連載:色彩のふしぎ 第7回
配色の手順(1)──相手が希望するイメージを実現するのがプロの仕事。それは感覚だけでは解決できない。
南雲 治嘉(デジタルハリウッド大学名誉教授)
表① 建築と希望の歴史。人類の600万年の歴史のうち、家を建てて住むようになったのは高々1万年。ようやく意図どおりの色の扱いができるようになった。
写真1 人類は200万年前まで原野が寝床だった。
写真2 獣が近づけない横穴式住居の「ロック・ド・カゼルの洞窟」(フランス)。
写真3 ロック・ド・カゼルの洞窟の内部での生活風景(フランス)。
「希望」が「家」をつくった
 配色の手順を説明するのに、建築の歴史から紐解いていかなければなりません。彩色や配色が単に思いつきで行われてきたわけではないからです。素材の色だけの建築物にしてもそこには色に対する配慮がなされていました。建築に際して色はどのように扱われてきたのでしょうか(表1)。
 かつて人類は住む家を持つこともなく、野山で狩猟を重ね、木陰などで群れて生活をしていた狩猟時代がありました。今から600万年前から人類としての歩みが始まったとされています。ただし、それから400万年の間、野山でチンパンジーよりも少しましな生活をしていただけです(写真1)。
 やがて、200万年前石器を使った生活が始まり、一段と狩猟の仕方もレベルアップしていきました。しかし、石器時代の始まりにもまだ、家といえるものは存在していませんでした。
 ここで住処としたのは自然そのものであり、自然の中に同化する形で生きていました。色は自然の色、特に植物の色で覆われていました。氷河期に入ると植物の色は失われていきます。
 旧石器時代は、200万年前から紀元前1万年の間とされています。この時期石器を使い狩猟をすると共に植物の採集等で生活をしており、火の使用も始まっていました。
 この時代はまだ氷河期で、寒冷な環境の中を生き抜くために、洞窟などの自然の住居に身を寄せていました。横穴式住居といわれるものです。
 この段階で、住まいに対する「希望」が生まれ始めました。その希望とは、雨風がしのげ、たき火ができ、動物の襲撃から身を守れるところの洞窟を選ぶということを指しています。当然ですが住処に対する依頼主はいません。注文もなく、そこにある自然の洞窟を物色し利用するだけの家でした(写真2、3)。
 しかし生活するための安全への「希望」があり、それに適した場所を選んでいることは、建築の原点といえます。洞窟における色の役割は自然の素材の色の中で自分は自然の一部と意識できることでした。このころはまだ「色」という特別な認識はありませんでした。人間が自然と共に生きるということは自然の色に染まるということです。自分たちの意のままに自然の色を塗り替えるのはずっと後のことです。
 こうして洞窟という家は「希望」があって初めて誕生しました。
 長い氷河期ホモサピエンスは、生きるために努力し工夫を重ね、この工夫から文化につながる道具の発明を行いました。多くの生き物が子孫を残すために生殖活動をしてきましたが、ホモサピエンスは他の生き物と違い幸せに生きるという「希望」を持って洞窟で生活していたのです。
写真4 植物の色で満たされた竪穴式住居の内部(吉野ヶ里遺跡)。
写真5 機能別の施設を配する集落(吉野ヶ里遺跡)。
拡大する「希望」からプロが誕生
 やがて、1万年前から農耕生活が始まり、洞窟がない平野での生活が始まります。洞窟の代わりになるものを作ることになりますが、これが竪穴式住居です。自分の手で作る家の発明です。使用されたものは木材や草などの繊維性の材料です。つまり、ここでも自然の色が家の色でした。基本的には洞窟の機能をそのまま踏襲していきます。
 竪穴式住居を建てるにあたって「希望」が大きな役割を果たします。煮炊きをするのにかまどが欲しい、煙を逃がす機能を備えたい、雨や風を防ぎたい、獲物を吊るすハンガーが欲しい、「希望」は時と共に増加していきます。「希望」を取り入れた竪穴式住居はきわめて快適でかつ機能的にできています(写真4)。
 集落の家はそこに住む人びとが総出で建てたはずです。指揮をとる人間がいたと思われます。家をつくるリーダーがその集落のリーダーであり、やがて地域を率いる王へと進化して行きます。
 集落の人口は拡大し、安定した食料を確保するため産業の中心は農耕へと定着していきます。農耕に必要な、収穫物を保存する倉庫や農耕に必要な器具を保管する納屋などが建設されました(写真5)。こうした集落が他の離れた場所にも出現していきます。
農耕は決して安定した収穫をもたらしません。天候不順で凶作の時もあります。備蓄している食料が底を突いたら、生きるために他の集落を襲って略奪しなければなりません。当然逆の例もあります。強固な城壁と、見張り台が作られ集落は要塞都市のようになっていきます。
