建築史の世界 第3回
建築における「日本的なもの」の理解と表現
藤岡 洋保(東京工業大学名誉教授、近代建築史)
1. 桂離宮(撮影:筆者)。
2. 伊勢神宮内宮(ないくう)荒祭宮(あらまつりのみや)(撮影:筆者)。
「無装飾で非相称」は「真の日本的なもの」か?
 建築における「日本的なもの」とは? と聞かれたら、建築界を含め、多くの人は「無装飾や非相称」とか「空間の連続性(フリー・スペース)」と応えるだろうし、それを象徴する例として桂離宮書院(写真1)や伊勢神宮(写真2)を挙げるだろう。昭和初期に、いわゆる「帝冠様式」(ここでは、当時の呼称に倣って「日本趣味の建築」と呼ぶ)が登場したが、それは「まちがった伝統理解」で、無装飾や非相称、フリー・スペース、素材の美の尊重こそが建築における「真の日本的なもの」だという見解を今でも建築界の大多数が支持しているように思える。でもそれは「真の伝統理解」といえるものなのだろうか?
「日本趣味の建築」批判
 昭和初期に、県庁舎や博物館のような大規模建造物の設計に際して行われたコンペで「日本趣味」や「東洋趣味」の表現が求められ、仏教建築風の瓦葺きの勾配屋根を鉄骨鉄筋コンクリート造建物に載せる案が当選し、それに沿った実施設計を経て建設されたことはよく知られている。モダニストは、このような「伝統表現」を厳しく批判した。
 その要点は、「日本的なもの」の定義のあいまいさと、構造合理性の欠如を糾弾するものだった。
 前者は、「日本趣味の建築」が「日本的」とする瓦屋根は仏教建築に由来し、それは中国起源だから、「日本的」ではなく「中国的」だという批判である。百歩譲って、仏教建築は千年以上日本でつくられてきたのだからすでに「日本的」と見なせるとしても、それは「過去の日本的なもの」であって、その有効性はすでに失われているとした。過去の建築様式の適用を否定するモダニストにとっては当然の主張といえる。
 また、モダニストは構造種別ごとに固有の最適な形があると信じていたので(それがどんなものかを示せたわけではないし、できるはずもなかったが)、伝統的な木造建築によく見られる柱と長押による構成や組物や蟇股のようなモチーフを、コンクリートで模造するのはフェイクの構造表現ということになるし、陸屋根で済むところにわざわざ重い瓦屋根を架けるのも無用の行為として問題視した。
3. 若狭邸外観(1939、撮影:渡辺義雄、『現代建築』1939年7月号)。
モダニズムのフィルターを通した伝統理解
 このように、モダニストは「日本趣味の建築」の伝統理解や表現を厳しく批判したわけだが、「日本的なもの」の存在やそれを表現すること自体を否定したわけではない。それどころか、彼らの考える「日本的なもの」を積極的に提唱した。
 モダニストはまず、日本につくられた建築すべてが「日本的」というわけではないとし、中国の影響を受けていない、日本独自のビルディングタイプとして、神社・住宅・茶室(数寄屋)に注目した。そしてそこに通底すると考えられる特徴として彼らが提唱した「日本的なもの」が、平面・構造の簡素明快さ、素材の美の尊重、無装飾、非相称性の重視、周囲の環境との調和だった。それに「規格の存在」(畳割りによるモデュールのこと)が加わることもあった。
 容易に見てとれるように、これらはモダニズムの教義や美学に見事に符合している。当時のモダニストもそれに気づき、たとえば牧野正巳(1903-83)は「近代建築の精神は図らずも日本建築の本来の思想と合致したのだ」1)と述べ、市浦健(1903-81)も、「日本の持つ過去の実例に於ても合理主義に一致する多くのものを見出す事に驚き且つ誇りと思つてゐる」2)と、それを偶然の一致として歓迎した。しかし、当時の代表的な美術評論家の板垣鷹穂(1894-1966)が指摘したように、この「合致」や「一致」は、「合理的なものに日本的なものを見やう」3)としたことによる必然の結果と見なくてはならない。要するに、モダニストは、神社・住宅・茶室の中にモダニズムの教義や美学に合うものを見出し、それを彼らの「日本的なもの」としたということなのである。
