都市バグダードとイスラム
バグダード(図1)の歴史は古い。集落の存在は、BC3000年代、古代メソポタミア・シュメール都市の時代に確認されている。また、BC1800年頃の記録に、「バグダドゥ」の地名も出てくる。そんな「バグダード」の地が、中世期(634年)、イスラム教の始祖ムハンマド(610年、40歳ごろ神アッラーの啓示を受け宗教指導者として活動を開始)の流れをくむ、アラブ人の支配下に入る。661年に成立したイスラム初の王朝・ウマイヤ朝は、都をシリアのダマスクスに置くと、都市のアラブ人は部族ごとにまとまって生活を始める。彼らは征服地にミスル(軍事都市)を建設すると、ここにアラブ人を配置、地方支配の拠点とした。彼らは、アラブ至上主義を掲げ、非ムスリムだけでなく、非アラブ人のムスリム(イスラム教徒)に対しても、人頭税と地租税を課した。具体には、戦利品である土地(農作物の生産基盤)に税を課し、その収入で戦士に年金を支給した。農民の地租税負担は、生産額の半分近くに上った。ただしアラブ人は優遇され、その1/10とされた。
【アッバース革命】
8世紀、イスラム世界※はウマイア朝の下、中央アジアから、北アフリカそしてイベリア半島にまで広がる。しかし、領土拡大はここまで、この後は領域の統治経営に入るが、戦利品が増えなくなると、民の関心は富の分配へと向かう。ウマイヤ家は、ある時期までムハンマドの宣教に抵抗したこともあり、民の支持という点では必ずしも十分でなかった。政権の正統性に疑念を抱く者も多く、人事や施策において、アラブ人を優遇することに、不満を持つ者も多数いた。
そうした状況下の750年、ペルシア人を中心にシーア派など反体制派が、ムハンマドの叔父・アッバースの子孫たちと連携し、彼らの指導の下、イラン東部でホラーサーン軍が蜂起すると、ウマイヤ朝は倒れ、アッバース朝(750~1258年)が成立する。
しかし、これは単なる政権交代ではなかった。この後、政権奪取に功のあった、シーア派の者は巧みに退けられ、イスラムの主力であるスンニ派の下、アッバース家による統治が始まる。これはイスラム世界のあり方を変える動きでもあった。即ち、スンニ派ウマイヤ朝からシーア派を介し、スンニ派アッバース朝への二重の回天による、アラブ帝国(アラブ民族優遇)から、「平等」のコンセプトの下、多民族が連携融合する、イスラム帝国(イスラム法に基づく普遍性の高い国家)への脱皮であった。
※イスラム世界では、神にのみ立法権があり、その意思は予言者により表現される。君主は法に基づき執行権を行使し、正当性は裁判官が判断する。図式を示すと、神(アッラー)→予言者(ムハンマドの言行録「コーラン」、慣行・範例「スンナ」)→ウラマー(法律家、典拠を解釈し法令整備)→君主(国家統治)→宰相(行政執行)→裁判官(紛争処理)
【イスラム社会の特性】
イスラムは、都市に誕生した宗教で、その始祖ムハンマドはもともとメッカの交易商人、都市と砂漠の間を行き来する旅人だった。彼は家柄や血縁また地域との絆を断ち、イスラムの理念の下、イスラム共同体(ウンマ)の形成に邁進した。イスラム社会を規定するイスラム法(民法、刑法、行政法から国際法、戦争法にまで及び幅広い)は、その彼の言行を基にまとめられており、商取引上の契約を重視し、自由な活動と平等原理を基本としている。中世は、イスラムが世界文明の中心に位置し、商業・交易活動を通じ、洋の東西を結んでいった。
イスラム都市では、家族、同郷、同業の者などが、さまざまにグループをつくり、その相互の関係性の下に共同体を形成。人びとはその複合的な多重ネットワークを介し、多様に結びついて暮らした。この時代、都市に市役所はなく、また市長もいなかった。市民は、時の政権から直に支配され、税を徴収された。しかし、この税は公共施設の整備など、都市機能を維持するためには使われなかった。都市の公共施設は、有力者の財の寄進により、その機能が保持された。
