建築史の世界 第5回
東京中央郵便局──難条件に巧みなアイデアで応えた初期モダニズムの傑作
藤岡 洋保(東京工業大学名誉教授、近代建築史)
図1 東京中央郵便局1階平面図(『東京中央郵便局新築工事記念写真帖』[大倉土木、1932]掲載の図に筆者が加筆したもの)赤の矢印で示した範囲の立面がそれぞれ相称になっている。
図2 東京中央郵便局矩計(『吉田鉄郎建築作品集』東海大学出版会、1968)p.52
写真1 東京中央郵便局俯瞰写真(『吉田鉄郎建築作品集』東海大学出版会、1968)p.46
写真2 東京中央郵便局北・西立面*
写真3 東京中央郵便局北立面と北東側屈曲部*
写真4 東京中央郵便局東立面*
写真5 東京中央郵便局南立面*
1960年頃の増築で、現業室部が4階建てになった。
写真6 東京中央郵便局窓口(『東京中央郵便局新築工事記念写真帖』[大倉土木、1932])
写真7 大阪中央郵便局*
はじめに──戦前のモダニストから高い評価を得た建物
 今回からは個別の建物をとりあげ、そのデザインや設計趣旨を分析しながら、近代建築史のアプローチの仕方を紹介することにしよう。これからの建築を模索する際に過去の建築からも学べることを、実例をもとに示したいがためである。それは私見であって、ほかの近代建築史の研究者が賛同するものではないかもしれないが、その解釈のもとになる根拠をあげて説明するので、それなりに説得力があるはずである。
 その最初の建物として、戦前のモダニストが当時の新建築の最高傑作のひとつと評した東京中央郵便局(1931、写真1)をとりあげる。逓信省営繕課技師だった吉田鉄郎(1894–1956)が設計したもので、東京駅前の広場に面して建てられた。その一部はいま商業施設のKITTEに組み込まれている。この建物の駅前広場側の立面に並ぶ柱形が新古典主義風であることから、しばしば「中途半端にモダン」*1 とされ、吉田の設計でその8年後に竣工した「完全にモダン」な大阪中央郵便局(1939、写真7)のほうを高く評価する近代建築史研究者が多い。しかし、なぜ東京のものが高く評価されたのかを問うことは、吉田鉄郎の設計姿勢を理解するうえで有意義と思われるし、そこには、モダニズムの教義に従いながら、大阪のものよりもはるかにむずかしい条件にどのように応じたかを知ることができる点で興味深いのである。
東京中央郵便局に対する竣工直後の評価
 この東京中央郵便局庁舎は、1922(大正11)年の火災で失われた前身建物の後継として計画されたものである。建物本体は1931(昭和6)年に完成し、その後郵便物の仕分けのための機械設備などを設置して、1933(昭和8)年に開業した。ちなみに、当時の逓信省は、吉田のほかに山田守(1894–1966)を擁し、郵便局や電信局、逓信病院などに先進的なデザイン(モダニズム)を適用して、当時の日本の新建築をリードする存在だった。
 『国際建築』1933(昭和8)年1月号の「1932→1933」に、市浦健(1904–81)が「前年末に完成した中央郵便局が年頭から批評の焦点となつた後には」(p.2)と記していることから、この建物が竣工時から注目されていたことがうかがえる。当時の建築界におけるこの建物の評価は相当に高かったと見てよい。それは、当時の代表的な美術・建築評論家の板垣鷹穂が「誰でも知る通り、主として氏(筆者註:吉田鉄郎)の設計になる中央郵便局が現代日本の最も優れた欧風建築の一つであることは改めて断るまでもないが」*2 と評していることに示されているし、当時の海外向けのメディアに日本の新建築の代表例としてこの建物が紹介されるのが常だったこともそれを裏付ける。
