

JR中央線立川駅で青梅線に乗り換えて約1時間、奥多摩の山懐に抱かれた終着駅の奥多摩駅に到着する。駅舎は木造2階建てで瓦葺き屋根に丸窓をあしらい、外観はヨーロッパの山岳ホテルを思わせるハーフティンバー風(❶)。奥多摩の自然にマッチする、暖かい木の温もりを感じさせる魅力的な駅舎である。駅の開業は、1944(昭和19)年11月。太平洋戦争末期に、このような西洋式の駅舎が建てられたというのは驚きである。駅舎は2019(平成31)年に改装され、現在2階にはカフェと雑貨屋が入る。
改札を出て南へ向かい100mほど歩くと青梅街道(国道411号)に出る。ここを右折すると程なく多摩川の支流の日原川に架かる「氷川大橋」を渡る。親柱には早春の奥多摩の山々を彩る薄紫色のミツバツツジの花が、高欄には町の名産のワサビやヤマメがいずれも透かし模様(❷)で描かれ、奥多摩らしさを演出している。



「氷川大橋」という名は、以前この地のあった氷川村に由来する。橋が通る青梅街道は、西多摩地域を多摩川に沿って東西に貫く江戸時代からの幹線道路で、橋を渡り直進すると小河内村へ、右折して日原街道を進むと山岳信仰の対象であった一石山へと通じ、橋はその分岐点にあたる交通の要衝であった。
「氷川大橋」の歴史は古く、江戸後期の文政5(1822)年に幕府によって編纂された地誌の『新編武蔵風土記稿』にも絵入り(❸)で紹介されている。
これによれば、当時の橋長は13間(23.4m)、幅員は4尺(1.2m)。この橋は、現在山梨県大月市に残る「猿橋」と同様の肘木橋(木造カンチレバー橋)という橋梁形式で、太い木材を両岸の岩壁に斜めに打ち込み、これを支えにさらに木材を重ねながら張り出し、その上に橋けたを渡した。このような形式が用いられたのは、谷が深く川の流れも速いために橋脚の設置が困難だったからと推察される。1880(明治13)年頃に新政府によって編纂された『皇国地誌』にも、「板橋無柱 長さ7丈5尺(22.7m)、幅6尺(1.8m)」と記されており、明治前期も肘木橋だったことがわかる。
青梅街道の青梅~氷川間では、他にも平溝川や大丹波川など比較的大きな多摩川の支流を横断するが、これらの河川にも肘木橋が架けられていた。当時多摩川の中下流部には1年を通じて常設の橋はなかったが、西多摩地域には記録の残るものだけで、多摩川を横断する橋梁も含めて12もの肘木橋が架設されていた。
明治30年代になると、西多摩地域でも木造アーチ橋や木造トラス橋など西洋式の橋梁への架け替えが相次ぎ、これにより支間長は大幅に伸長された。「氷川大橋」も1906(明治39)年に木造の方杖橋(❹)に架け替えられ、橋長は43.5mへと大幅にアップ。さらに1916(大正5)年には、橋長44mの木鉄混合ハウトラス橋(❺)に架け替えられた。