イスラム社会に階層構造や統合の原理はなく(唯一、聖地メッカが統合の象徴とされた)、都市も街区の寄せ集めで、人びとはフラットな状況で、外部に向け広く活動展開していた。アッパース朝は、カリフ(最高指導者)の下に、宰相と官僚、常備軍が控える近代的な統治機構を構築(中世欧州は貴族と封建騎士=土地支配権を有する小領主)、地方には総督(行政、治安を担う)の下、軍人や徴税官などが置かれた。都市では、モスクの礼拝指導者等が街区長となり、末端行政事務を処理した。アッパース朝は、信教の面で寛容で、税の賦課の面でも、アラブ人と他の人びととを平等に扱った。他宗派の者でも、納税義務さえ果たしていれば自由で、異民族にも自治を認めた。こうして帝国は、多くの民の支持を得て、中世期500年に及ぶ治世を実現する。
環濠円城都市の建設
中世期のバグダードは、その中核がティグリス川西岸に位置した(図2)。この地は、アッパース朝2代カリフのマンスールにより、新都として建設されるが、それ以前はキリスト教の司祭や羊飼いなどが住み、時おり定期市が開かれる程度の、小さな農村にすぎなかった。バグダードが、アッバース朝の新都に選ばれたのは、ティグリス川とユーフラテス川がこの地で接近し、両河川を結ぶ運河(イーサー運河、サラート運河など)が密集するなど、水面に囲まれ、都の防衛に有利であったこと、また肥沃な穀倉地帯(サワード)の中央に位置し、食糧事情にも恵まれていたこと、さらに農産物等の集積地で、東西方向の陸の隊商ルート「シルクロード」と、海へとつながる南北方向の河川輸送ルートとのクロスポイントにあたり、イスラム共同体の中核、その活動拠点として、交通・交易上たいへん便がよかったことにある。それは「バグダード」が、ペルシア語で「神(バグ)の贈り物」、を意味することにもあらわれている。
マンスールは、新都建設にあたり、この地に立つと地面に灰で円を描き、これに綿油と綿の実を撒いて、火をつけ都市の輪郭を描くと、その範囲(広がり・規模)を自身の目で確かめたという。都バグダードは円城として762年に着工、4年の歳月をかけ766年に完成する。バグダードのアラビア語による名称、「メディナ・アッサラーム」は「平和の都」を意味する。新都は「平和」を理念に防衛を重視し、計画都市(約7,000ha)として堅固につくられた。新都が「平和」を理念にしたということは、建設当時は、その裏返しで、世の中は乱世だった、ということである。
実際、中世が始まるころ、ユーラシア大陸は寒冷期にあたり、食糧を求め民族が大きく動き、抗争が絶えなかった。そこでムハンマドは神の啓示を受けると、イスラムの教えを広めることで、人びとの社会不安に対応していった。彼の地の征服、即ち、帝国の建設は、その実践(聖戦)でもあった。アッバース朝は、広大な帝国(図3)の統治にあたり、商人の活動基盤である都市とそのネットワークを重視し、自転車の車輪に似たハブ&スポーク(図4)型の統治構造を確立。常備軍の下に駅伝制(東12km – 西24kmごとに宿駅930。通常時は馬、緊急時は伝書鳩を利用)を整え、新都と地方各地とを街道で直に結んだ。そのハブにあたる部分が「円城」で、スポークが各街道である。
こうしてカリフは宮殿にいても、駅逓長(地方を管理運営する総督、徴税官の目付も兼ねる)を通じ、毎日、情報を収集することで、「鏡をのぞくかのごとくして、地方の実情に通じている」といわれた。円城は、直径約2.35㎞の正円で、周囲を高さ34mの二重の城壁と、その外側に取られた幅20mの水堀で防衛された(図5)。また、二重の城壁の間には幅60mの空地が取られ、いざというときの対応スペースとされた。さらに、円城内には、国家の中枢管理機構を囲む壁もつくられ、全部で三重構造の堅固な城塞都市を構成した。
