建築史の世界 第1回
建築史の世界
藤岡洋保(東京工業大学名誉教授、近代建築史)
はじめに
 多くの建築関係者にとって、建築史は遠い存在で、教養以上のものではないだろう。それは「過去」を問うもので、建築家や技術者がもっとも関心を寄せる「いま」と関係がないように見えるからである。
 人は未来に向かって後ろ向きに歩いているようなものだ、と私は考えている。未来がどうなるか、これからの建築がどうなるのかは非常に気になるが、それをいま見ることは原理的にできないからである。しかし、良心的な建築家や技術者であれば、目の前の課題に対してできるだけいい提案をしたいし、そこに「これからの建築」につながる普遍的なメッセージを見いだしたい。そこで手がかりになり得るのが「いま見えているもの」、つまり「過去に構想され、つくられた建築」である。しかし、過去の建築自体は雑多で多様なので、漠然と眺めるだけでは意味のあるメッセージを引き出せない。建築史はそれを理解可能なものにすることを目ざす。どのような過程を経て今の建築があるのか、また、過去の名建築がどのようにしてつくられ、そこに今どのような意味を見いだせるのかについて、何らかの根拠にもとづく説明を試みるのが建築史である。「いま」をよりよく知りたいからこそ、いい建築をつくりたいからこそ、「過去」に向かうのである。
建築史の成り立ち
 建築史という学問は新しい。それは18世紀末ごろに美術史とともにはじまり、19世紀にドイツ語圏で体系化された。過去自体はカオスで、その中の事実を無作為に拾いあげるだけでは有意な理論を構築できないので、分類や考察のための枠組みが必要になる。そこで適用されるのが「様式」や「時代精神」、「空間」、「気候風土」、「国民性」、「材料」などの概念である。これらは過去を理解可能にするための道具だが、はたしてそのようなものが実在するかどうかについては議論の余地がある。正直なところ、「時代精神」や「国民性」が本当にあるかは疑わしいし、日本に限っても、その「気候風土」が、北海道から沖縄まで同じとはいいがたい。しかし、そのような概念をもとにした説明に確からしさが感じられれば、有効なやり方と見なされる。建築史だけでなく、学問といわれるものにできることは、「より確からしい説明」や、「より包括的な考察」の提示だからである。
 建築史(歴史)は事実を扱う。たとえば、丹下健三らの設計で1964年に「国立代々木屋内総合競技場」がつくられたというのは「確かな事実」と認められる。問題にすべきは、無数の事実から何を根拠に特定の事実だけをピックアップするかであり、それを他の事実と組み合わせてどのような言説をつくりあげるかということである。事実の選択と解釈こそが歴史である。それは、建物をその設計者が作品というのと同様の意味で、歴史の書き手の作品(知的産物)であり、そこにはその書き手の建築観や嗜好、置かれている時代や場所の状況が反映される。
形の世界と言説の世界
 建築の世界は、「形の世界」と、それを説明しようとする「言説の世界」でできている、と私は考える。このふたつの世界はけっして一致するものではないが、重なったように見えるレトリックをつくり出せるかどうか(「形」の正当性を「言説」が保証しようとすること)が建築にとっての重要なポイントで、そのレトリックがおおかたの承認を得られれば、その言説が建築の指導原理になる。しかし、それはあくまでもレトリックだから、そのズレが大きくなれば新たな「形」や「言説」が提案され、その結果として次の建築がつくり出されることになるし、同じ「形」でも、ほかの「形」との関係のなかで再解釈されて新たな意味(言説)が付与されることもある。建築の世界は、「形」と「言説」の果てしないインタラクションであり、それがドライブになって、変化し続けていく。建築史は「言説の世界」の一翼を担いつつ、そのインタラクションに参加しているわけである。その書き手の関心は、「いま」をよりよく知るために、過去のモノや建築思想を再解釈することに向かう。
