建築史の世界 第4回
デザインと技術──日本の建築家にとっての鉄筋コンクリート造
藤岡 洋保(東京工業大学名誉教授、近代建築史)
はじめに
 建築史にはさまざまな分野がある。西洋建築史や日本建築史のように、地域ごとや国ごとの建築の歴史を語るものや、近代建築史などのように、ある時代だけを対象にするもののほかに、技術史や建築思想史のように特定のテーマに特化した分野もある。建築史が過去の事実の単なるコレクションではない以上、そして無数の事実の中から意味があると思われる事項をピックアップして今の建築界に意味のあるメッセージを発するのが建築史の重要な使命であることに同意できれば、さまざまな建築史が紡ぎ出せることも理解していただけるだろう。
 近代においては、鉄骨造や鉄筋コンクリート造、カーテンウォール、新材料の登場など、さまざまな技術革新があったので、新しい構造や材料が誕生する過程やそれを活用した建物を研究する近代技術史への関心が高まった。それは「新しさ」や「オリジナリティ」に価値を見るモダニズムの思想に合致するものでもあった。しかし、新しい構造や材料が直ちにすばらしい建築を約束するわけではないことは確認しておかなければならない。技術自体は可能態としてあるだけで、何らかの目標を与えられた時にはじめて形をなすものだからである。新しい技術をいいデザインにつなげるためにはイマジネーションが必要で、新しい技術に潜在する可能性を引き出すには設計者の能力が要る。したがって、技術の革新性だけに注目するのではなく、技術を生かしたデザインにも目を向けるほうが建築技術をよりよく理解できると考えられるし、そのような技術史のほうが、設計者にとってもより有意なものになると思われる。
 ここでは、近代を代表する構造である鉄筋コンクリート造(以下RC造)を例に、日本の建築界がそれをどのように取り入れ、そこにどのようなデザインの可能性を見てきたかを振り返りながら、技術とデザインというテーマについて語ることにしたい。
鉄筋コンクリート造の特徴
 RC造には、ほかの構造と大きく異なる特徴がある。レンガ造や石造のような組積造や、木造、鉄骨造では、規格に則った部品を組み合わせて建物がつくられる。結果としての建物の形は、柱間などの寸法も含め、ある程度の枠内に収まる。それに比べて、プリキャスト以外のRC造にはピース(部品)という概念はなく、型枠さえつくれるならば、原理的にはどのような形にも対応できるし、柱間などの寸法が部材の規格によって制約されることもない。柱・梁によるラーメン構造やプリキャストによる軸組表現にも、アーチやドーム、ヴォールトにも、そして自由曲面にすら対応できるのである。この自由度の大きさこそが、RC造がほかの構造と一線を画す最大の特徴である。不燃性もそれに加えられるだろう。
RC造は、多くの建築家の創作意欲を刺戟した。しかし、その可能性は最初から見えていたわけでも、約束されていたわけでもない。誰かが新規なデザインを試み、ほかの建築家がそれに追随するか、その中に新たな可能性を発見することから、しだいにヴァリエーションが増えていったというのが実態だろう。なお、日本ではRC造といえばラーメン構造というイメージが強いが、欧米では無梁版が多いのを見るだけでも、床スラブを梁で支えるやり方が必ずしも一般的ではないことがわかる。
 大正時代の建築文献に、木造との類似性を説くものが散見されることにうかがえるように、RC造の導入期には在来の木構造との類似で新構造を見ていたふしもあり、伝統的な工法がその展開の方向をある程度規定した可能性がある。また、日本では、タイル貼り仕上げのRC造が多かったが、実はそれは世界では一般的ではない。国によって、建築の歴史や使用できる材料、想定される災害、経済事情などが異なり、同じ技術であっても、その発展の仕方が地域的特色を帯びることもあるということである。
写真1 三井物産横浜ビル(現、KN日本大通ビル、遠藤於菟・酒井祐之助、1911)*
日本における鉄筋コンクリート造導入の歴史
 ここで、日本におけるRC造の導入の歴史を簡単に振り返ってみよう。
 RC造は、耐震耐火性能に優れ、比較的安価ということで、近代日本の建築界でもっとも好まれた構造であり、その建設数も膨大である。日本最初のRC造建物は、佐世保の「海軍第一煮炊所」と「潜水器具格納庫」(真島健三郎、1905)で、大正時代になると、その数が徐々に増えはじめた。しかし、当時RC造は世界的に見ても発展途上で、今日の配筋法の端緒といえるフランソワ・アンネビークの特許(丸鋼を用い、接合部を剛にし、スターラップを用いるもの)は1892(明治25)年だったし、昭和初期でも、雑誌に作品を発表する際に、わざわざ水セメント比を記した例があることにそれがうかがえる。最初期の現存例に「三井物産横浜ビル」(現、KN日本大通ビル、遠藤於菟・酒井祐之助、1911、写真1)がある。