 集落の中心にあるのは集落を守る神であり神殿も設けられるようになりました。ここで、建物の色の革命が起きます。それは魔よけの色が登場し家の重要な場所に飾られたことです。それは神社の鳥居の赤に引き継がれていきます。
 そこに使われたのが「工」であり神に捧げる道具という意味があります。工の意味は他にも物差しとも穴をあけ貫くための道具を指しているともいわれています。工が家をつくる専門の職人を指すようになり、工人あるいは大工や小工という名称が定着します。ちなみに小工は大工の指示に従い作業を行う職人です。
写真6 朱色、緑、白の外装の配色は中国から伝えられた(春日大社)。
写真7 朱色がひときわ目立つが白壁が中和している(春日大社)。
写真8 荘厳で神聖名雰囲気がある(日光東照宮陽明門)。
写真9 極楽を思わせる極彩色の彫刻(日光東照宮)。
建築家の誕生
 家をつくるにはこのような形にしたいという希望があります。単純な家の場合は、マニュアルどおりにつくれば大工ひとりで間にあいます。しかし、新たなデザインであったり、複雑な構造の場合は設計を担当する専門家が必要になります。建築家の誕生です。
 家を建てるにはまず依頼主がいます。依頼主は大小を問わず存在しています。資金と権力があれば巨大な建物も建築することができまず。もちろん施工は、大工が担当します。依頼主は「希望」を建築家に伝えます。建築家はその希望を形にするための設計を行い図面にすることになります。ここで、図面があれば大工たちはそれに従い施工していけばいいので、スピードアップが図れます。
 奈良時代中国からもたらされる寺院の色は、当時の人に衝撃を与えたと思います。朱や緑、そして白が外壁を飾っていました。家を自然の色ではく、自分たちの希望によって彩色できることを学んだのです(写真6、7)。
 巨大な建造物になれば、造園だけでなく全体のランドスケープの担当も必要になります。また彫刻を施すのであれば彫刻家も揃えなければなりません。それぞれのプロ集団が育っていきました。
 江戸時代には建造物に関係するプロたちが成熟した時代ともいわれています。日光東照宮を例にとって見てみましょう(写真8)。
 日光東照宮の建立の基本となる希望は、徳川家康の死んだ後に神格化されたいというところにありました。彼自身は小さな社殿で十分と思っていましたが、三代将軍家光は天下にその威光を見せつけるために巨大な神殿の造営を希望しました(寛永の大造替)。
 その希望を受けて大工頭の中井正清が設計を担当し、大棟梁、甲良宗広が大工の指揮を担当、ランドスケープは小堀遠州、美術彫刻は狩野探幽が担当したといわれています。希望の家康神格化に向けてあらゆるアイデアが練られました。
 社殿群は1634年に着手し2年後の36年に完成という考えられないスピード工事でした。もちろん本殿だけの造営ではないので動員された大工の数は延べ250万人ともいわれています。
 ここに登場する色は極彩色です。当然ですが色が華やかということは極楽に通じるものであり、宗教的なものには欠かせない彩色です。ただ豪華に見せて人びとを圧倒するのが狙いなのではなく、極彩色で飾られた領域は神聖な極楽を視覚化しているのです(写真9)。
 これもしっかりとした建築家と彩色の専門家がいて可能なことでした。社殿群は1999年12月「世界文化遺産」に登録されました。この造営を現代的にいえば、家康の希望を家光が受け継ぎ建築家集団に仕事を発注したということです。
写真10 金の持つ豪華さが極楽を演出する(金閣寺)。
日本の建築工程の素晴らしさ
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は2020年12月19日、日本の「伝統建築工匠の技:木造建造物を受け継ぐための伝統技術」を無形文化遺産登録に登録しました。奈良時代から建築工法を宮大工や左官職人らが継承してきた17分野の技術の価値が世界的に認められたことになります。
 建設当時のままを修復する工事などには欠かせない技ですが、今回評価されたのは建築工程、つまり建設の段取りも含まれています。技があっても仕事のプロセスが保存されていなければ復元は難しいでしょう。
 希望によって生まれた建物が、その輝きを失うことなく後世に伝えられることは奇跡的なことです。ピラミッドは現存しますがその技は途切れてしまいました。
 金閣寺は世界遺産ですが、一度焼失しています。それがなぜ世界遺産なのか話題になりましたが、建築主の希望を生かし復元したその技が世界遺産なのです。
 金閣寺は金箔で飾られています。それは足利義満の希望であったわけで、そこには極楽浄土というイメージも存在していたでしょう。それを受けて宮大工達があの金閣寺を形にしました(写真10)。