 だから建築史は特権的・優越的な知の体系ではない。もし建築史が「普遍の真実」を把握していて、それをもとに建築界に有効な提言ができると思われているとすれば、それは過大評価である。建築史の世界も人間的で、バイアスやドグマは避けられない。
日本建築史の成り立ち
 たとえば、日本建築史の成り立ちを見てみよう。その通史は、原始時代の住居にはじまり、仏教建築の流入、それに触発された神社建築の成立、平安時代の寝殿造や、板床を張り檜皮葺の屋根を持つ「日本化された」仏教建築、南宋に触発されて成立した鎌倉時代の禅宗様や大仏様の仏堂、近世の城郭建築や大規模仏教建築、書院造、数寄屋、町家という並びになっている。時代によって扱われるビルディングタイプが変わっていき、それを「日本建築」という語で総称しているわけである。少なくとも、それが日本につくられた建築すべてを意味するものではないことは確かである。
 もし欧米の人から「日本建築」と「中国建築」、「朝鮮半島の建築」はどこが違うのかと聞かれたら、うまく応えられるだろうか。「日本建築」の特質は、素木でつくられ、清楚・優美で、非相称性の重視にあるといったところで、日光東照宮のようなものもあるとか、中国にも素木の建築があり、朝鮮半島にも非相称の建築があるといわれれば、反駁できない。木造の軸組で(中国の古建築には、木とレンガによる混構造が少なくないのだが)、勾配屋根が架かることに注目すれば、「日本建築」が中国の建築文化圏に属すると見られてもしかたがないようにも思える。
 この問いに対応するには、別のアプローチをとったほうがいい。それは「国民国家」という枠組みによる説明である。
 「国民国家」は、近代特有の国家体系で、国境を画定し、その内側での主権を主張できる共同体であり、その中にいる人びとを国民として位置づける。ウェストファリア条約(1648、宗教戦争後の調停で、その時点での国相互の領有権を承認したもの)をきっかけに、名誉革命(1689)後のイギリスや、フランス革命(1789-99)を経たフランスにはじまり、世界中に広まった国家形態である。
国民国家存続のためには、「国民」の結束が必須の課題になる。それは、本来人為的な集団に過ぎない「国民」に、納税や兵役などの国家を支える義務を求めなければならないので、「国民」としての自覚をもたせ、一体化を図ることが枢要な課題になるからである。そのために、国旗や国歌の制定や、言語や貨幣の統一、政治・社会・教育・福祉制度の整備、軍備などとともに、過去や文化を共有しているという意識を「国民」の間に醸成することが重要な施策になる。
 他の国々との差異を強調しつつ「国民」に誇りを持たせるために、「固有の伝統」が意味をもつことになり、それを語る「日本史」や「日本建築史」が要請されることになる。つまり、国民国家制度が「日本固有の文化や伝統」を必要とするから「日本建築」という概念が成立したということなのである(他の国でも大同小異)。
 その定義づけは中国や朝鮮半島などの他の国の建築との比較を通してなされるから、微細ではあっても、差異を見いだし、強調することが重要になる。ありていにいえば、この「日本建築」は「日本に建てられた建築」というより、「日本の独自性や優越性を主張できる建築」であり、「日本が世界に誇れる建築」である。だからこそ、神社や住宅建築、城郭、数寄屋が重要視されるのである。
 なにげなく発せられる「日本建築」という語は、実は政治的で、イデオロギッシュなものでもあり、そこには、日本近代の要請が反映しているわけである。
平等院鳳凰堂。池越しの全景。
平等院鳳凰堂。中堂の裳階の大面取りの柱。(撮影:筆者)
建築史の意義
 以上の指摘は建築史に対する信頼を損なうように響くかもしれないが、完全であるかのように装うよりも、不完全であることをひとまず認めたうえで、その意義を考察するほうがはるかに生産的だと私には思える。