日本でのRC造の導入期に見られる特徴で注目されるのは、導入をはじめた時にその普及を図る動きをあわせて進めていたことである。図式解法や略算法の開発が早くから試みられており、当時の構造技術者や建築家が、当初は耐火構造として、やがて耐震にも有効な技術として大きな期待を寄せていたことをうかがわせる。大正中期には、学術用語の統一もはじまった。
写真2 明治神宮宝物殿中倉(1921)*
図1 明治神宮宝物殿平面図(『明治神宮造営誌』内務省神社局、1930)
図2 明治神宮宝物殿配筋図(明治神宮蔵)
写真3 明治神宮聖徳記念絵画館(1926)*
図3 小林正紹による同コンペ案(『明治神宮聖徳記念絵画館並葬場殿趾記念建造物競技設計図集』洪洋社、1926)
明治神宮宝物殿と聖徳記念絵画館──揺籃期に最先端の技術を実践した例
 そのような揺籃期に、先進的なRC造建物が建てられていたことに注意をうながしたい。その好例として、明治神宮内苑の「明治神宮宝物殿」と、外苑の「明治神宮聖徳記念絵画館」が挙げられる。
 「明治神宮宝物殿」(重要文化財)は、同神宮内苑の北端に建つ。設計者は大江新太郎(1876-1935)、構造設計は志知勇次(1892-1936)で、1921(大正10)年に竣工した(写真2、図1)。東大寺の正倉院を模したような校倉造り風で、復古的に見えるが、当時のRC造の中ではかなり革新的な構法が採用されている。図①に見るように、この施設は7つの分棟で構成されているが、注目されるのは、その展示施設として中央に位置する「中倉」である。この建物は長方形平面で構成され、梁間14.5m、桁行29mで、その中には柱が1本もない。これは、10m以下の柱間が普通だった当時のRC造の中ではかなりの大スパンである。しかも、その床スラブ全体が高さ約3.7mの高床になっている。
 構造形式は、山形ラーメンが長手方向に並ぶというもので、外壁沿いに並ぶ柱の頂部から、屋根と庇の荷重を受けるためのキャンティレバーを両側に伸ばし、そのイの字型の架構が頂部で背中合わせにアーチ状にもたれあうようにして、それを豕扠首でつないで固め、大スパンを可能にしている*1(図1)。この架構の強度を上げるために、登り梁の四隅に鉄骨のアングル材を入れ、基礎のフーチングを貫でつないでいる。鉄筋コンクリート造で和風意匠を試みた最初の例という点でも注目される。正倉院からの連想で、御物を納めるための施設ということで校倉造り風につくるという目標が設定されたので、それを実現する方策が練られたわけである。
 構造担当の志知は1916(大正5)年東京帝国大学卒業で、この仕事が初めての実務だった。東大教授で明治神宮造営局参与だった佐野利器の指導があったと見られるものの、当時の帝大出身者が優秀だったことをうかがわせる例でもある。耐震性も担保されており、1923(大正12)年の関東大震災でもほとんど無傷だった。導入されてまもない技術で前例のない建物を実現するということで、さまざまな工夫と安全策を施して建てられたことが功を奏したわけである。
 「明治神宮聖徳記念絵画館」(重要文化財、1926、写真3)は明治神宮外苑の最重要施設で、明治天皇と昭憲皇太后の事蹟を日本画と洋画それぞれ40点ずつで示す美術館である。
 その案を求めるコンペが1918(大正7)年に行われ、その1等当選の小林正紹案(図3)をもとに実施設計(担当:高橋貞太郎)された。様式は当時の最新のセセッション(ウィーン版のアール・ヌーヴォーで、平面性を重視し、直線を多用するのが特徴)で、シンプルな意匠で威厳を表現し得たことが評価される。図3に見るように、この1等案では中央の玄関ホールの上にドームが載っている。このようなドームをつくるという目標が掲げられたことから、RC造でそれ(スパン16m)を実現することが課題になった。当選案の意匠を踏襲するために、新しい工法に挑むことになったわけである。
 シェル構造は戦後のものと思っておられる方が多いだろうが、大正時代にすでに実例があり、「明治神宮聖徳記念絵画館」のドームは1922(昭和8)年竣工の「佐世保針尾無線通信室」(真島健三郎、重要文化財)のスパン20mのヴォールト・シェルとともに、日本最初期のRC造のシェルなのである。