 つまり、彼らの「日本的なもの」は「モダニズムのフィルターを通した伝統理解」だったわけである。そして、モダニズムを追求することは「日本的なもの」の表現でもあり得ることになるから、モダニストにとってはまことに都合のいい伝統理解だったといっていい(写真3)。
4. 松風荘(1954、1958年にフィラデルフィアのフェアマウント公園に移築されて現存、撮影:筆者)。
「日本住宅」への注目
 太平洋戦争後にモダニズムが建築界の主流になったこともあって、「モダニズムのフィルターを通した伝統理解」は「真の伝統理解」と見なされるようになった。そしてモダニズムが世界中に広まって、工業製品を多用する、画一的で無機的なそのデザインが問題にされはじめた1950年代には、欧米の建築家が、その打開策を示唆するものとして日本の建築、それも特に伝統的な住宅に注目した。モダニズムの原理を体現しているだけでなく、有機材料(木材)でつくられ、ヒューマンスケールを重視する建築と見たのである。
ニューヨーク近代美術館の中庭でモダンリビングを啓蒙するために開かれたシリーズ展「House in the Garden」の3回目に、園城寺光浄院客殿をモデルにした「松風荘」(吉村順三設計、1954、写真4)が展示されたのが、それを象徴している。4)
 内外を問わず、第二次大戦後の建築家の関心を集めた「日本建築」はもっぱら「日本住宅」であり、それも主として数寄屋風のものだった。村野藤吾(1891-1984)や吉田五十八(1894-1974)、堀口捨己(1895-1984)、谷口吉郎(1904-79)、吉村順三(1908-97)らの和風建築の大家の作品も、総じて数寄屋風である。
図1. 棟木を支える構造形式3種。
モダニズムのフィルターを通した伝統理解の時代性
 そのような見方を「真の日本的なもの」と信じておられる方のために、その代表とされる伊勢神宮の社殿(写真2)に、モダニストの伝統理解とまったく違う特徴を指摘できることを示すことにしよう。
 日本建築史の教えるところによれば、棟木を支える伝統構法には3つのタイプがある。棟持ち柱、束立て、扠首組で、そのどれかひとつで棟は支えられる(図1)。
 写真2に見るように、伊勢神宮の社殿には、その3種類すべてがひとつの建物に使われている。つまり、構造は簡素明快ではなく「過剰」ともいえるのである。また、写真2から、棟と棟持ち柱との間にすき間があるのがわかる。棟持ち柱は棟を支えておらず、構造的には無用であることを示している(棟持ち柱が棟を受けていると、板壁が乾燥して収縮するにつれ、軒と壁の間にすき間ができてしまう)。また、1953(昭和28)年の式年遷宮の時までは、伊勢神宮の正殿には2千個以上の金具や宝珠などがついていた(その数は少し減らされたが、現行のものでも多数)。これらは建物を成り立たせるための必須の要素ではないという意味で「装飾」である。「無装飾」ですらないのである。モダニストは、この建物に彼らの見たいものを見ていたにすぎない。
ちなみに、大江宏(1913-89)は、この正殿について「あの柱が構造体そのものだとしたら、あんなに太い柱が要るわけがない。(中略)あの大きな屋根の荷重を受けているのは、実は6センチ厚で横に渡された板壁であって、柱は板を落とし込んでいくガイドレールにすぎない」5)と述べている。
 桂離宮も、侘び寂びの精神でつくられた簡素な建築というよりも、雅の空間である。かつて松琴亭の近傍に朱塗りの欄干の橋が架けられていたことを知るだけでも、それがうかがえる。