 その意義のひとつは、いまどのような建築をつくるべきかについて示唆を与え得ることである。先述のように、建築家はいま何をすればいいのか、どの方向に行くべきかを決めるための手がかりがほしい。それを提供できる可能性があるのが「いま見ることができるもの」、つまり過去の建築である。そこに手がかりを見いだして行くべき道を決めるほうが、よりよい選択といえる。
 いくつか例をあげよう。「日本建築」は西洋の建築ほどにはヴァリエーションがないように見える。神社建築や仏教建築は昔から姿があまり変わっていないし、和風の住宅建築も、畳敷きで、障子が立てられ、床棚があるという点では、近世以降さほど変化はない。しかしたとえば、その角柱の出隅の面(斜めにカットした部分)の幅を変えるだけで、建物の雰囲気を変えることができる。平等院鳳凰堂(1053、写真1、2)の裳階の下に配された柱のように大面取りにして、断面を八角形のようにすれば、建物を優美に見せられるのである。屋根勾配や軒のカーブ、障子の桟の割り付けを変えるだけで、建物や空間の雰囲気を変えることもできる。和風建築は、細部を少し変えるだけで、いろいろな演出ができることを教えてくれるタイプの建築なのである。
 また、平安時代以降の寺院建築の軒裏に見える化粧垂木は、その名の通り、「化粧」であって、構造体ではない。屋根荷重を受ける本物の垂木(野垂木)は小屋裏に収まっていて、外からは見えない。フェイクの構造表現だと批判されそうだが、化粧垂木は、構造体の姿をしていながら構造体としての制約から自由になっているからこそ、設計者の意図に応じて、軽やかにも、重厚にも見せられる点で意匠上重要な要素なのである。
 かつて大江宏(1913-89)が「野物と化粧─苦楽園の家」(『ディテール』1977年1月号)で、和風建築が、野物と化粧材の組み合わせで成り立っていることに注目すべきで、それこそがいい建築の要諦だと述べた。それは構造即意匠を旨とするモダニズム批判の先駆であるとともに、建築の本質を突く指摘でもある。
 構造即意匠の世界は、柱や梁の断面寸法が構造上の制約から逃れられないので、表現の幅を狭めてしまう。軽い木を重く、重い石でも軽く見せることすらできるレトリックが、デザインの妙味である。私見では、建築においては、本当にどうであるかよりも、どう見えるかが大事なのである。
 大江がこのような考えに至ったのは、モダニズムの限界を認識し、新たな道を模索する手がかりを過去の建築に求めたからである。いいモノをつくりたいという思いが強ければ、できるだけ多くのことから手がかりを得ようとするので、過去の建築から学べたということである。
 「いい建築」は、時代を超えて、さまざまな問いに応じる答えを出してくれる。設計者にとって、過去の建築や建築史はそのようなものであるのが望ましいと思う。
パルテノン神殿
パンテオン(撮影:筆者)
多様な解釈を許容する古典
 不完全であっても、建築関係者にとって意味があるという点では、西洋建築史や近代建築史も同様である。西洋建築史の記述は、古代エジプトにはじまり、ギリシャ・ローマを経て、中世以降はもっぱらキリスト教の教会建築がテーマになる。ルネサンス以降になって、パラッツォや宮殿が登場し、近世には国会議事堂や博物館・美術館などが加わる。そこにはさまざまな様式が登場するが、それは19世紀が歴史主義(過去の建築様式を適用して立面を整える設計法)の時代で、建築家にとって、各様式の特徴や地域ごとのディテールの違いを把握しておくことが重要だったことが関係している。いまではその必要はないので、そこに別の意味を見なくてはならない。