この円城には門が4つ置かれ、門から円城中央に向かう道路沿いには、初期、アーケードが設置され、商店が並んだ(治安の面から建設7年後の773年、円城の南3kmほどに位置するカルフ地区に移転)。また、アーケードの裏側は、官僚や軍人の住宅街となった。城壁には、一辺50cmの焼き煉瓦の上にタイルが貼られた。円城都市の利点は、城壁の整備が最小限ですみ、経済的であること、また形状が丸いことから防禦に死角がなく、大きな効果を発揮することにある。
バグダードの円城中央には、城壁に囲まれた直径1.8kmの大きな円形広場がとられ、その中心には高さ48mの緑色のドームを乗せたカリフの宮殿「黄金門宮」(図6)と付属のモスク、それに衛兵の詰所が配置され、その周囲を樹林が囲んだ。また、広場の周囲には、日干し煉瓦でつくられた、諸官庁(情報、税務、軍事、法務など)や、親衛隊の駐屯所(王朝樹立に功績のあったホラーサーン軍団)とともに、カリフ一族の住居や官僚・軍人の宿舎が置かれた。
バグダードの円城の都市計画は、もともとはペルシア人の発想で、「世界は、円盤の地上と半球の天空からなる」という、彼らの観念を体現したものである。これまで円形都市は、BC1000年頃の北シリアなどにも見られた。イラクではサーサーン朝ペルシア(224~651年)の、アルダシール1世が円形都市(3世紀のアルダシール・フワッラ)を既に建てており、その都市形態は、このバグダードの円城と、瓜ふたつといわれる。
また、円城の4つの門からは、帝国が支配する各方面へと街道が伸びた。即ち、南西部に置かれたクーファ門からは、アラビア半島をわたりイスラムの聖地・メッカへ。北西部のシリア門からは、地中海を経てビザンツ帝国へと伸びた。また、北東部のホラーサーン門は、イランのホラーサーンからシルクロードにより、中央アジア・中国に至った。そして南東部のバスラ門は、バスラから海の道としてのインド洋を経て、東南アジアへと通じた(図7)。
カリフの暮らす円城と市民が住む周辺市街とは、4つの門(人の出入りは夜間禁止、昼間もその出入りを改めた)で隔てられていた。
商人や職人など一般市民の住む街は、円城の外で、街道沿いの各方面ごとに壁で区切られ、治安の面から夜間は出入口が閉鎖された。また、市民はこの住区に、出身地ごとに分かれて暮らした。住区には、当該方面を管轄する責任者が置かれ、目を光らせた。住区を形成する街区は、通りにつながる入口を入ると、その内側はモスクを中心に、住宅や店舗などが密集、見通しの悪い狭い道がジグザグに回り、末端は袋小路となっていた。
そんな閉鎖的な道ではあるが、住宅地の相隣関係は、イスラム法に詳細に規定されており、木戸を抜け各住宅の中庭に入ると、噴水や緑が置かれ陽光が差し込み、安らぎの場を形成していた。
【公共施設整備とまちづくり】
中世イスラム社会は、防衛と治安それに経済を担う、支配層のアミール(王族、総督や軍人、官僚)、そして地元名士である大商人、また知識層のウラマー(裁判官、法学者、教師など)が連携し、社会の指導層を形成。このうち資金力あるものがワクフ制度を活用し、道路(橋も含め)や学校、病院などの公共施設を整備し、都市を維持・運営した。
交易商人から身を起こしたムハンマドの影響もあり、イスラム都市は商業が活発で、大規模な商取引のため、共同出資や手形決済など、商業システムが発達した。この自由で開放的なバグダードの市場には、中国の絹織物や陶磁器、インド・東南アジアの香辛料、アフリカの金や奴隷など、世界中の商品が集まり、大いに賑わった。773年、市場が王城からカルフ地区に移転すると、果物市場、織物市場、両替商街、書店街、羊肉屋街のほか、隊商宿なども建てられ、商業地が形成される。そうしてこの地に商工業者が集うと、先進技術を用いて生産が進み、商取引の一大中心地となっていく。特に質の良い織物などは、海路等を通じ世界各地に輸出された。
