都市の歴史と都市構造 第6回
商業・交易の迷宮都市「モロッコ・フェズ、ヴェネツィア」
河村 茂(都市建築研究会代表幹事、博士(工学))
図1 モンゴル帝国の版図
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/ File:Great_Mongol_Empire_map.svg
図2 中世~近世、北半球の気温変化
出典:吉野正敏「暮らしの中のバイオクリマ、歴史時代の気候変動」挿入図。IPCCがまとめた最近の2,000年間の北半球の気温変化。(IPCCによる)
http://www.bioweather.net/column/essay4/歴史時代の気候変動/
商業・交易活動のグローバル化
 中世期の10–12世紀、ユーラシア大陸各地で気候変動温暖化が進む。これを受け東アジアでは、長江下流部のデルタ地帯に、華北の水利・土木技術が導入され、干拓により水田開発が進み、稲や茶など農業生産が増大、その産品の流通過程で、中国を中心に一大商圏が形成される。
 この後、寒冷化に転じると、中央アジアで遊牧民の動きが活発化、部族を統合し騎馬遊牧国家として、モンゴル帝国が組織される(図1)。モンゴルは軍事力を背景に、13–14世紀ユーラシア大陸を広く支配、駅宿制を広げ関税を廃止、治安を確保し手形での安全な旅を保障すると、ムスリム(イスラム教徒)商人を介し西の欧州と東の中国商圏とが結合、西アジアの商圏と一体になって、世界的規模で陸と海に跨がる、商業・交易の一大ネットワークが形成される。パックス・モンゴリカである。
 この間の1333年、寒冷化に伴い中国で飢饉が発生、翌年には、南部からペストとみられる疫病が大流行する。一方、欧州でも、中世の温暖期に森林開発が進み、農耕地が拡大、農産品の種類・量が増加、商業・交易が隆盛し、都市化が進展する(第3の都市化)。しかし、14世紀、寒冷化に転じ(図2)飢饉を招くと、民族間の侵略や抗争が相次ぎ、栄養の不足した人びとの間に、1347~53年にかけ史上最大規模の疫病(ペスト※)が広がり、人口が2/3ほどに減少する。これは戦争や商業・交易活動の広域化に伴い、人や物が大きく動く中、農業開発による森林伐採などで、ノミを背負ったネズミが山を下るなどして、住宅密集地に入り感染が拡大したことによる。
※ペスト菌は、ネズミなどげっ歯類の体内に生息。これに寄生するノミが、人を吸血することで、主に感染する。
 このペスト禍に伴い欧州では、労働人口が大幅に減少、進展していた農民の賃金労働者化と相まって、領主と農民との間の力関係が変化、また都市では商工業の発展をうけギルドが組織され、大商人らは教皇の支持を得るなどして、皇帝などから自治権(貢納負担の免除、領主裁判権の不適用)を獲得、自治都市(コムーネ)を形成する。そうして次第に封建社会の解体が進んでいく。
 そうした時代背景の下、アフロ・ユーラシアに形成された交易圏の内、地中海の縁辺部にあって、砂漠の隊商交易や海洋の商船交易に活路を見い出し、イスラムやビザンツの帝国から自立、自然の地勢を活かす形で安全を確保、持続性の高い独自な都市づくりを進めることで、現在もなお、中世の佇まいを色濃く残し人気を集める、モロッコ・フェズとヴェネツィアを紹介する。
図3 フェズの位置(文字追加筆者)
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a3/LocMap_of_WH_Fes.png
図4 袋小路が巡るメディナ
出典:松原 康介「モロッコ・フェス旧市街の保全再生政策の展開」挿入図。主要通り(タラー・ケビーラ及びセギーラ)の位置と沿道施設。
https://gakkai.sfc.keio.ac.jp/journal/.assets/SFCJ3-02.pdf
写真1 フェズの旧市街全景。
出典:「迷路のような街へ!トラベルjp」挿入図。写真:江田 由衣
https://www.travel.co.jp/guide/article/43877/