 たとえば、市浦が『NIPPON』第1号(1934年10月)の「Moderne Architektur in Japan」(日本の現代建築)で「この国際的な建築手法は、東京にある3つの公共建築において典型的に示されている。(中略)第一のものは東京中央郵便局である。この建物は多くの資金を投じて計画され、その内部は実用的に仕上げられており、よく考え抜かれた美しい形式の立面を備えている」(pp.16–17、原文はドイツ語、翻訳:筆者)と、四谷第五小学校(東京市、1934)や日本歯科医学専門学校(山口文象、1934)とともに、当時の新建築の代表例と見ている。また東京帝大教授の岸田日出刀(1899–1966)は、『Tourist Library: 7 JAPANESE ARCHITECTURE』*3 で、東京ゴルフクラブ(A. レーモンド、1932)や日本歯科医学専門学校とともに、新建築の好例と紹介している(p.116)。ほかにも、当時日本に滞在していたブルーノ・タウト(1880–1938)が『L'Architecture d'Aujourd'hui』1935(昭和10)年4月号の「ARCHITECTURE NOUVELLE AU JAPON」(日本の新建築)で「実に明朗で純日本的に簡素な現代的建築であり(中略)西洋の有名な建築の後塵を拝してゐる点はいささかもない」(p.66、原文はフランス語)*4 と絶賛している。
東京中央郵便局計画の与条件
 東京中央郵便局は鉄骨鉄筋コンクリート造5階地下1階建て、延床面積36,479㎡の、当時としては大建築で、帝都(首都)の表玄関である東京駅前の、行幸道路につながる広場に面するという晴れの場に建てられた。また、その敷地は独立街区なので、建物は四周から見られることになる。しかもその敷地の形状が変形五角形(面積は11,750㎡)なので、その敷地いっぱいに建つ建物の外観をうまくまとめるのは難しかったはずである(写真1)。また平面図(図1参照)を見ると、窓口や事務室だけではなく、郵便の仕分けと配送作業の場と、そこで働く現業員の宿泊・厚生施設をあわせ持つ建物だったことがわかる。最大の面積を占めるのは1〜3階の現業室で、そこで24時間体制で働く現業員の宿泊施設や食堂、風呂場などが5階に設けられており、その下の4階には局長室をはじめとする事務室が並んでいた。つまり、窓口業務は一部にすぎず、現業室を中心とする複合施設というべき建物だったのである。  その現業室の内部には、仕分け作業のためのシューターが3階から1階まで縦横に配されるため、一体空間になっており、壁がない。つまり、大規模でありながら耐震壁が設けられないタイプの建物で、しかも3階までの階高がかなり高い(地上5階建てだが、高さは28.5mある)こともあって、構造設計にも配慮が必要だったことがうかがわれる。  以上がこの建物を設計する際の主な与条件だったことになる。
東京中央郵便局の設計趣旨
 吉田は、『逓信協会雑誌』1933(昭和8)年11月号の「東京中央郵便局新庁舎」で、この建物の設計趣旨を以下のように記している。
 「鉄骨鉄筋コンクリート構造法を利用して窓面積を出来るだけ大きくし、無意味な表面装飾を廃し、純白の壁面と純黒の枠を持つた大窓との対照によりて、明快にして清楚な現代建築美を求めることに苦心した。正面は周囲の諸建築と広場との調和上、自ら多少の記念性を帯び背面はセットバック、避難階段、発着台及びガラージの大庇、煙突等の必然的な建築要素によりて現代的な構成美を現出して居る。」(p.116)
 要するに、当時の最新の建築思想(モダニズム)をもとに、建築に必須の要素だけで立面を構成し、広場側の立面では記念性にも配慮したということである。先述のように、この建物は変形五角形の敷地いっぱいに建ち、外壁はその外周に沿って連続している。東京駅から見える部分だけでも、その延長は屈曲しながら150m近くにもなる。この横長の壁面に、近代建築的な手法、つまり、柱や梁・窓など、建築に必須の要素だけを用いて、冗長に陥らないようにしながら秩序を与えることが吉田にとっての課題になったということである。