また、ワクフ制度を用い、集積した市場群(数100の店舗からなる)と連携する形で、最先端の医学知識と技術を集め、世界初の総合病院が建てられた。そして病院施設のサービス内容は、ワクフ制度により、市場が繁栄すればするほど充実していった。
近代の日本や欧米では、学校や病院、水道や橋梁などの公共施設は、国や自治体が税金を投入し、整備するものと考えられている。また、キリスト教世界では、教会がその活動の一環として、学校、病院等を併設する形で、公共施設を整備する場合がある。しかし、イスラム社会では、長いこと公共施設の整備や維持・運営は、ワクフ制度を活用した有力者の寄進、即ち、ムスリムの義務履行のひとつとして実施されてきた。
バグダードのまちにある、孤児院など「貧者の館」と呼ばれる救済施設は、市場の商人たちの寄付(売り上げの約1割を充当)により運営されている。ある施設は、毎日平均30人ほどの商人が寄付に訪れたという。中世期バグダードの円城都市の外周市街には、その数約3万ともいわれたモスクが存在したが、その近隣には公衆浴場(約1.5万、蒸し風呂主体、社交場)や市場、隊商宿等が置かれ、これら施設相互がワクフ制度により、リンケージ(収益施設の利益を公共施設に還元)することで、街は機能した。
3代カリフの代に、ティグリス川東岸に軍隊が配置されると、これにあわせ商工業者も移住し、ルサーファ地区を形成する。また、アッバース朝の宰相は、歴代この地区の北に位置する、シャンマーシーヤ地区に大邸宅を構えた。バグダードは、当時、唐の長安と並ぶ世界都市で、8世紀半ばから10世紀半ばまで、中国やインドからアフリカや欧州までを結ぶ、国際交易網の中心に位置し、シルクロードの西の商業拠点として繁栄を極め、人口は最盛期120万人に達する。この8世紀末の繁栄期、5代カリフのハールーンは、大説話集『千夜一夜物語』(アラジン、シンドバッド、アリババなど有名な説話が載る)の中で、従者を連れ、夜な夜なバグダードの街を歩き回る、風流な君主として描かれる。
この時代、バグダードは世界の学問の中心で、8世紀後半、紙の製法が中国から伝わると、媒体は羊皮から紙へと代わり、行政通達の信頼性が増進、また外国語の書の翻訳事業も進み、政治の安定と文化の興隆をもたらした。まちの書店街にはアラビア語に翻訳された、ギリシャの古典本などが数多く並んだ。また、図書館にも何十万冊という本が収蔵されるなど、この時代、バグダードはユーラシア大陸の知識の宝庫となった。このころ、インドから数学が伝来、これをもとに今日に続く、アラビア数字(1, 2, 3……)が生み出される。5代カリフの時代、宮廷文化も絶頂期を迎え、詩人や歌手など多くの文化人がバグダードに伺候した。
また、ハールーンの残した「知恵の宝庫」(ギリシア語文献を中心とする図書館)をもとに、830年に7代カリフのマームーンによって「知恵の館」(古今東西の文献をアラビア語に翻訳する施設)が建設されると、ギリシア語文献の数多くがアラビア語に翻訳され、古典の研究が進んだ。この館には、天文台も併設され、自然科学の研究も進む。そして1234年には世界最古の大学といわれる、マドラサ「ムスタンスィリーヤ学院」(写真1)ができる。こうしてバグダードは、世界各地の文化が融合する形で国際化が進み、高度なイスラム文化を形成、世界の最先進地域となる。
イスラム世界で研究が進んだ、古代ギリシア文化が、後日、十字軍の遠征に伴い欧州へと逆輸入されると、この古代人の知恵を得て、科学や芸術等の分野が発展、ルネサンスの花が開く。
