Kure散歩|東京の橋めぐり 第13回
新大橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶新大橋(2023年、紅林撮影)
❷大橋あたけの夕立(歌川広重筆)(紅林所蔵)
江戸時代の新大橋
 都営新宿線の森下駅で降り、新大橋通りを都心方面へ向かって300mほど歩くと、鮮やかなオレンジ色の2本の塔が見えてくる。クラシックな橋が多い隅田川にあって、直線的でモダンな佇まい。この橋の名は新大橋(❶)である。
 現在の橋は、1976(昭和51)年に架設された鋼斜張橋だが、橋の歴史は古く、江戸時代前期の1693(元禄6)年に、「千住大橋」と「両国橋」に次ぐ隅田川で3番目の橋として誕生した。当時、「両国橋」は単に「大橋」と呼ばれており、それに対して新しい橋ということで「新大橋」と命名されたといわれる。構造は木造桁橋で、橋長197m、幅員6.4m。この橋は、「両国橋」や「永代橋」と同じく、明暦の大火後の江戸の街の復興にあたり、隅田川東岸地域の開発を推進するために幕府により架設された。当時東岸の深川に住んでいた松尾芭蕉は、「初雪や かけかかりたる 橋の上」、「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」と「新大橋」を句に詠んだ。句からは芭蕉が橋の完成を待ちわびる姿や、完成を喜ぶ様が感じ取れる。
 江戸から明治初期にかけて、隅田川に架かる橋は多くの浮世絵の題材になった。その中でも歌川広重が描いた「大はしあたけの夕立」(❷)は、最も有名なものではないだろうか。この絵は「新大橋」をモデルに描かれた。「あたけ」とは、江戸初期に江東区側に係留されていた幕府の御座船「安宅丸」にちなむもので、当時新大橋付近の地名をさす呼び名であった。またこの絵は、浮世絵に影響を受けたとされる仏国の画家ゴッホによって模写されたことでも知られている。
 元禄時代の後、隅田川東岸の開発が一段落する一方、幕府の財政状況が悪化すると、幕府内から隅田川に架かる橋の破却論が出てきた。当初は「永代橋」か「新大橋」のどちらかひとつを撤去するというものであったが、地元住民が反対し、1719(享保4)年に「永代橋」を地元で管理するという条件で2橋の存続が決定した。その後、「新大橋」も1744(延享元)年に地元へ移管され、2橋とも地元住民が管理する有料橋となった。しかし、1807(文化4)年に「永代橋」の崩落事故が発生すると、2橋の管理は幕府に戻され、そのまま明治維新を迎えた。
❸西洋式方杖型木橋の新大橋(紅林所蔵)
西洋式木橋への架け替え
 1885(明治18)年、「新大橋」はそれまでの和式の木橋から西洋式の方杖型の木橋(❸)へ架け替えられた。橋長199m、幅員7.2mで、支間長は6~7mから12~13mへと延伸された。方杖型の木橋への架け替えは、「両国橋」が1875(明治8)年、「永代橋」と「吾妻橋」が1886(明治9)年であったこと比すると後塵を拝したことになり、これらの橋に比べて「新大橋」の交通上の重要性が低かったことが推察される。
❹プラットトラス橋の新大橋(紅林所蔵)
❺新大橋正面図(東京都公文書館蔵、2015年紅林撮影)
❻鍛冶橋(紅林所蔵)
❼三原橋(紅林所蔵)
❽新常盤橋(紅林所蔵)
❾呉服橋(紅林所蔵)
❿明治村に移設された新大橋の一部(2015年、粉川心介撮影)
⓫新大橋の建設関係者名を記した銘板(2022年、紅林撮影)
⓬新大橋の浜町方上流に設置された石碑(2023年、紅林撮影)
東京市橋梁課長 樺島正義の代表作
 隅田川諸橋の鉄橋への架け替えは、「吾妻橋」が1887(明治20)年、「厩橋」が1893(明治26)年、「永代橋」が1897(明治30)年、「両国橋」が1904(明治37)年であるのに対し、「新大橋」(❹)は1912(明治45)年と鉄橋化も遅れた。この「新大橋」の鉄橋を設計したのは樺島正義である。樺島はこの橋の設計のために、米国の著名な橋梁設計事務所のワデル工務所から呼び戻されたといわれ、1907(明治40)年に29歳の若さで東京市の初代橋梁課長に就任した。その後東京市に1921(大正10)年まで15年間在籍し、約40の橋の建設に関与した。新大橋を自ら設計(❺)したほか、橋梁課長として「日本橋」や「長池見附橋」(旧四谷見附橋)、「鍛冶橋」(❻)、「三原橋」(❼)、「新常盤橋」(❽)、「呉服橋」(❾)などの建設を指導した。樺島は米国式の設計法を導入、それは現代も土木の図面の作図方法などに活かされている。