写真2 ブー・ジュルード門。
出典:「travel Book モロッコ」挿入図
https://www.travelbook.co.jp/topic/54848
写真3 低地に配された皮なめしの染色場。撮影:著者
写真4 フェズ旧市街(メディナ)の路地。撮影:著者
写真5 旧市街の迷路状路地網と住居群(□は中庭)。
出典:「今すぐ、どっかへ」挿入図
https://do-cca.com/2018/09/05/beautifultown_fes/
すり鉢状の城塞都市「モロッコ・フェズ」
【都市フェズの歴史】
 アフリカ大陸の最北西部に位置するモロッコ、そのまた北部にある古都・フェズ(図③)。この地はマグレブ(日の沈む地)といわれ、周囲に大西洋と地中海、そしてサハラ砂漠が迫る地勢にある。フェズは、アトラス山脈の北、サイス平野にあり、フェズ川とセブー川とが合流する、その南に位置している。この地は、大西洋に至るサハラ交易の東西交易路と、地中海沿岸に延びる南北の交易路とが交差する要所で、巡礼者や商人のための隊商宿や商店等が立地した。
 8世紀末、イスラム世界ではウマイア朝が倒れ、アッパース朝が成立するが、これに反対する勢力のひとつイドリース家は、北アフリカの遊牧民ベルベル人の支援を得て、788年にイドリース朝(974年滅亡)を輿し、808年には首都をフェズに移す。この地方独立王朝は、フェズ川西岸に街を開くと、ムスリムの移住を奨励する。これを受け818年に、イベリア半島のコルドバから、住民8,000人ほどがこの地に移り、フェズ川東岸にアンダルス地区を形成する。また、825年には、チェニジアのケルアンを追われた住民300人ほどが、フェズ川西岸に移住し、カイラワーン地区を形成する(図4)。
 この地では、イドリース朝が倒れた後も、イスラム王朝が続き、1146年の調査によると、フェズに、モスク(礼拝所)782、住宅約9万、店舗約9千、商館467が存在したという。その後、1196年にフェズを首都とし、マリン朝(1465年滅亡)が興ると、モスクやマドラサ(高等学院)などの施設が多数建設され、1276年には新市街の建設も始まる。この時期が中世フェズの最盛期で、人口は20万人ほどを数える(現在は100万人都市)。その後、反乱などで街は徐々に衰退していく。

【地形を活かした都市構造】
 現在の都市フェズは、3つの市街により構成されている。即ち、まず9世紀に形成された経済中心としてのメディナ(旧市街)、また、その西には13世紀に整備され、マリン朝の王宮などが置かれた、行政中心としての新市街、そしてフランス植民地時代に整備された、近代市街がある。ここでは中世期、北アフリカにおいて、イスラム教の中心都市として繁栄、今日もなお世界中から観光客を集める、世界遺産「迷宮都市」としてのメディナを取り上げる(写真1)。
 中世は戦争が多い時代で、人びとは生存への不安から、宗教に救いを求めたり、強力な軍事力を有する領主の保護下に入った。この時代の都市機能として重要なものに、「防衛」がある。フェズは、サハラ交易の隊商都市で、飲料水として川の水を谷地に得ると(排水は下流部で都市外へと流す)、都市を外敵から防御するため、フェズ川を底とする、すり鉢状の丘の地形(高低差100m)を活かし、その頂部に城壁を構築する。城壁内は、2.2×1.2km(約264ha)の広さを有する。
 この城壁には8つの門が設置され、正門にあたるブー・ジュルード門(写真2)からは、中心街に向け並行する2本の主要街路が配される。また、主要な門の辺りには、ロバが行き交い物売りで賑わう、広場(周りにカフェ、食堂、商人宿が立地)が取られる。メディナ内の交通は徒歩主体で、自転車やロバなどがこれを補う。自動車は一部区間を除き、市街には入れない。公道の幅員は3.5mほどで、ラクダ2頭がすれ違えるほどの幅である。
