古民家から学ぶエコハウスの知恵 ⑬
養蚕が民家をエコハウスにした その3
丸谷 博男(一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル代表/(一社)エコハウス研究会代表理事/専門学校ICSカレッジ オブ アーツ校長)
高山長五郎旧宅全景。
高山社跡航空写真(google)。
旧宅蚕室床構造。
旧宅1階全景。
旧宅蚕室天井床屋裏。
旧宅2階蚕室全体。
旧宅1階居間より2階床を望む。
高山長五郎旧宅現状平面図
高山長五郎旧宅現状段落断面図
荒船風穴復元イメージ図
荒船風穴の現況。
 前回は江戸時代末期、養蚕の飼育方法に、東北で普及していた「温暖育」があり、もう少し温暖な群馬・栃木県などでは「清涼育」が考案され普及していたとして、蚕種家田島弥平に象徴される活動がありました。そしてこれらの飼育法は養蚕の期間の拡大と共に、さらに改良した「折衷育」へと発展して行きました。今回は、明治中期前後から全国的に大きな広がりを持った「清温育」を考案した高山長五郎率いる高山社の活動と蚕室を紹介します。
「清温育」を提唱し普及に努めた高山社
 高山社を創設した高山長五郎(1830 – 1886)は、現在の群馬県藤岡市高山である高山村に生まれ、その生家は養蚕農家でした。1855(安政2)年、本格的に養蚕に取り組みますが、その道は容易ではありませんでした。そして6年が経ち、ようやく独自の養蚕技術を見出しました。時代は、国を挙げて養蚕に取り組もうとする気運があり、長五郎の元へ訪ねて来る者は絶えることがありませんでした。1873(明治6)年には養蚕技術の普及のために研修組織「養蚕改良高山組」を組織します。
 その後、長五郎は養蚕技術をさらに発展させ「清温育」を確立し、1884(明治17)年には高山組から「養蚕改良高山社」へと発展させます。長五郎の死後、2代目社長となった町田菊次郎の時代には1901(明治34)年に私立甲種高山社蚕業学校を設立し、群馬県、埼玉県、千葉県に分教場を60数校にまで拡大していきました。中国、朝鮮半島、台湾からも学びにきていたと伝えられています。また、分教場以外にも「授業員」を全国に派遣して養蚕後術を普及していました。最盛期にはその数なんと800名近くもいたということです。昭和を迎え、全国に公立の蚕糸学校が誕生すると高山社はその役割を終えることになります。
「高山社跡」とは
 「富岡製糸場と絹産業遺産群」の重要な拠点としてこの「高山社跡」があります。「清温育」を考案した高山長五郎の旧宅です。棟換気塔が3塔あり、田島弥平が提案した「清涼育」の機能を持ちながら、低温対策としての炉が備えられた民家になっています。
 1階は住宅機能、2階は蚕室となっています。現存する母屋は、長五郎の死後1891(明治24)年に娘婿が建てたものです。関連施設として、長屋門、桑貯蔵庫、賄小屋なども残っており、国の史跡となり、養蚕という生業の佇まいとしてのあり方を俯瞰できる貴重な建物群といえます。
「高山長五郎の旧宅の蚕室構造」について
 前回に解説した長五郎の弟木村九蔵が結成した競進社による「模範蚕室」。この建物では住宅要素はなく純粋な養蚕のための建築でしたが、「長五郎旧宅」では、1階が住宅、2階が蚕室となっています。この構成から学ぶことにはさらに興味深いことがあります。住宅の暮らしは、緩やかでルーズなコントロールしかできません。そこに、高気密系ではなく開放系の住宅建築の面白さが隠されているはずです。以下にその特徴をあげて見ます。
・当時の「高山社の各種指導書」(以下指導書)では南北に廊下を配置するようになっているが、ここでは南側のみとなっている。
・屋根は、指導書通りに当初は板葺き(木羽葺き)だった。現状は瓦葺き。
・床高は、指導書にほぼ従い地覆石から1階床までは1尺9寸。
・室内天井高は、指導書に従い2階蚕室では8尺5寸。
・天井は、指導書では網代としているが蚕室では床板が張られ、天井は簀の子状の駒返しとなっている。
・排気口は、南部屋では蚕室の中央に方3尺の排気口があり、北部屋では南端に方3尺の排気口を設け蓋をつけている。
・間仕切りは、欄間とも障子となっている。
・蚕架は、特殊な構造となっており、2階の蚕室では直下の床板はなく、通風を最重要視している。
・火炉は、1階南部屋中央に方3尺の炉、北部屋は不明。2階は南部屋に方2尺の炉2個、北部屋に1個を設けている。
・外開口部は、戸及び障子、欄間障子付き。
・床下換気口は、各室ごとに幅2尺の開口を設けているが当初の姿は不明。
・屋上排気窓は、2階の各蚕室に、間口5尺3寸、奥行3尺5寸、高さ3尺の排気窓(テンソウ)を設け、小屋裏より吊り紐で開閉する。