 今回、日本の伝統的な建築技術が世界の無形文化遺産に登録され、改めて日本流建築工程を見直してしまいました。長々と建築史の様なことを述べてきました。実は、この流れこそ建築における彩色や配色の原点になっています。彩色や配色もまた、建築技術の中のひとつなのです。
色の注文はあるか
 建築の仕事が専門化し役割分担が明快になると、当然ですがどんな巨大な建造物でもスピーディに仕上げることができるようになります。仕事の流れも建造物によってふさわしいシステムができていきました。
 皆で協力してつくっていた家をプロたちがそれを請け負うようになり、仕事の流れは一変しました。とはいえ、皆で建てていた時代の方がはるかに長いのです。プロがつくるようになってから高々5000年ほどしか経っていません。一貫しているのは「希望」が仕事の中心にあるということです。
 皆で建てているときはその希望や目的を共有していました。しかし、プロが成立すると、その希望を理解しないと意図どおりの建造物は建てることができません。
 建築やデザインの仕事にはクライアント(依頼主)が存在します。依頼主がいなければ私たちの仕事は成り立ちません。ほとんどの仕事は依頼主の希望を聞いてスタートします。この時点で、建築に対する希望や種々の条件が提示されます。当然色に対する希望も含まれます。
 仕事の注文の特徴として3つほどタイプがあります。企業を含む個人的な依頼主からの注文、マンションや建売住宅のような売り主からの注文、それとコンペなどによる受賞することによる受注です。
 問題は依頼主の色に対する希望の伝えられ方です。3つのタイプ別に見てみましょう。

【企業を含む個人からの注文】
 設計してほしい物件に対する希望は直接建築家に伝えられます。企業や個人の依頼であり、それが常識から外れていても設計を行うことになります。建築家の個性や傾向を見てから注文が来るケースが多いので、建築家の意向を重視されることが多いです。配色についても明確な指示は特にないのが一般的です。建築家は依頼主の希望から推測して色を決めることになります。
【販売用住宅の注文】
 不動産会社などが販売用のマンションや一戸建ての住宅の設計を依頼してくるパターンです。こうした物件は特定の顧客がいるわけではなく、一般の人が購入します。デザインが売り物になるので、色の扱いは購買意欲を駆り立てるものになります。顧客となる人の代わりに、販売主の希望を基に設計が行われます。どんな物件が人気があるかなどマーケティングとの結びつきが深いといえます。
【コンペによる注文】
 大型施設では設計の担当者をコンペで決める場合があります。コンペにはテーマや予算(賞金)はあらかじめ決められていますが、設計のアイディアは建築家が出すことになります。色の提案もその中のひとつとして建築家が環境その他建物の目的などから考えて決めていくことになります。

 配色に注文が付くのは企業や個人からの依頼による場合であることが分かります。色が特に指定されることはほとんどないということです。色に関する注文は直接明快な形で建築家に届くことはほとんどありません。
希望とはイメージである
 このように注文の中に直接色に関するものが見当たりませんでした。現状では配色に関して建築家が希望を読み取り、そこから推測して決めるか、自分の好みで決めるかということになります。建築家に期待されるのは依頼主の希望を満足させる配色能力を持っていることです。
 これでは建築家の色に対する悩みは解決されません。下手な鉄砲数撃てば当たる、これで解決するには時間がかかりすぎます。そこで配色を決める合理的な手順を考えることになります。
 これまでの歴史を見てきて、どんな建築物も建築主の希望が現実の形になっていることが確認できました。希望とはイメージであり、そのイメージを具現化したのが建築物であることに注目してみましょう。
 イメージが抽出できれば、配色までの段取りは難しくありません。建築主の希望を分析しイメージを抽出することから配色の作業は始まります。だから建築家は注文主に聞くのです。「何かご希望はありますか?」と。
 次回、いよいよイメージの抽出から配色までの段取りについて解説します。
南雲 治嘉(なぐも・はるよし)
デジタルハリウッド大学・大学院名誉教授、南雲治嘉研究室長(先端色彩研究チーム/基礎デザイン研究チーム)、上海音楽学院客員教授、中国傳媒大学教授 先端デザイン研究室、一般社団法人日本カラーイメージ協会理事長、株式会社ハルメージ代表取締役社長
1944年 東京生まれ/1968年 金沢市立金沢美術工芸大学産業美術学科卒業
著書『デジタル色彩デザイン』(2016年)/『新版カラーイメージチャート』(2016年)
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タグ:色彩