 当時、このような球形架構の解析は日本では前例がなかったはずにもかかわらず、熱応力によるドームの変形まで想定して構造設計されている*2。そしてその施工に際しては、鉄筋のつなぎを長めにとっただけでなく、打ち継ぎを避けるため、打設を1回で終えるなどの配慮をしていた(構造担当は、志知の東大同期の小林政一、1891-1973)。日本での前例がなく、技術面でまだ不明な点が少なくなかったため、考えられるだけの安全対策を施してつくられたわけである。
 いつの時代にも技術上のブラックボックスはつきものだが、RC造自体がまだ一般的ではなかった時に、このような先進的な構造形式を採用するにはかなりのリスクをともなったはずで、ましてや先代の天皇・皇后を顕彰する記念建造物ということだから、失敗が許されないプロジェクトである。ここで注目されるのは、設計者が、大胆さだけでなく、想定されるリスクに対して可能なかぎりの安全対策を施すという慎重さを持ち合わせていたことである。
 日本のRC造技術は関東大震災を期に進歩したといわれるが、ここに示したように、その前にも優れた構造家がおり、新しい課題に果敢に挑むにあたって細心の注意を払い、今日の目から見てもリーズナブルな構造設計と施工法で実現した例があるので、大震災後の「進歩」が意味するものは、鉄筋コンクリート造技術の底上げだったともいえるだろう。
写真4 東京女子大学チャペル(1934)*
写真5 群馬音楽センター(1961)*
写真6 西条市体育館(1962)*
写真7 出雲大社庁の舎(1963)*
写真8 東光園(1964)*
鉄筋コンクリート造によるデザインの新しい可能性を追求した建築家
 まだ試行錯誤の状態だったRC造を活用して、日本で新しいデザインを試みていた建築家がいた。それは日本人ではない。チェコ系アメリカ人のアントニン・レーモンド(1888-1976)である。彼こそが、RC造によるデザインの可能性を終生追求し続けたパイオニアである。重く、武骨になりがちなRC造を軽快なデザインに仕立て上げてみせただけでなく、ヴォールトやドーム、そしてHPのシェルや折板構造など、さまざまな構法を試み、打ち放し仕上げに象徴されるような、コンクリートのストイックな表現も早くからやっている。そのデザインは、デッド・スペースを極力避け、見付を極力薄くするなど、無駄がなく、軽やかなだけでなく、表現の幅が多様で、今日の目から見ても学ぶべき点が多い。
 「霊南坂の自邸」(1924)では出隅を開放し(サッシュの突き付けで納め)、「川崎邸」(1933)では打ち放し仕上げを試みた。
 「東京女子大学図書館」(1926)では、4本の細い柱を正方形の四隅に配したものを一体の「支柱」にして20mの大スパンを実現し、同じく「東京女子大学チャペル」(1934、写真4)にはヴォールト・シェルやプリキャスト・コンクリート(同前)を適用している。
 彼は、RC造の仕様書の特記事項として固練りコンクリート使用を指示していた。耐震壁の呪縛にとらわれていたためか、レーモンド事務所出身の前川國男(1905-86)を含め、戦前の日本の建築家にはレーモンドのRC造に学ぶ姿勢があまり見られなかったのは不思議で、レーモンドだけがはるかに先を行っていた。
 「群馬音楽センター」(1961、写真5)では折板構造を試みた。最大スパンが60mもあるのに、そのスラブ厚は13mmしかない。それを可能にしたのは固練りのコンクリートだけでなく、いい構造家と組むことを重視していたことによる。彼は、当初は内藤多仲(1886-1970)、そして「リーダーズ・ダイジェスト東京支社」(1949)からは岡本剛(1915-94)を重用していた。いま岡本の名を知る人はほとんどいないが、日本初の吊り屋根の建物(国立代々木競技場ではない)である「西条市体育館」(坂倉準三、1962、写真6)や、「香川県立体育館」(丹下健三、1964)の構造設計を担当したのが岡本である。有名建築家が革新的な構造の建物を設計する際に頼りにしたのが彼だった。
 日本人建築家のなかで、鉄筋コンクリート造によるデザインの可能性を追求した人物として第一に名前を挙げるべきは菊竹清訓だろう。
 格子状の梁で剛性をもたせた居住部分を壁柱で持ち上げた「スカイハウス」(1958)や、50mスパンのプリストレス・コンクリートの梁を受ける躯体の壁に矢羽根文様を打ち込んだ「出雲大社庁の舎」(1963、写真7)、階段を自立する構造にし、プレキャスト・コンクリートを活用した「東光園」(構造担当:松井源吾、1964、登録有形文化財、写真8)は、鉄筋コンクリート造の可能性をダイナミックなデザインに昇華した作品として記憶される。なお、太平洋戦争後には、打ち放しコンクリートのストイックな表現が好まれた。その代表例といえる安藤忠雄の「住吉の長屋」(1976)では、スペーサーの位置までデザインされていた。