アッバース朝の滅亡とバグダードの崩壊
アッパース朝の中核バグダードでは経済が発展、これに伴い文化も隆盛したが、その一方、イベリア半島や北西アフリカなど、遠方の地では徐々に独立の動きが出てくる。こうして地方が自立する10世紀後半以降、駅伝制の機能が弱まると、中央の税収も減少、そうして常備軍(草創期のホラーサーン軍兵士の代替わりが進む9世紀、世襲化を避け皇帝親衛隊に傭兵マムルーク[騎馬遊牧民であるトルコ人奴隷出身者]が採用されると、次第に軍の傭兵化が進む)の俸給支払いが滞ると、軍団の士気が低下、軍内部の抗争や市民との対立が発生、また、民衆の暴動も起こり、洪水など自然災害もあって、836年、都は140km北方のサーマッラーに遷都する。50年ほどして都はバグダードに戻るが、その後の940年、宮殿がチグリス川東岸に移ると、帝国は次第に衰退していく。1055年、この隙を突いて中央アジア出身のセルジューク朝が、一時、バグダードを占領する。そうしたこともありイスラーム文化の中心は、バグダードから次第にカイロへと移っていく。その背景としてアッバース朝カリフ(宗教・政治権威)の威信の低下に伴う、スルタン(イスラム王朝の統治権限を有する君主)制の確立や、イクター制(軍人等の地方官が、指定された土地から、俸給相当の税を徴収できる権利)の一般化など、一連の西アジア社会の構造変化が影響している。
1258年、モンゴル軍の侵攻を受けると(図8)、ついにアッバース朝は滅亡、バグダードは灰燼に帰してしまう。ということでバグダードに当時の建造物を求めることは難しいが、ふたつのバグダード所縁のものを紹介する。ひとつは市内に現存するミナレット(写真2)、もうひとつは遷都先のサーマッラーに現存する、最古最大規模の特徴あるモスク(写真3)である。
アッパース朝は、ローマ帝国や隋・唐帝国に似て、同じようなプロセスを経て滅亡へと至るが、この中世期、バグダードなどのイスラム都市が編み出したワクフ制度=まちづくりリンケージの仕組みは、今日のまちづくりに通じるものがある。即ち、容積移転の手法の活用と結びついた用益権の設定による商業業務施設の整備・運営、これと連携した歴史的建築物や緑地の保全、また眺望景観の形成などがそれである。また、都心居住に向けた協力金の寄付と、それを受けた家賃補助、市街地整備に向けた学校等公共公益施設整備の負担なども同様である。地域施設の整備と維持・運営ということでは、昨今、流行のエリアマネジメントへの応用も考えられるので、建築を介したまちづくりにあたっては、これらの仕組みに留意することが肝要となる。
Column 1
【イスラム世界の拡大と都市】イスラム教は、7世紀初め、神の啓示を受けた預言者(神の言葉を預かる)ムハンマドが創唱した、唯一神アッラーを信奉する宗教。イスラム教は、彼の死後、後継のカリフ(最高指導者)の下、100年も要せず急速に信者を増やす(帝国を拡大する)。その要因は、イスラム世界の外を、布教に向けた活動(聖戦)の場と捉え、その活動の成果(領土、民、生産物など)を、「カリフ1/5、残り4/5を参加者」で分配する仕組みにあった。また、イスラム世界の都市づくりの特徴は、全体計画に基づき地区が整備されるのではなく、街区が整備され、その集合体として都市が形成されていく仕組みにあった。即ち、①イスラム法の相隣関係ルール基づく街区の整備、②有力者の寄進によるワクフ制度を活用した、公共公益施設の建設・維持運営、③共有者・隣接者の土地先買い権の行使による土地利用調整などである。
Column 2
