組織づくり
まちの記憶を残したい──現在進行形の文化財保存日記 第2回
村田 くるみ(冬木建築工房二級建築士事務所 代表)
 東京都内のふたつの区で、2014年末のほぼ同時期に起きた近代建築保存問題。前回(『コア東京』5月号)に続いて、保存活動の様子を現場からお伝えする。2件のうち、建物Xは大きめの新聞記事から、建物Yは段ボール製の立て看板から、いくぶん突然に発信された。もしもあなたがある建物を残したいと思ったら、どのように行動すればいいのだろうか? 何から手をつけるべきなのか。まずは活動団体の立ち上げだろう。ただし、通常の団体設立と違うところは、じっくりと合意形成したり、組織を育てたりという時間がないこと。建物が壊されてしまうのではないかという「脅え」を抱えながら、にわか仕立てでも、寄せ集めでも、ともかく発車しなくてはならない。
 (前回は伏せ字ばかりで読み辛かったかも知れません。ひとつ目の事例については保存活動の結果が出ましたので、名称を表記します)。
樋口一葉が通った本郷・菊坂の旧伊勢屋質店を残せるか──東京都文京区にて
 平成26年12月17日夜:『東京新聞』朝刊に「文京の旧伊勢屋質店 解体危機」と報じられたその夜に文京区民センターで開かれた緊急シンポジウム。いくら急な展開だとはいっても、当日の開催で大丈夫なのだろうか? ところが、会場は人と熱気に溢れ、立ち見まで出ていた(参加者60名)。後にある記者に聞くと、当日朝の掲載は意外と効果が大きいのだという。
 発見その1、「直前の報道にインパクトあり」。
 旧伊勢屋質店の歴史と建築的価値についてのレクチャーからスタート。美しい写真と精緻な図面に、思わず引き込まれていく。なるほど、いきなり「保存にご協力を! 」ではなく、当の文化財の魅力を充分に伝える。そのための準備を怠らないことだ。
 発見その2、「まず、その文化財を好きになってもらうこと」。
 やや固い進行ぶりが、かえって「取る物も取り敢えず」という緊迫感を醸している。ところが、急な展開以前に、実は長い時間をかけた保存努力の道のりがあったことがやがて分かってくる。2002年から「文京の文化環境を活かす会」*1、「たてもの応援団」*2というふたつの市民団体が所有者に協力し、毎年、一葉忌(11月23日)に建物を一般公開してきたのだという。この13年間に約9,000人が旧伊勢屋質店を見学している。「保存運動は一日にして成らず」だ。この2団体が協同するかたちで保存団体の設立準備が行われた。
 平成26年12月28日:「一葉が通った伊勢屋質店を残す会」が発足。作家の森まゆみさんの講演の後、発会式、意見交換会と続き、森さんを会長に16名のコアメンバーにより保存活動がスタートした。緊急シンポジウムから10日での立ち上げだ。「ともかく集まって」、「どさくさの中で動いてきた」とメンバーは後に振り返るが、いやいや見事なテンポで進んでいる。

*1:「文京の文化環境を活かす会」は、2002年に旧伊勢屋質店の危機をきっかけに設立された任意団体。明治期から多くの文学者が住んだ文京区の歴史的・文化的遺産を後世に残したいと、10名で活動をしている。月に1回例会を持ち、これまでに旧伊勢屋質店公開のほか、区立元町公園前の街路に花壇をつくり、植栽活動などを行ってきた。「文学」と「花壇」……、心地よい街になりそうだ。
*2:「たてもの応援団」は、NPO法人「文京歴史的建物の活用を考える会」の通称。1996年に千駄木の「旧安田楠雄邸」の保存のため発足。安田邸の調査、保存提案、掃除、見学会等の活動が実り、安田邸は日本ナショナルトラストに寄贈された。現在、約70名で、同施設の 管理運営受託のほか、建物調査、見学      会、勉強会、お掃除会などの活動を行う。月1回の例会とニュースの発行も続けている。「中野たてもの応援団」、「杉並たてもの応援団」など、各地の「○○応援団」の先駆けとなった。
旧伊勢屋質店の蔵は幕末の創建。見世と蔵の間には腕木門があり、質店の客が人目につきにくいように配慮されている。
文化学園女子大学講師の伊郷吉信さんによると「明治の商家の生活を伝える生活史、建築史、都市史など多くの観点から貴重な遺構」(『東京新聞』2014年12月17日)であるという。
写真撮影:大嶋信道(上)、伊郷吉信(下)
文学者が富士を見て泣いた家を残せるか──東京都内B区にて
