南部支部街並み見学会──上野谷中
南部支部|平成31(2019)年2月1日
根本 利英(東京都建築士事務所協会南部支部、株式会社根本建築設計事務所)
西郷隆盛銅像前で。
彰義隊の墓。
お化け灯籠。
東照宮。
上野戦争で焼失した根本中堂が描かれた浮世絵のレリーフ。
旧東京音楽学校奏楽堂。
寛永寺本堂(根本中堂)。
徳川慶喜の墓。
指人形笑吉。
夕やけだんだん。
徳川家ゆかりの増上寺と寛永寺
 今年の街並み見学会は上野の寛永寺と谷中周辺を巡った。去年は東京のシンボル東京タワーと芝の増上寺を巡ったが、増上寺は、徳川家の菩提寺であり、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の墓所がある。寛永寺は、徳川家康、秀忠、家光の三代の将軍に信任の厚かった天海僧正が寛永2(1625)年に創建。将軍家の祈禱寺と菩提寺を兼ね、全盛期は天台宗の関東総本山として上野公園のほとんどが寺域で、30余の堂塔伽藍と36の子院を持っていた。東京国立博物館裏手の寛永寺墓地には、四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定が眠っている。
上野公園を巡る
 会員のほとんどは上野の谷中をよく知らない方々が多かったので、台東区ボランティアガイド大塚登喜子さんと、大原定雄さんにお願いし、24名を12名ずつに分けてまち歩きを開始した。
 「西郷隆盛銅像」の説明から始まり、その北側にある「彰義隊の墓」では、十五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興らが、慶応3(1867)年に大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のため「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍に対峙。武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた歴史をうかがった。「清水観音堂」の松から「不忍池弁天堂」を覗き、「人形供養碑」、「お化け燈籠」、「上野東照宮」、「旧寛永寺五重塔」、「グラント将軍植樹碑」と巡り、明治23(1890)年に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の本館として建てられた「旧東京音楽学校奏楽堂」へ。ここでは、現在もコンサートが開かれているとのことであった。
寛永寺本堂と谷中墓地
 東京芸術大学音楽学部の北側には、寛永寺の本堂(根本中堂)と書院がある。寛永寺は慶応4(1868)年の上野戦争で主要伽藍を焼失し、旧境内の大部分が上野公園になり、今の本堂は子院の大慈院のあった敷地に、明治12(1879)年、川越喜多院の「本地堂」を移築したものである。
 寛永寺の北側には、かつては、感応寺(現天王寺)の寺域の一部であった都立谷中霊園(谷中墓地)があり、約7,000基の墓がある。横山大観、鳩山和夫、森繁久彌、ニコライ・カサートキン、渋沢栄一、長谷川一夫、そして徳川慶喜等、多くの著名人が眠っている。
 徳川慶喜の墓は間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成している。
徳川慶喜について
 御三家ながら勤王の伝統を持つ水戸徳川家に生まれ、英明の声明の声高かった一橋慶喜。だが将軍慶喜は一度も江戸城で執務することなく大政を奉還しなければならなかった。開国派で薩長の志士と深い交流があった勝海舟が、最後の幕臣としてそんな慶喜を守り抜いた。徳川慶喜は、駿府に隠棲し、余命を過すが、明治31(1898)年には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見している。明治35(1902)年には公爵を授けられ、徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され貴族院議員にも就任している。大正2年(1913)11月22日に77歳で没した。
谷中巡り
 3時ごろ休憩として、谷中三崎坂商店街にある和菓子店「萩野」の団子、和菓子、ペットボトルのお茶で、近くの「谷中防災コミュニティーセンター」にて一服。谷中銀座に向う途中、「指人形笑吉」で短縮版の笑い上戸、よっぱらい等の上演を見学。笑吉には有名人の似顔指人形20体ほどとその他人形があった。
 谷中銀座商店街を各商店を見ながら「夕やけだんだん」を通り、懇親会会場である「さくら水産」にて2時間半ほど。今日の廻った話やら、いろいろな話題が出て7時ごろ解散した。
根本 利英(ねもと・としえい)
株式会社根本建築設計事務所取締役社長、東京都建築士事務所協会南部支部 副支部長
1947年 福島県生まれ/日本大学付属東北工業高校建築科卒業/1977年 株式会社根本建築設計事務所設立