江戸末期から全国に広まっていた風穴の利用
 風穴とは、地中にある空隙によって夏季に冷風が噴き出している穴場というように一般的には認識されています。その利用は江戸時代中ごろからあり、長野県稲核村で漬物保存用に使われ、松本藩主へ献上したという記録があります。
 幕末の1865(慶応元)年には、蚕種の貯蔵庫として利用され、長野県をはじめとして全国各地に風穴の利用が広がって行きました。江戸時代末期の開港後は生糸や蚕種は日本の重要な輸出品となり、明治時代に入り製糸業が急速に発達します。それに伴い繭の増産が求められ、春だけではなく、夏や秋にも養蚕が行われました。それを実現するためには蚕種が孵る時期を遅らせる必要があり、蚕種の冷蔵保存が工夫されたのです。その時に着目されたのが風穴だったのです。その結果、明治43年には全国に240箇所の風穴利用があり、そのうちの112箇所が長野県でした。群馬県では7箇所の記録が残っています。その中でも最も大規模だったのが「荒船風穴」でした。当時の長野県の総貯蔵枚数は187万3000枚だったのに対し、荒船風穴の貯蔵可能な蚕種枚数は110万枚というものでした。しかし、風穴の利用は蚕種の人工孵化法の発見や氷冷蔵庫の普及などの理由から、昭和時代には急速にその数を減少させて行きます。荒船風穴も1939(昭和14)年の記録では機能していないことが記録されています。
荒船風穴の発見と蚕種貯蔵所の誕生
 群馬・長野県境に聳える荒船山(標高1,422m)北麓の標高870m地点に荒船風穴があります。1904(明治37)年、高山社蚕業学校に在学中の庭屋千壽は、この場所に注目し踏査を重ね、蚕種貯蔵の好適地と確信し、父清太郎に進言、蚕種貯蔵所としてつくり上げました。静太郎は地元の有力者であり、建設にあたっては、東京蚕業試験所長の本多岩太郎、高山社社長の町田菊次郎をはじめとする各種専門家たちの協力を仰ぎ、理想的な蚕種貯蔵所をつくり上げました。
蚕種貯蔵所の基本構造
 荒船風穴は崩落石の積もる沢となっています。また、その積石の深さは20mに及び、雨水は地下深く流れるために氷結の状態が5月まで維持される状態となっています。これに石積みで基礎構造をつくり、その上に土蔵のような建物を建て、中は地下2階、地上1階の3層構成をとっています。これは春蚕、夏秋蚕の貯蔵を分けた上、出荷の際には順に層を上がるように移動させ、自然に外気の温度に慣れさせるという配慮からの工夫でした。さて、風穴貯蔵庫の内部温湿度の動きをご覧ください。一年中冷温域に安定していることが分かります。当時の群馬県農会と前橋測候所の職員が毎回出張して自動温度・湿度測定器によって管理していたそうです。3貯蔵庫とも、深さ15尺で、その上には土蔵造りの建物が建築され、ここまで安定した環境が得られていたのです。
荒船風穴内部の温度変化(引用資料/群馬県西部県民局発行 世界文化遺産暫定リスト構成資産平成19年3月発行)
養蚕農家のまとめ
 今回、「養蚕が日本の民家をエコハウスにした」というテーマ・視点で3回の連載に挑みました。日本の民家の歴史の中で、温湿度、通風、輻射熱環境、日射量、気化熱作用など「蚕の成長と営繭」のためのたいへんな気遣いがあり、農民から研究者まで幅広い研究が行われ、多くの指南書が出版されました。
 そこで共通して学んだことは、「現代住宅が仕様だけでつくられ、住み手に引き渡されているだけで、春夏秋冬、朝昼晩のオペレーションに関わるマニュアルが一切ない」と言う事実でした。
 また、床下空間の室内環境への影響も考えた構造まで探求されていることはさらに大きな驚きでした。温度計も摂氏ではなく華氏での観察を推奨する農民までいて、ますますその細かい配慮に感心させられました。これらのことは、現代住宅をより省エネで健康にするために欠かせない深い教訓と受け止めたいと思います。
【引用資料】
・「史跡高山社跡整備活用基本計画」藤岡市教育委員会発行
・各種観光用パンフレット
丸谷 博男(まるや・ひろお)
建築家、一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル代表、(一社)エコハウス研究会代表理事、専門学校ICSカレッジ オブ アーツ校長
1948年 山梨県生まれ/1972年 東京藝術大学美術学部建築科卒業/1974年 同大学院修了、奥村昭雄先生の研究室・アトリエにおいて家具と建築の設計を学ぶ/1983年 一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル arts and architecture 設立/2013年一般社団法人エコハウス研究会設立