 たとえば、西洋建築史を、古代ギリシャ・ローマ建築(写真3、4)を古典と見て、それに倣おうとしたことが次々に新しい建築を生んだ物語とみなすことができる。古典というのは尊重すべき規範であり、そこに最高の建築が実現されていることを意味する。そうであれば、いい建築をつくるには、それに倣えばいいことになる。問題は、それらが遺跡としてしか、つまり不完全な形でしか残っておらず、頼りになるテキストはヴィトルヴィウスの『建築十書』だけなので、後世の建築家は、遺跡を実測して復元図をつくったり、『建築十書』を解釈して、そのエッセンスを探ろうとした。そしてそれをもとに、古代の建築家になり代わって設計しようとしたのである。当然ながら、後世の設計課題とまったく同じ実例は過去にはないし、古典に忠実であろうとすればするほど疑問の数が増え、自分で判断しなくてはならない項目が増えてくる。その結果、ルネサンスやバロック、新古典主義と呼ばれる「新しい建築」を生み出すことになったのである。
 これは、デザインの本質を示唆することでもある。ひたすら過去に倣おうとしたことこそが「新しい建築」の創造につながったのである。「建築の新しさ」が「新しい形の発明」にではなく、「既存の形の新しい組み合わせ」や「意味づけ」にあることを教える例ともいえる。
 過去がなければ未来もない。西洋建築史から、このようなことを学べるわけである。
自己批判の言説
 近代建築史は、書き手自身がその時代に属している点で、対象との距離がとりにくい分野であり、建築史が解釈であることを象徴的に示す分野でもある。
 そもそも近代建築史という分野が設定されたのは、それまでの時代との断絶があるとみなされたからである。それが関係して、当初のそれは近代的な要素を強調し称揚するものになった。ギーディオンの『空間・時間・建築』(1941)に代表されるように、モダニズム建築華やかなりしころの近代建築史は、モダニズムの本質を解釈しながらそれを奨励するものだった。しかし、1970年ごろからモダニズム自体の有効性が疑われるようになり、80年代以降に近代建築史の書き替えがはじまった。ランプニャーニの『20世紀の建築と都市計画』(1980)、フランプトンの『現代建築史』(1980)、カーティスの『近代建築の系譜─1900年以後の建築』(1982)はその代表的なものである。近代建築史は自己批判の言説になったのである。それは、いまどうすべきなのか、どこに向かうべきなのかという切実な問いに応えるべく、近過去の建築を相対化し、批判的に考察する。その言説自体がこれからの建築の構想に関わる点で、「いま」を見る眼力が特に問われる分野でもある。
 なお、建築史のもうひとつの意義として、名建築の事例集であることが挙げられる。
 建築はある枠の中での合理性を求めるものなので、過去の建築もその枠、たとえば敷地や予算、施主の要望、適用可能な技術や手法などを認識したうえで、その枠内での選択肢の中からその設計者が何を選んだかに注目すれば、名建築の形成過程のシミュレーションができ、デザインについての考察を深められる。
 この連載では、まず「日本のモダニズム」や「伝統の理解と表現」、「デザインと技術」のようなトピックに対する建築史のアプローチの仕方(私見のレベルに止まるが)を紹介したうえで、個別の建物をとり上げて、そこにどのような意味や示唆が得られるのかを、建築史の立場から説明することにしたい。
藤岡 洋保(ふじおか・ひろやす)
東京工業大学名誉教授
1949年 広島市生まれ/東京工業大学工学部建築学科卒業、同大学院理工学研究科修士課程・博士課程建築学専攻修了、工学博士。日本近代建築史専攻/建築における「日本的なもの」や、「空間」という概念導入の系譜など、建築思想とデザインについての研究や、近代建築家の研究、近代建築技術史、保存論を手がけ、歴史的建造物の保存にも関わる/主著に『表現者・堀口捨己─総合芸術の探求─』(中央公論美術出版、2009)、『近代建築史』(森北出版、2011)、『明治神宮の建築─日本近代を象徴する空間』(鹿島出版会、2018)など/2011年日本建築学会賞(論文)、2013年「建築と社会」賞
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