 以上に紹介した例だけでも、日本の建築家がRC造からさまざまなデザインの可能性を見出したことがうかがえる。
写真9 鬼北町(旧・広見町)庁舎(1958)*
新技術採用に際しての慎重な姿勢
 シェル構造のような新技術を適用する際に、事前に模型で実験を行って問題点を確認することがあったことを、HPシェルの初期の作品を例に紹介しよう。
 日本では、HPシェルは戦後のもので、丹下健三(1913-2005)の「駿府会館」(1957)やレーモンド事務所の「旧広見町(現・鬼北町)庁舎」(1958、写真9)の議場屋根などがその最初期のものである。周知のように、HPシェルは直線を組み合わせることで3次曲面がつくれるだけでなく、大スパンを覆える構法として建築家に好まれた。
 「旧広見町庁舎」では、早稲田大学で実物の1/10のモルタル造HPシェル模型をつくって載荷実験をしている。その実験報告書(レーモンド事務所蔵)には、「その構造解析は現在の処殻面内に曲げモーメントを生じないと云う仮定に立脚した薄膜理論による近似解が発表されているだけで、この理論による解はいたって不確実なものとされこれ迄我国に於いて施工された数例のH.P殻は総て模型実験を行いこれを設計の裏付けとしている」と記されている。
 要するに、解析技術が未成熟だったので、実験で裏付けを得た上で実施することになっていたということで、技術が成熟したから実現したというわけではなく、HPシェルを実現したいがために、実験でその問題点を確認し、構造設計に反映させたのである。イマジネーションが技術者の奮起をうながしたわけである。このプロジェクトでは、その実験結果をもとに構造設計をやり直している。コンピューターによる解析が一般化した現在では、それで安全対策は十分という雰囲気があるが、技術上のブラックボックスは必ず残るわけだし、コンピューター解析といえども何らかの仮定(それが完全であるという保証はない)の上に成り立っているわけだから、上記のような謙虚な姿勢は今でも必要なように思える。
新たな技術史の可能性
 近代技術史の新たな課題として、技術の進路や普及のベースになる「制度」に注目することも重要だろう。たとえば「安全」のための制度の歴史などである。あらゆる災害に対してびくともしない建物というようなものが非現実的である以上、「安全」は社会の了解事項であり、それは建築基準法のような法律や標準仕様書のようなかたちで示される。それが技術のあり方を方向づけるわけだから、その法律の背景にある思想は考察対象になり得るし、そこには、その時々の社会状況や文化が反映しているはずである。このような研究は、現行制度を相対化するうえでも意味がある。
 オールマイティな技術は存在しない。技術には必ず適用範囲があり、目的に応じて使い分けられるので、必ずしも最新の技術を適用する必要はない。しかし、一見あたりまえの技術であっても、いい設計者ならば、自分の美学やコンセプトに合わせて、プロポーションや部材の組み合わせ方、ディテールなどにさまざまな工夫をしている。たとえば、柱間の設定次第で柱や立面のプロポーションが変わり、プランニングにも影響を与えるほど、デザインの世界は繊細なので、技術と表現の関係に注目すれば、建築家にも示唆を与えられる技術史が構築できるだろう。
*印の写真撮影:筆者
[註]
*1 「明治神宮宝物殿南倉の構造計画の特徴について」(増田泰良・西澤英和・藤岡洋保、日本建築学会計画系論文集no. 628、pp.1341-1348、2008年6月)参照
*2 「明治神宮外苑聖徳記念絵画館の鉄筋コンクリート造ドームの構造設計」(増田泰良・西澤英和・藤岡洋保、日本建築学会大会学術講演梗概集F-2 pp.625-626、2003年9月)参照
藤岡 洋保(ふじおか・ひろやす)
東京工業大学名誉教授
1949年 広島市生まれ/東京工業大学工学部建築学科卒業、同大学院理工学研究科修士課程・博士課程建築学専攻修了、工学博士。日本近代建築史専攻/建築における「日本的なもの」や、「空間」という概念導入の系譜など、建築思想とデザインについての研究や、近代建築家の研究、近代建築技術史、保存論を手がけ、歴史的建造物の保存にも関わる/主著に『表現者・堀口捨己─総合芸術の探求─』(中央公論美術出版、2009)、『近代建築史』(森北出版、2011)、『明治神宮の建築─日本近代を象徴する空間』(鹿島出版会、2018)など/2011年日本建築学会賞(論文)、2013年「建築と社会」賞
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