 この課題に対して吉田は、広場側の北面とその両側の東西面を「表」として扱い、南側(運搬車両の発着台側)を「裏」にして、「表」には5層の壁面の4階まで通しの柱型を見せ、「裏」は3階まで平滑な壁面とした。そして、東側の20m弱の3スパン分の短辺以外の「表」を構成する4つの辺と北東側の屈曲部の5つの部分ごとに、それぞれがすべて相称な立面になるように整えたと考えられる(図1、写真2–5)。
 たとえば、広場に正対する、この建物の顔ともいえる北側の11スパン分の立面(写真2、3)では、その1階の中央に玄関、そしてその直上の4階部分に大時計を配し、両端の1スパン分は平坦な壁にして、そこに縦長窓を縱1列に配して、左右相称の、完結性が感じられる立面に仕立てている。その左隣の屈曲部では、出入口を中心に3スパン分の柱型を並べ、その両脇を平滑な壁にして、そこに縱1列に窓を配して、やはり相称でまとめている。それぞれの区画の両端の柱間だけを平滑な壁とし(柱形を見せず)、そこに縦一列に縦長の窓を配して、区画ごとの立面に個別に完結性を与えたうえで、それを連続させていくという手法で、外周の立面を適度に分節化しているわけである。それぞれの区画の両端の、縦一列に縦長窓が並ぶ平坦な壁が、一見ささやかだが、立面を冗長に見せないのに効いている。要するに、各区画の立面を相称にし、その両端に平坦な壁を配することによって区画ごとに完結性をもたせつつ、それをつないでいくというやり方がこの立面構成のポイントで、それによって立面に適度なリズムと変化が感じられるだけでなく、柱形の連続や各部の相称性で、晴れの広場にふさわしい記念性も表現できているということである。柱と窓、平滑な壁という、建築に必須の要素だけで立面を構成するというモダニズムの教義に沿いつつ、シンプルでありながら単調になるのを避けるための巧みな工夫を提案したことが高く評価されるのである。*5
 しかも、この一連の立面構成手法は諸機能の配置や動線の処理などの平面計画にも対応している。たとえば、北側だけでなく、北東側の立面の中央に玄関が来るようにしているし、西面のふたつの玄関もほぼ相称の位置にとられている。それは動線の出発点だから、階段もそれに合わせて配置することになる。また4層と5層の窓の高さがその下の3層分のものよりも低くなっているが、これはその後ろの空間の階高が反映されているということである。3階までは現業室があるので、その高い天井高が立面に反映されているわけである。それは、内部の空間のあり方をそのまま立面に示すべきだというモダニズムの教義に沿っていることを意味する。同時に、それは立面の高さ方向に変化と完結性を与えることにもなっている。そして4層と5層目の間に胴蛇腹を入れたのは、4階と5階の機能の違い(4階は事務空間で5階は現業員用の厚生施設)に対応しているともいえるし、立面に完結性を与えるアクセントにもなっている。なお、立面全体を通して、付加装飾らしきものは見られない。このように、モダニズムの教義に従い、必須の要素だけを用いて長大な立面に引き締まった印象を与え得たことが、この建物の注目点である。
 この長大な立面は白の二丁掛けタイルで覆われている。これだけの大きな壁面に、その小さな寸法(60mm×227mm)でタイルを破綻なく割り付けた緻密さには驚かされる。そのような緻密さは、広場に面する表側の1層と5層の窓をその間の3層分のものより前に出すという手法にも見られる*6(図2)。立面に微妙な奥行きの変化をつけているわけで、細部にまで周到な気配りが感じられる。ちなみに「裏」には平坦な壁に窓が規則的に並んでいるが、両端の避難階段を含めて立面全体が相称になるように整えられている。
 八角形断面(外周は長方形断面)の鉄骨鉄筋コンクリートの柱は、XY方向とも6mスパンで、耐震壁を入れられないので柱・梁だけで固める必要があったことや、機能や立面からの要請を勘案して決められた寸法だろう。内部も、5階食堂の芋目地の正方形タイル張りや、北側1階窓口(写真6)の柱のシンプルな黒大理石張りに象徴されるように、ストイックなデザインになっている。