 正門から主要街路のひとつタラー・ケピーラを行くと、もうひとつの主要街路タラー・セギーラと交わる地点に出る。この辺りが世界最古のマドラサを擁する、街のランドマーク「カラウィーン・モスク」(2万人収容、北アフリカ最大)のある場所で、近くにはスーク(市場)、ハンマーム(公衆浴場)、公衆便所、水飲み場などが整備されている。これら施設は、ワクフ制度を活用し、モスク(チェニジアから移住してきた、富豪の娘たちが建設)と一体となって、運営されている。隣りのアンダルース地区には、フェズのアイデンティティともいえる、タンネリ(革職人街、写真3)が広がる。この界隈は、なめし皮や染色剤などが強烈な異臭を放つが、スークにはカラフルな色彩の革製品や染色小物などが置かれ、今日、多くの観光客で賑わっている。

【市街の迷宮性】
 メディナの主要な通りを行くと、複合商業施設「フォンドウク(生産、加工、販売+宿泊+家畜(ロバ、ラバ)置き場)」やスークが現れる。中心街には、エリア毎に同業種の店舗が軒を並べる。この中心街を離れ住宅街に入ると、市街の道は地形に合わせ線形を変え、ジグザグ状になる。通りの幅や高さは、「ラクダの運行基準」により規定されている。すなわち、次第に曲がりくねり、小路(幅1~2m)となり(写真4)、また場所によっては階段状になったり、上空に建物が張り出し、末端では行き止りの袋路となる。これは敵が侵入してきた時、そのスピードを抑制、住民の避難を容易にしたり、外敵に対抗するべく、時間を稼ぐために取られた措置である。したがって、メディナには見通しのよい十字路というものはなく、場所によってはわざと鍵の手に曲げるなどして、道は迷路状につくられている。このような市街に入ると外来者は方向感覚を失い、道に迷ってしまう。しかし、勝手知ったる住民には、なんら問題はない(図4)。
 また、建築物の大きさも、地形と密接に関係している。すなわち、坂の勾配が緩やかな場所では、敷地を広くとれるので、モスクやハンマームなど、大規模な建築物が建っているが、逆に坂の急な所は、小規模な店舗や住宅となっている。
 中世期、この地は幾多の王朝の首都となったように、異民族や他部族との間で長いこと激しく抗争が続いた。市街の迷宮性は、そんな時代を背景にした、フェズの知恵でもある。公共施設の配置をみると、街区内には小モスクが1カ所、ハンマームは1~3街区に1カ所、食料品店舗は1街区に1~数カ所とられる。こうした社会施設は、みな住民の交流の場となっている。
 これら施設の周囲には、住宅(数100)等が建ち並び、街区を形成する。この街区の集合体が、メディナである。市街には道路が交わる部分などに、小さな広場がとられることもあるが、モスク(礼拝所、広く平らな屋内空間、広場機能を果たす)が、その役割を果たしてきたことから、イスラム都市では大規模な広場は発達しなかった。また、市街には街区と街区の間に、治安維持のため門(街区門)が設置された(現在、中心街を除き扉はついていない)。
 住宅地は、ひとつの袋小路から2~5の住宅に出入りできる。住宅は入口の扉だけが道路に面し、周りは高い塀で囲まれる。この入口の扉や窓など開口部の位置も、プライバシーに配慮し、向かい合わせとならないよう工夫されている。また、建物の多くは、中庭を中心に、これを囲む形に部屋等が配置されている。住宅は周囲との関係で、敷地の規模・形状が異なり、建物も不整形となりがちであるが、入口の扉を抜け、細く暗い廊下の奥に開かれた中庭は、その重要性(接客の場、宴の場)に鑑み、正方形ないしそれに近い矩形をしている(写真5)。中庭に面する各部屋は、奥行より間口が広くとられ、左右対称的に配置される。これは城壁に囲まれた稠密な市街にあって、空間の公私を明確にするとともに、必要な採光や換気、また静けさやプライバシーを確保し、心安らかに暮らしていくための知恵でもある。このようにイスラム都市では、相隣関係が重視され、「建築規定手引書」に基づき、部分と部分の関係に注意が払われ、環境が形成されている。日照や騒音など相隣関係の紛争処理についても、イスラム法に詳しく規定されている。
