篇」を急遽開催し、太宰朗読家の原きよさんと碧雲荘保存をめぐる対談。
12月23日:碧雲荘の「解体・除却が近い」という緊急情報が入る。「碧雲荘基金」への協力呼びかけを強化。
12月27日:なぜ碧雲荘を残したいのか。太宰の数少ない遺構であること。今ひとつは「昭和初期の高級下宿の建築スタイル」を留めていること。そこで、杉並のもうひとつの高級下宿「西郊ロッヂング」にて、下宿建築としての価値と魅力を松本裕介さんに講演いただいた。もと、碧雲荘下宿人たちが思い出を語る「碧雲荘同窓会」も兼ねた開催である。
12月29日:保存運動開始1周年を迎える。解体・除却へ向けての情報の波に、クリスマスも年末もない。
平成28年1月4日:お正月も飛んでしまった。今度は解体・除却ではなく、碧雲荘建物を取得し移築・活用したいという希望者が突然現われたのだ。旅館のオーナーで、敷地はもともと所有しているとのこと。しかも移築先は遥か遠く大分県の由布市湯布院町。太宰の故郷、青森や三鷹への移築というのは言葉の端に上ったことがあったが、逆方向の九州である……。
2月25日:湯布院への移築がついに公表された。碧雲荘に工事用のシートがかかり、解体が始まる。時々、遠くから来て、名残惜しそうに見つめる人がいる。
4月3日:ついに建物も植樹もなくなり、「荻窪の碧雲荘」は幕を下ろした。グッドバイ、碧雲荘。
4月14日:熊本地震で、湯布院も震度6等に見舞われたが、移築建材に被害はなかったとのこと。まもなく復原開始。
平成29年4月16日:早くも1年が過ぎ、湯布院の碧雲荘は今日から「ゆふいん文学の森」として再出発する。小高い丘の上に復原された建物に泊まってみると、翌朝は、まさに鳥の囀りで目を覚まし、太宰が寄りかかったであろう欄干付きの窓辺から豊後富士(由布岳)を望むことができた。次第にわだかまりが溶けて「ああ、碧雲荘はよいところへ来たのだ」と、そんな気持ちになる。太宰が富士を見て泣いた(『富嶽百景』)碧雲荘は、遠く大分の地にやって来て、これから毎日、豊後富士を見て暮らすのだ。
 式典には、この数年、複雑に入り組んだ関係にあった人びとが、顔を揃えた。報道陣に囲まれてインタビューに答える碧雲荘の元所有者、保存運動のメンバー、杉並区長、移築をやり遂げた棟梁、受け入れ側の由布市長、新所有者、そして「ゆふいん文学の森」の柚野真也館長。
 その後、文学の森には、太宰ファンや古建築のファンだけでなく一般の人びとも訪れ、勉強会や会合ほかに活用されている。入館料700円ドリンク付で何時間でも太宰に思いを馳せるなり読書に没頭するなり、贅沢な時間を過ごすことができる。
平成30年4月:さらに1年。碧雲荘が去った荻窪の地に、杉並区の区有施設「ウェルファーム杉並」がオープンする。元、太宰の部屋の真下には碧雲荘と太宰治の記念碑が建立され、その脇に保存運動メンバーの手で碧雲荘の植栽の一部が植え戻されようとしている。(完)
なぜ建物を残すのか?──⑤
「湯布院でよかったのか」と迷いながら
 前回の当コラムに、田んぼで泥だらけになって遊ぶ少年が登場した。今回は、読書好きのお母さんのそばで、いつも本を読んでいた少年。成長してフリーランスのライターになり、『朝日新聞』の大分県頁に執筆している。そんな日々に、突然、飛び込んできた「移築話」。はるか遠く東京の荻窪の碧雲荘がまもなく壊されると知らされた。
 早速、上京して碧雲荘に対面。建築的な興味よりも「太宰治がそこに住んだ」という事実に惹かれた。また、建物の所有者、太宰ファンなど多くの人びとの思いの詰まった建物が消滅することを「忍びない」と思ったそうだ。しかし移築話が進むに連れて、事の重大さを知る。保存運動の存在が自分の中で引っかかったのだ。運動に携わった人びとの心中を察しては、迷った。「果たして由布院でよかったのか」、……。
 答が出ないまま、2017年4月、子供のころから本が好きだった少年は「ゆふいん文学の森」の館長になった。オープニングセレモニーには300名もの人びとが遠方からも駆けつけてくれ、全国に太宰ファンがいることを改めて実感。多くの人にありがとうと言われたことが励みになる。
 「きっかけは太宰でもいい、建物でもいい、ここに来て本を読む楽しさを感じてもらいたい。やり方によっては大きなこともできそう」と夢を語る若き柚野真也館長は、どうやら「文学の森」の行く手にやり甲斐を見出したようである。その一方で、「太宰と縁もゆかりもない湯布院で何ができるのだろうか」と、太宰さながら、今も悩み続けている。豊後富士(由布岳)には、そんな館長がよく似合う。
村田 くるみ(むらた・くるみ)
冬木建築工房代表、(一社)東京都建築士事務所協会杉並支部副支部長、編集専門委員会委員
大分県生まれ/お茶の水女子大学文教育学部卒業/家族の駐在に伴い、アメリカ、オーストラリア等で専業主婦の後、子育てを終えてから建築士に
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