昭和の入ると、自動車の通行を可能にする道路整備が都心から郊外へと拡大したことに加え、政府が景気対策として1931(昭和6)年に国立公園法を制定するなど観光を奨励し、奥多摩渓谷も日本を代表する景勝地として日本百景に選定されたことで、西多摩地域の道路、橋梁の近代化が加速度的に進んだ。これにより青梅街道はほぼ現在の形へと改修され、「氷川大橋」は1933(昭和8)年に鉄骨コンクリートアーチ橋に架け替えられた(❻、❼)。
橋長は83.9m、幅員は7.26m。アーチ橋の規模を比較するのに用いられるアーチ支間長(アーチ部材の水平距離)は50mで、当時国内では山梨県甲州市の「祝橋」の51mに次いで第2位の長さを誇った。深い日原川の渓谷をアーチで一跨ぎする姿は雄大で、かつ鉛直材上部はアーチ形状で、アーチスパンドレルと側径間に小アーチが連続する姿は優美であり、奥多摩の名所となった。
当時の一般的なコンクリートアーチ橋の架設工法は、まず川底から支保工を立ち上げ、その上で鉄筋を組んでコンクリートを打設してアーチリブを組み、そこから鉛直材を立ち上げて桁や床版を構築するという手順であった。しかし日原川は、谷が深く川の流れも速かったことから支保工の設置が困難で、このためアーチリブは、鉄骨を両岸からワイヤーで引っ張りながら張り出して鉄骨アーチ橋を架けた後、その周りにコンクリートを打設する「メラン工法」が全国で初めて用いられた(❽、❾)。この工法が実践されたことで、コンクリートアーチ橋は、幅が広く深い谷にも架設が可能となり、以後架設可能エリアや長さを飛躍的に拡大させることになった。
この橋は長らく供用されてきたが、幅員が狭かったため、1986(昭和61)年に上流側に平行して、同支間長、同アーチライズで鉄筋コンクリートアーチ橋を架設して拡幅された。前述した透かし模様の高欄はこの際に設けられたものである。しかしアーチスパンドレルの小アーチは、鉛直型に改修され消滅した。橋の下にくぐり、橋を見上げると、アーチの構造が異なる(オリジナルはアーチリブ、拡幅部は版構造のアーチリング)ため、オリジナル部分と後年に拡幅された部分を、明確に判別することができる(❿)。





前述した昭和初期の青梅街道の改修により、「氷川大橋」以外の多くの橋も、木造から鉄筋コンクリートや鋼鉄製の橋に架け替えられた。このうち「氷川大橋」、「棚沢橋」、「南氷川橋」、「弁天橋」、「笹平橋」、「琴浦橋」の6橋は、渓谷を渡る橋長50~80m程度の規模の大きい橋であった。6橋は、橋長や地形、地盤などの条件に大差ないため、現代なら同じ形式になるであろうが、すべて異なる形式の橋が架けられた。
「棚沢橋」は国内初の鋼バランストアーチ橋(⓫)、「南氷川橋」は国内2位の橋長のブレーストスパンドレルアーチ橋(⓬)、「弁天橋」は道路橋では国内初となる鉄骨のトレッスル橋脚をもつトラス橋(⓭)、「笹平橋」は国内唯一の三角ラーメン橋(⓮)、「琴浦橋」はアーチがトラス状のブレストリブアーチ橋(⓯)。いずれも国内初などの冠が付く橋梁群。実に意欲的なラインアップである。
設計を主導した東京府土木部橋梁課長の尾崎義一は、戦後に(株)東京鉄骨橋梁の常務を務め、会社の若手社員を引き連れこれらの橋梁の視察に出かけた際に、「これらの実験的橋梁が、いかに他の大橋梁の設計の基礎になったか」を力説したという。
関東大震災の復興では、隅田川に「橋の展覧会」と称されるさまざまな形式の橋が架けられ、都市部の近代橋梁のモデルができあがった。しかし当時、全国の山間部に鉄橋やコンクリート橋はほぼ皆無であった。これに対して尾崎は、奥多摩に「山間部の橋のモデル」をつくろうとしたのではないだろうか。尾崎はさまざまなタイプの橋を設計し架設して見せた。それらの中には後に施工例がないなど、決してすべてが山間部の橋として適していたわけではなかったが、これらの中から選択され発展していった。尾崎が述べたように、これらの橋が、わが国の山間部の架橋技術のアップに果たした役割はたいへん大きかったのである。
しかしいずれの橋も幅員が狭かったことから、昭和40~50年代に架け替えが相次ぎ、架橋から約100年を経て残るのは「氷川大橋」だけになってしまった。尾崎が開催した「山間部の橋の展覧会」の最後の作品、奥多摩駅と合わせてぜひ見学して欲しい。

1959年 東京都八王子生まれ/1985年 名古屋工業大学卒業後、入都/奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/平成29(2017)年度に『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で、令和6(2024)年度に『東京の美しいドボク鑑賞術』で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『浮世絵を彩った橋』(2025年4月、建設図書刊)