 このフェズのようにイスラム都市は、地を這う虫の眼からのまちづくりとなっており、モスクなど主要な施設の配置が定められると、後はパッチワーク的に部分と部分とを繋いでいき、その集合体が都市を構成する。
 フェズは近代に入ると、フランスの統治下で、メディナ内での新築が禁止される。このため建築物の多くが、今日、歴史的建築物となり、中世の都市構造を残すメディナは古都を形成、その独特の佇まいから、1981年に世界文化遺産に登録される。
図5 ヴェネツィアの位置と潟上の島々
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Venedig-lagune.png
図6 本島の迷路状市街
出典:「旅情溢れるヴェネツィア」挿入図
http://omitsuliveinhitachi.blog135.fc2.com/blog-entry-266.html?sp
写真6 大運河カナル・グランデ。
出典:「住んでる人に聞いてみた」挿入図
https://sumikiki.com/venetia-osusume-hotels1/
写真7 小運河とゴンドラ。
出典:「半日貸切ゴンドラ遊覧クルーズ」挿入図
https://www.jtb.co.jp/kaigai_opt/srh/prddetail/p200007498/
写真8 サン・マルコ寺院と広場。
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Venedig_Basilika.jpg
ラグーナの要塞都市「ヴェネツィア」
【ヴェネツィアの歴史】
 ヴェネツィアは、アドリア海の最深部、イタリア半島の付け根に位置し、「ラグーナ」(潟)の上に築かれた海上都市(ヴェネツィア本島、517ha)である(図5)。ラグーナとは、川から運ばれてきた土砂が、一旦、流れに乗って海へと出るが、波により押し戻され、河口付近に堆積してできる地形で、砂州やサンゴ礁によって外海と隔てられた水域をいう。ヴェネツィアは、トルチェッロ(本島)、ムラーノ(ガラス工房の島)、ブラーノなど、多くの島々により構成され、島相互は橋でつながっていたり、船で行き来している。イメージとしては、東京・上野公園の不忍池(池の中に中島や堤がある)を、巨大にそして複雑にした感じである。
 この地の歴史は、452年、フン族やこれに押された東ゴート族などがイタリアへと侵入、これに伴い北部の都市住民が、この湿地帯へと避難してきたことに始まる。この地はラグーナということで、足場が悪いことから、侵入者もここまでは追ってこなかった。そこで避難民は、この地に漁村を築き、漁業と塩業それに河川交易を営み暮らし始める。そうして繫栄してくると、697年に総督(最高執政官)を選出し、共和国として歩みだす。
 9世紀になり、フランク王国の侵攻を受けると、小さな多くの島々からなる群島(現在の本島)へと逃げ込み、そのままリアルト地区を中心に、人口集積が進む。そして836年にはイスラム、900年にはマジャール人(チュルク系ウラル民族)の侵略にあうと、これに対抗していく。その後、住民の多くが貿易商人に転換、10世紀に入ると、力を増すイスラム諸国と商業条約を締結、入江が続き航海に都合の良い、アドリア海沿岸部に支配領域を拡大、ムスリムと連携し海外交易に打って出る。そうして大商人が、経済的繁栄を実現し政治力をつけると、ヴェネツィアは都市自治権を獲得する。11世紀末、アドリア海沿岸の防衛と引き換えに、ビザンツ帝国より免税特権を得ると、商業交易の活動領域が拡大していく。
 また、西欧が聖地エルサレムの奪還をめざし、十字軍を組織すると、中東遠征に向け、アドリア海の付け根に位置するヴェネツィアに、船や食糧などの用立てを求めてくる。そんな13世紀初め、第4回十字軍の遠征において、ヴェネツィアが中東遠征を後援すると、ビザンツ帝国は一時陥落、ラテン帝国(ヴェネツィアが黒幕の十字軍国家)が建国される。この時、ヴェネツィアは支援の見返りとして、クレタ島など地中海周辺の港市のほか、東地中海や黒海における交易権を手にする。ヴェネツィアは、この戦争特需で大いに繁栄、商業交易都市として隆盛する。