 「モダニズムのフィルターを通した伝統理解」が成立した昭和初期は、満州事変(1931)やそれに続く国際連盟脱退(1933)で日本が国際的な孤立化を深めた時期でもあった。当時の外務省や一部の文化人は、その孤立の一因を「日本文化」が特異で理解されにくいためと見なし、外務省の外郭団体である国際文化振興会(国際交流基金の前身)を中心に、「文化工作」と呼ばれるプロパガンダを行った。それは、西洋や中国と比較して、日本が物質性よりも精神性を重視し、壮麗・華美ではなく簡素・清浄や非相称性に高い価値を置く、崇高な文化を持つことを謳うものだった。このような文化論と「モダニズムのフィルターを通した伝統理解」は無縁ではないだろう。
 日本のモダニストも、日本の建築文化が独特の、しかも現代にも有効な価値を持つと信じていた。それをモダニズムという、普遍性重視の立場から称揚したのである。日本の建築的伝統とモダニズムの類似性を意識することは西洋と価値観を共有できることを意味し、その一方で西洋が20世紀になってようやく発見した価値を日本は昔から保持してきたということになれば、日本の優越性を示唆できることにもなる。普遍的な価値の尊重と日本のプライドをともに満足させられるわけである。このように、「モダニズムのフィルターを通した伝統理解」には、当時の日本文化論の影を見ることもできる。
 ちなみに、1933年に来日したブルーノ・タウト(1881-1938)が桂や伊勢を絶賛したことが日本人の見方を変えたといわれることがあるが、それは割り引いて聞かなくてはならない。
 タウトは日本に着いた翌日(1933年5月4日)に桂離宮を訪れた。タウトはそれまで桂のことを知らず、当時も桂の見学には事前の許可が必要だったから、桂を「日本建築」の好例としてタウトに見せるべきだと考えた日本人がいたことになる。
 タウトの案内役は、当時京都にいた建築家の上野伊三郎(1892-1972)である。上野は早稲田大学卒業後、ドイツやオーストリアに留学し、ヨゼフ・ホフマン(1870-1957)のウィーン工房で働いた経験があり、ドイツ語ができただけでなく、夫人がオーストリア人ということもあって、タウトのエスコートを引き受けた。彼の実家は宮大工だったが、日本建築には詳しくなかったようで、タウトにどのような日本建築を案内したらいいのかについて東京の堀口捨己(1895-1984)に電話したところ、桂離宮を見せるべきだといわれたという。つまり、堀口はその前から桂を評価していたのである。
堀口捨己の理論的貢献
 堀口は、「モダニズムのフィルターを通した伝統理解」の理論的基盤を用意した思想家としても重要である。
 「茶室の思想的背景と其構成」(『建築様式論叢』、六文館、1932)は、その記念碑的論文である。そこで堀口は、機能をベースにした芸術という意味を込めて、茶の湯を「生活構成の芸術」と定義づけた。その「生活構成」のもとになるのは、庭園(露地)、建築(茶室)、工芸(茶器)で、それらを統合した芸術として茶の湯を位置づけるとともに、茶室が用と美が一体化した建築であること、つまりモダニズムと同じ原理をもつもので、現代建築のモデルになり得ることを提唱した。そして、それが「非相称性」を特徴とするものであることに注意をうながしつつ、西洋の古典であるパルテノンは美のためだけの建築だが、茶室は機能にも対応しており、現代にもその有効性を主張できる建築として、その「優越性」を称揚している。西洋を向こうに回しつつ、巧みなレトリックで茶室の現代性を説いたのである。茶室は、彼の読み替えによってはじめて、建築家が注目すべきものになったといってよい。
 ちなみに、堀口は、千利休の妙喜庵待庵を絶賛するのだが、彼が学生時代に見学した際には「ちょっと面白いと思った程度」6)だった。モダニズムのフィルターを獲得することによって、はじめてそこに意味を見出すことができたのである。
5. 東京国立博物館本館(1937、旧・東京帝室博物館、撮影:筆者)。
伝統理解・伝統表現の現代性