 樺島の登場により、東京の橋の姿は一変した。アーチ構造を好んで用い、当時最先端の建設技術であった鉄筋コンクリートを多用した。ただし、コンクリートの打ち放しは安っぽいと好まず、コンクリートアーチ橋ではアーチスパンドレルに石や煉瓦を貼り、石造アーチ橋や煉瓦アーチ橋を模した。デザインもそれまでの和洋折衷のような橋は姿を消し、構造とデザインが一体となり、格段に完成度の高い美しいものに仕上がっている。ヨーロッパの橋のように彫刻を施した巨大な親柱を設置し、高欄や橋灯などもアールヌーボーなどの建築様式に則った意匠設計がなされた。
 この樺島の代表作が「新大橋」である。構造は鋼プラットトラス橋で、橋長173.4m、幅員19mであった。単純トラス橋が3個連なる構造であるが、曲弦の上弦材をひとつの弧で描くことで、連続トラス橋のような外観をつくり出し、橋門構や高欄は美しいアールヌーボー調のデザインで彩った。トラス橋は1976(昭和51)年に架け替えられたが、一部は愛知県の明治村に移設(❿)され、現在もその美しい姿を見ることができる。樺島の登場以降、東京の橋が洗練され美しくなった理由は、樺島が最新の橋梁技術を持ち帰ったことに加え、意匠設計を建築家に委ねるようになったことが挙げられる。⓫は新大橋に設置されていた建設関係者名を記した銘板(現在は江東区立八名川小学校所有)である。これから意匠設計は東京市営繕課技師の田島穧造や福田重義らが行ったことが分かる。新大橋だけではなく、前述した「長池見附橋」をはじめとする数々の橋も、意匠設計は建築家により行われていた。
 関東大震災では、隅田川に架かる「新大橋」以外の鉄橋は、床版が木造だったため、周囲からの延焼で床版が焼失して多くの犠牲者を出した。しかし「新大橋」は、床版が鉄筋コンクリート造であったために無傷で、避難する多くの人命を救った。このため震災後、お助け橋と呼ばれた。これを伝える石碑(⓬)が、浜町側に残されている。
 前述したように、「新大橋」は架け替え後に一部が明治村に移設された。他にも八名川小学校には江東区側の橋名板が、中央区立郷土資料館には中央区側の橋名板がそれぞれ保管されている。
⓭江東区の下流側の橋詰めに設置されたトラス橋の親柱(2023年、紅林撮影)
⓮橋上に設置されたベンチ。橋塔側面に設置されたレリーフ(2023年、紅林撮影)
斜張橋への架け替え
 「新大橋」は戦後、基礎の沈下などにより橋体が変形して耐荷力が大幅に低下したため、1969(昭和44)年3月から大型車の通行が規制された。これを受け東京都建設局は架け替えに着手した。橋梁形式は、建設局内部で検討し建設省へも説明を行い、当時最も経済的な鋼ゲルバー桁橋に決まりかけていた。しかし、局幹部に橋梁形式の決裁を取る段になって大逆転が起きた。当時局No.2の技監で、「葛西橋」をはじめとする荒川架橋の推進役で後に日本大学教授に就任する鈴木俊男が、異を唱えたのである。隅田川に架ける橋梁は日本をリードするものでなければならない。なぜ、「言問橋」や「両国橋」と同じ鋼ゲルバー桁橋を架けるのかというものであった。世界に冠たる隅田川の橋梁群をつくり上げた太田圓三や田中豊ら先輩技術者達からの薫陶が、鈴木の中に生き続けていたのであろう。鈴木は、当時最新の橋梁形式であった斜張橋での検討を指示した。これにより、1976(昭和51)年に現在の橋長170m、幅員25.5~30.5mの鋼斜張橋が架けられた。当時は電算が未発達だったため、ケーブル本数は現代のように多数での解析ができず、片側2本ずつで吊っていた。しかし、ケーブルの本数が少ないためにケーブル1本あたりで吊る荷重が大きく、ケーブルが1本でも切れることで、落橋に至ることが危惧された。このため新大橋では、自重(死荷重)はケーブルなしでも支えられるよう設計された。これも鈴木のアドバイスによるものであった。
 また、橋梁の色彩や高欄、親柱などの意匠は、橋梁界の最重鎮であった早稲田大学青木楠男教授を委員長に、清家清東工大教授らも参加し、「新大橋景観検討委員会」を開催し決定した。この委員会で、橋詰めへの親柱(⓭)と高欄の一部保存や、国内初となる橋上へのベンチ設置(⓮)、浮世絵「大はしあたけの夕立」や旧橋のプラットトラス橋、橋の由来などを刻んだブロンズ板の主塔側面への設置などが決められた。これらは、橋は単に川を渡るという機能だけではなく、川を眺める都市内のゆとり空間でもあるとの考えからで、わが国の高度経済成長に陰りが見えはじめ安定成長期へ移行する中で、都市内における橋のあり方に一石を投じた作品となった。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)