 これより少し前の12世紀、ヴェネツィアは経済力をつけると、本島に工廠を建設、軍船の修理を請け負う。また、14世紀初め、軍船に加え大型商船の造船所を整備すると、自身も強力な艦隊と商船を擁する海洋国家へと変身する。14世紀後半、宿敵ジェノバを破ると、ついに地中海の覇権を握る。14世紀末–15世紀末はヴェネツイアが、商業・交易都市として最盛期を迎えた時期で、リアルト地区に銀行、保険、両替のほか、多数の商業店舗が立地、欧州の中央市場として機能すると、物資の中継拠点として関税収入も増大する。この商業交易活動の拡大に伴い、ヴェネツィアは15世紀後半、キリスト教世界で、屈指の海軍力を誇る都市国家へと成長する。この時代、旺盛な需要に対応、商業機能は銀行業や運送業などに分化し発展する。また、ヴェネツィアでは、こうして蓄えた富を基に、大商人が文芸や学術を振興すると、15–16世紀に欧州ルネサンスの花が開き、近代化の苗床となる。

【ラグーナを活かした都市構造】
 ヴェネツィアは海上都市で、陸地を形づくる中心市街は、ラグーナの中にある。このラグーナ、遠浅の干潟で、陸地と海面は潮の干満により姿を変え、陸地になったり海面になったりする。そこでこの地の人びとは、9世紀初め、土地開発を行うにあたり、このラグーナの長所を活すべく、水理を調査し航路図を作成、これに基づき無秩序な干拓を規制する一方、丁寧に埋立造成を進める。具体には、まず、点在する島々の間に航路を確保、その上で護岸整備を進め宅地を造成、都市活動ができる場所に変えていく。即ち、船の航行に支障がないよう、適宜、ラグーナに標識として杭を立て、船は、これを目印に航路を取る。敵の侵入に対しては、潮の干満というラグーナの特性を活かし、海に立てた杭を抜き、敵の船を座礁させるなどして近づけさせなかった。この海に潜む自然の要塞は、杭のコントロールにより、敵の侵入からヴェネツィアの島々を護った。
 さて、島々の都市づくりであるが、干潟(泥土が地下30mまで堆積、その下に粘土、砂層)に建物を建てるには、その土台として大量の丸太杭(長さ2–5m)が必要になる。その量は、「ヴェネツィアを逆さまにすると、森ができる」、といわれるほどである。建築にあたっては、杭に堅い木(カシ、カラマツなど)を用い、その杭の上に石を敷き建物を建てた。木杭は、水中では腐食に強い(タンニン、塩水で化石化)。しかし、この地は地盤自体が少しずつ沈下しているので、温暖化の進行に伴い今日、高潮に悩まされている。
 ヴェネツィア本島は、その形が大きな魚の形に似ており(図⑥)、島の真ん中には、逆S字形に大運河「カナル・グランデ」(幅30-70 m、全長約3km、写真6)が、島を北西から南東へ湾曲しながら流れ、迷宮の街のシンボルとして、市街を二分している。
 今日、ヴェネツィアの島々は、外洋との境にある長い砂州や海岸の防波堤により、海の脅威から守られている。いちばん大きい本島(2×3.5km、セントラルパークと同じ規模)は、150を超える運河によって、118の小さな島々に分かれているが、これらは400もの橋で一体化されている。小島毎には教会が置かれ、これを核に教会前面の広場周りに、船着き場、作業場、住宅等が広がり、共同体を形成する。ヴェネツィアは、こうしてできた72の教区がパッチワーク的につながり、モザイクのようにして市街を形成している。この本島市街は、防衛上の意味もあって、狭く曲がりくねった路地が、迷路のように巡っている。このため長いこと、市街の人や物の輸送を担ってきたのが、今日、観光用に活用されている、手漕ぎボートのゴンドラ(写真7)である。このヴェネツィア、食糧を含め生活物資の多くを、外部に依存してきた。野菜類も周辺の島々から搬入、飲料水も当時は天水を貯留し濾過、不足分は本土から樽で搬入していた。ヴェネツィアの生命線ともいえる、交通・輸送路としての運河、この環境を維持していくためには、海図(軍事機密)が必要で、これを扱う技術者集団(賢人会)は、実態的に市民生活を管理する役割を担った。