【ワクフ制度】ワクフとは、物件(土地や建物)の所有権を留保し、用益権を放棄する行為で、宗教上の寄進(寄付)にあたる。この制度は、多く都市部で活用され、モスク、学校、病院、慈善施設など、公共公益施設の整備や維持・運営に活用される。イスラム社会には、ムスリムの義務として、①信仰・告白、②礼拝、③断食、④喜捨、⑤巡礼の、5つの行いがある。ワクフは、このうちの「喜捨」に基づく行為とされる。ワクフは、慈善目的に寄進された財産、「ワクフ財源」を指す。たとえば市場(店舗)や隊商宿、公衆浴場や賃貸住宅、農地や果樹園などが、ワクフ財源となり、その所有権を残したまま、売上利益とか使用料、入湯料、賃貸料、地代など、用益権の全部また一部を放棄し、これを管財人に寄進することで、ワクフ施設(モスクや学校、図書館、病院や慈善施設=孤児院や養老院など救貧施設、それに水道や橋、地域の水飲み場・井戸など)の、整備や維持・運営が行われる。
ワクフ施設とワクフ財源の組み合わせの事例としては、①モスクと公衆浴場(入浴料の一部がモスクの維持・運営に充当される。信者は、身を清めて礼拝に臨むので、施設相互の関係性が高い)、②病院と市場(店舗の売上げの一部が、病院で必要になる薬や食べ物、医師の給料など、病院の運営に充当される)、③学校(寄宿舎含む)と賃貸住宅、隊商宿など(先生の給料や寄宿舎の食事代などに、賃貸住宅の賃料や隊商宿の宿泊料の一部が充当される)がある。
ワクフ制度は、王侯・貴族、軍人・官僚、大商人、ウラマーなどが、財産の運営管理を管財人に付託し行われる場合が多いが、一般市民も管理財団を設立(寄進者またはその子孫が管財人)するなどして行う。ワクフの設定にあたっては、寄進者により財産の運用を定めた、「ワクフ文書」が作成される。その内容は、①神への祈りと寄進者の名を記した「序文」、②ワクフ財源の内容やその位置を示す「ワクフ指定」、③ワクフ財源の収益使途と運営方法を規定する「ワクフ条件」、そして④ワクフの永続を祈願する「結び」、の4部構成である。なお、ウラマーには商人出身者が多かった。
[参考文献]
宮崎正勝『イスラム・ネットワーク』講談社、1994年
三浦徹『イスラームの都市世界 世界史リブレット』山川出版社、1997年
後藤明『イスラーム世界史 放送大学教材』 (財)放送大学教育振興会、1997年。イスラム世界を中心に世界史を捉えることで、西欧基準とは異なる歴史を教えてくれる。
佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論社、1997年
後藤明『ビジュアル版イスラーム歴史物語』講談社、2001年。イスラム世界の歴史を丁寧に整理して記述、欧米とは異なる歴史の捉え方を提示してくれる。
佐藤次高『キーワードで読むイスラーム』山川出版社、2003年
日端康雄『都市計画の世界史』講談社、2008年。都市バグダード等について記述。
小林登志子『中公新書 文明の誕生』中央公論新社、2015年
神野正史『30の都市からよむ世界史』日本経済新聞出版社、2019年。中世バグダードの動きを概括。
アイラ・М・ラピダス『イスラームの都市社会 中世の社会ネットワーク』岩波書店、2021年。社会史・都市史として、イスラムの都市社会を描いている。やや読みにくいが、人びとのさまざまな関係性の中で、社会が営まれていることがわかる。
「世界の歴史まっぷ」https://sekainorekisi.com/
「世界史の窓」https://www.y-history.net/
河村 茂(かわむら・しげる)
都市建築研究会代表幹事、博士(工学)
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など
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