 平成26年12月20日:さて、こちらは、各方面から情報集めをしたり、所有者に面会をお願いしたり、やや様子見の状態。というのは、ひとつ小さな足枷がある。保存活動により進行中の敷地売買に支障を及ぼしてはいけないとの危惧だ。そのため、大きな動きを控えている。
 12月29日:仕事納めの喧噪の中、「歴史文化を育てる会」は静かにスタートした。旧伊勢屋質店保存とは対照的に、何らの新聞報道もなく、14名のコアメンバーだけでの立ち上げだ。ゲスト講師から建物Yの文学的価値、歴史的価値、そして文京区旧伊勢屋の事例など、基本情報のレクチャーを受ける。続いて組織づくり。会長のもと、3名の副会長がそれぞれの専門性を活かし、建物Yを歴史、建築、文学の3つの観点から押さえるという組織編成だ。さらに、広報、記録、会計の実務的な部分を2名ずつのメンバーが受け持つ。顧問の先生も3名。
 会員の平均年齢はかなり高めだから「若い人を入れて事務局をお願いしたら……」という声も上がるが、「昭和の記憶」を残す活動を若者と共有するのは容易ではないだろう。取り敢えず、がんばって皆で動かなくてはならない。
 平成27年1月3日:初仕事は行政への要望書提出だ。年末も年始もあったものではない。皆でつくる。メールでやり取りしながら。
 1月5日:新年早々ではあるが、行政の担当者と面談をし、要望書を提出した。ここまでで想像されたかもしれないが、実は敷地購入予定者は地元の自治体なのだ。福祉施設用地とする計画なので、更地での購入を希望している。建物Yの文学的価値、建築的価値を訴えたが、あっさりと「建物の現地保存はない」との答え。
 1月6日:メンバーで議論を続ける。会の中に文系と理系の頭脳が備わっている。それは心強いことだが、一方で感覚の違いも早速、浮き彫りになった。
 大雑把にくくると、文系のメンバーは、「文学的記憶」、「まちの記憶」を残したいのだから、建物を「現地」に残さなくては意味がないと考える。まちと、住んでいる人びとと、建物と、そこで起きたことがら、これらがセットになってこその「記憶」だと。理系のメンバーは、そりゃ現地保存がいいに決まっているけれど、難しいのだから、たとえ遠方の誰かでも引き取ってくれたら建物が生き残るではないか、と建築的価値を重視する。今回のケースでは、所有者はむしろ、後者の考え方に近い。
 1月7日:首長に、5日と同じ要望書を直接、手渡した。
 1月18日:仮に取り壊されるにしても、遠くへ移築されるにしても、文豪Dの旧邸は手の届かぬ物となる。せめて、その前に建物の実測調査をして「記憶」をとどめる「よすが」としたい。そんな思いで所有者に調査要望書を手渡し、ようやく許可をいただいた。
 喜んでボランティア調査員を手配したところ、なぜか本日、一転してお断りの電話。メンバー一同、落胆す。……所有者も揺れている。
当時としては高級だった下宿建物のふたつの玄関。左が家族用、右が下宿人用。
玄関脇のステンドグラス。他にも和洋折衷のデザインが見られる。
応接室の小さな八角窓が、道行く人の目を止める。この頁の写真3点撮影:大嶋信道
なぜ建物を残すのか?──②
駅に降り立った時に……
 たてもの応援団のメンバーで「旧安田楠雄邸」の保存運動に関わった多児貞子さんのエッセイ「明治のお屋敷を残したい…茨城県会館(東京・文京区)物語」(『家とまちなみ』49号、2004年3月、一般財団法人住宅生産振興財団)は、保存運動に疲れた人のスタミナドリンクとしてオススメ。多児さんが保存運動に関わる時のモノサシのひとつは、「もしこの建物が失われたら……ということをイメージする」のだという。「建物がなくなっても心が痛まないなら保存に関わらないし、その建物を失うことで町が空虚でつまらなくなるとしたら、その建物は保存活用するべきだと考える」。東京駅の保存でも事務局を務めた多児さんは、インタビュー(「東京駅はこうして残った」佐藤弘弥、YouTubeにアップロード、2009年)に答えて、「駅というのは、その場所に降り立った時に、これから何か良い事が起こるんだぞとか、これからの自分の未来に希望が持てるんだ、そういう印象が持てることが大事」と述べる。
 朝の散歩、通勤の途中、学校への道すがら、人びとが「まちなみ」からのメッセージをキャッチし、ちょっぴり元気になる、嬉しくなる……。だとしたら、「ボロ家の保存、維持にお金をかけるなんてもったいない!」と非難される建物保存費用も、高すぎる投資ではないかも知れない。
村田 くるみ(むらた・くるみ)