 ヴェネツィアの隆盛期、国際商業・交易都市としての、輝ける歴史の刻印は、現在も、サン・マルコ大聖堂(9世紀建造。複音書の著者サンマルコを守護聖人とする。写真8)、ドゥカーレ宮殿(14世紀建造。総督の館)、大運河沿いに連なる貴族の館のほか、名も知れぬ3–4階建ての石造・煉瓦造の商館(200ほど)など、街の各所に見出すことができる。これらビザンツとルネッサンスの様式が混在・調和したまちなみは、今日、文化遺産として、自然遺産の潟とともに、世界遺産に登録され、中世都市のノスタルジアを求め、世界中から訪れる多くの観光客を喜ばせている。
 ヴェネツィアは、14–15世紀に最盛期を迎えるが、14、16、17世紀と幾多のペスト禍に襲われ、人口は2/3に減少した。しかも、戦争に大砲など火器が登場、オスマン帝国が、いち早くこれを取り入れると、この地のラグーナの防衛機能が衰退、16世紀には、地中海の東方貿易をめぐる制海権も、オスマン帝国の手に移ってしまう。さらに、17世紀、大航海時代を迎え、西欧諸国が西回りでの海洋進出を活発化させると、ヴェネツィアは活躍の舞台を失っていく。
 さて、中世の人びとは戦争に自然災害、飢饉に疫病等々、次々と現れる禍に抗し、生命の安全と都市の持続性を確保するため、必死に対応してきた。その知恵と工夫を重ねた痕跡は、自然地勢や地形を活かした都市づくりに見出すことができる。中世を生き延びたフェズやヴェネツィアなどの都市の態様は、今日を生きる人びとにも、なにがしか訴求するものがある。だからこそ、多くの観光客を集め賑わっている。都市が持続的に繁栄していくためには、標準化思想を超えて他とは異なる、その都市独自な個性、魅力の発揮が必要となる。フェズとヴェネツィア、このふたつの中世都市は、土地の持つ固有な特性を、都市づくりに反映させることの重要性を教えてくれる。

[参考文献]
三浦 徹『世界史リブレット16イスラームの都市世界』山川出版社、1997年
今村 文明『迷宮都市モロッコを歩く』NTT出版、1998年:フェズなどの旧市街を中心に、虫の目をもって路上観察、気候・風土や政治・宗教の状況などが影響し、生活文化を形成、街や建築の構成にも影響を与えていることを紹介している。
小林 けい『来て見てモロッコ』凱風社、2000年:臨場感いっぱいのイラスト付き旅行記で、女性としての著者の体験から、現地の雰囲気がきめ細かく伝わって来る。
井上 浩一『世界の歴史11 ビザンツとスラブ』中央公論社、1998年
池田 あきこ『モロッコへ行こう』中央公論社、1999年
栗原 紀子『ヴェネツィア 水の都の街歩き』東京書籍、1999年
陣内 秀信『イタリア小さなまちの底力』講談社、2000年
私市 正年・佐藤 健太郎『モロッコを知るための65章』明石書店、2007年
クリスチャン・ベック『ヴェネツィア史』白水社、2000年
陣内 秀信『興亡の世界史第08巻イタリア海洋都市の精神』講談社、2008年
宮崎 正勝『世界史の誕生とイスラーム』原書房、2009年
世界の歴史編集委員会『もういちど読む山川世界史』山川出版社、2009年
神野 正史『30の都市からよむ世界史』日本経済新聞出版社、2019年
伊藤 毅『イタリアの中世都市』鹿島出版会、2020年
アイラ.M.ラピタス『イスラームの都市社会─中世の社会ネットワーク』岩波書店、2021年
陣内 秀信「イスラーム都市の魅力」
https://www.ajup-net.com/web_ajup/047/dokusho47-1.shtml
河村 茂(かわむら・しげる)
都市建築研究会代表幹事、博士(工学)
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など