 以上のように、いま多くの人が「真の日本的なもの」と見なすものは、実は歴史の産物であり、モダニズムや「日本文化論」の影響下で成立したものだった。念のために付言すれば、私はそれを批判しているわけではない。ただ、「真の伝統理解」、「真の日本的なもの」は存在せず、それは解釈に依存することをいいたかっただけである。人はすべてを一度に視野に収めることはできない。建築を読み解く際も、何らかのフィルターを通してしか見られないので、昭和初期の伝統理解においては、そのフィルターがモダニズム、つまり当時の最新の建築観だったということなのである。それは当然のことで、「伝統理解」や「伝統表現」は、必ず「現代建築」にならざるを得ない。
 その一方で、「日本趣味の建築」の「伝統表現」は、歴史主義の、つまり正統性を失いつつあった建築観にもとづくものだったといってよい。両者の「日本的なもの」の見解の相違は新旧の建築観の相克だったわけである。
私は、その「日本趣味の建築」にも建築的意義を認めている。昭和初期には欧米でもナショナリズムが勃興し、「伝統表現」は各国の建築家のテーマだった。日本では、西洋のように新古典主義やネオ・ゴシックだけに拠るわけにはいかず、かといって、神社建築や住宅建築のモチーフでは威厳を表現しづらいので、新古典主義の建物に瓦屋根を載せるやり方で対応したのである。
 瓦屋根を載せるのをこの種の建築のルールとして認められれば、その枠内で優劣を評価できるようになる。そのポイントは屋根の架け方で、いちばん巧みなのが東京国立博物館本館(旧・帝室博物館、渡辺仁原案、伊東忠太+宮内省内匠寮設計、1937、写真5)である。立面を2層に分け、3階分を束ねた下層では新古典主義を単純化して柱形を浮き上がらせ、平家として扱われたその上の層に切妻屋根を横に長く架け(伝統的な建築は平家だったことを意識した構成)、両端を少し後退させた壁面の上に、やや棟を落とした切妻屋根を架けている。このようなシンプルな操作で威厳を表現し得ているのが高く評価できる理由である。
 これからも、「日本的なもの」の表現が求められる場はあり得るだろう。現状では数寄屋風一辺倒の感があるが、これまでも建築観の変遷とともにそのやり方が変わってきたわけだから、新たな伝統表現の可能性は十分残されているように思える。
[註]
  1. 牧野正巳「国際的建築や国辱的建築か(二)」(国際建築』1934年1月号、p.2)
  2. 市浦健「日本的建築と合理主義」(『建築雑誌』1936年3月号、p.25)
  3. 板垣鷹穂「最近の手記から」(『国際建築』1937年3月号、p.25)
  4. 藤岡洋保「松風荘─古建築の姿を借りた吉村順三の"現代建築"」(『新建築』2004年11月号、pp.147-153)参照
  5. 大江宏「手法としての『間』」(『KAWASHIMA』no.17、1985年6月、p.14)初出、大江宏『建築作法』(思潮社、1989)所収
  6. 堀口捨己と菊竹清訓の対談「特集 日本建築のこころ」(『APPROACH』1972年秋号、p.15)
藤岡 洋保(ふじおか・ひろやす)
東京工業大学名誉教授
1949年 広島市生まれ/東京工業大学工学部建築学科卒業、同大学院理工学研究科修士課程・博士課程建築学専攻修了、工学博士。日本近代建築史専攻/建築における「日本的なもの」や、「空間」という概念導入の系譜など、建築思想とデザインについての研究や、近代建築家の研究、近代建築技術史、保存論を手がけ、歴史的建造物の保存にも関わる/主著に『表現者・堀口捨己─総合芸術の探求─』(中央公論美術出版、2009)、『近代建築史』(森北出版、2011)、『明治神宮の建築─日本近代を象徴する空間』(鹿島出版会、2018)など/2011年日本建築学会賞(論文)、2013年「建築と社会」賞
カテゴリー:その他の読み物
タグ:建築史