 以上から、この建物は、変形敷地に、複合機能に対応しつつ、近代建築的な必須の要素だけを用いて、帝都の玄関に位置する「中央」郵便局であることにふさわしい記念性を表現し得た建築として高く評価できる。シンプルでありながら、冗長に陥ることなく巧みに構成された立面だけではなく、平面・構造からディテールに至るまで周到に配慮された、隙のないデザインで、きわめて完成度の高い建物といえる。
大阪中央郵便局との比較
以上を念頭に、大阪中央郵便局(写真7)と比べてみよう。この建物は大阪駅の西隣に建てられた。敷地形状はほぼ長方形で、面積は9,069㎡、延床面積は25,565㎡で、どちらも東京のものより1,000㎡以上小さい。構造は東京と同じ鉄骨鉄筋コンクリート造で、階数は6階建てと、東京より1階分多い。しかし、現業員の厚生施設がある最上階はパラペットから少し下がった位置から立ち上がるので、建物から離れないと見えない。この場所は大阪の玄関口ではあるが、そこで威厳を表現する必要はない。規模が少し小さいことが関係しているとみられるが、より垂直性を強調したデザインになっている。そう見えるのは、柱形がグランドラインから庇下まで延びていることや、短辺方向の柱間が5.4mと、短いことにもよるのだろう。ちなみに、東京と同様に3階まで現業室がある関係で、立面もそれに対応して、3階までの窓が高くなっている。外装は東京と同じ二丁掛けタイルだが、煤煙による汚れを考慮して、濃いめのグレーにしている。
 予条件が違うので、単純な比較は慎むべきかもしれないが、大阪では記念性を表現する必要はないので、立面が東京とは違う姿勢で設計されているのは確かだし、直方体のヴォリュームなので、東京のものよりも設計の難易度は低かったとみられる。それに比べて、東京中央郵便局では、変形敷地いっぱいに横長の立面が連続することや、晴れの広場に面することから威厳の表現が求められたことなど、非常に難しい課題を巧みに解いてみせた点で、しかもそれをモダニズムの手法だけで冗長に陥らないデザインにまとめ上げたことから、より高く評価できると考えられるのである。立面が長大になる建物を設計する際の参考になり得る事例といえる。
[註]
*1 山田守「東京中央郵便局の新局舎」(『新建築』1932年2月号、pp.41–51)のように、表側よりも裏側(南側)の方がモダンだという評価が散見されるが、記念性の表現をどの程度まで必要と見るかでその評価が分かれる。
*2 板垣鷹穂「二つの問題」(『国際建築』1935年10月号、p.368)
*3 欧米からの観光客向けに出版された英語のシリーズのひとつで、日本交通公社の前身であるBoard of Tourist Industryから1935年に刊行。
*4 この部分の翻訳は上野伊三郎(『現代建築』育生社、1948、pp.44–46)
*5 計画案の模型写真(『吉田鉄郎建築作品集』東海大学出版会、1968、p.52)でもこの手法が適用されていることがわかるので、この方針はかなり早い段階で決まっていたと見られる。
*6 KITTEへの改修の際にこのディテールは失われ、いまは見ることができない。
藤岡 洋保(ふじおか・ひろやす)
東京工業大学名誉教授
1949年 広島市生まれ/東京工業大学工学部建築学科卒業、同大学院理工学研究科修士課程・博士課程建築学専攻修了、工学博士。日本近代建築史専攻/建築における「日本的なもの」や、「空間」という概念導入の系譜など、建築思想とデザインについての研究や、近代建築家の研究、近代建築技術史、保存論を手がけ、歴史的建造物の保存にも関わる/主著に『表現者・堀口捨己─総合芸術の探求─』(中央公論美術出版、2009)、『近代建築史』(森北出版、2011)、『明治神宮の建築─日本近代を象徴する空間』(鹿島出版会、2018)など/2011年日本建築学会賞(論文)、2013年「建築と社会」賞
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