木の成分、その知られざる働き ③
安らぎをもたらす木の香り
谷田貝 光克(東京大学名誉教授)
整備され、森林浴やサイクリングを楽しめる森林の道。
世の中に普及した森林浴。
木の香りは気分を落ち着かせる
 木が放出する香りには心安まるものがあります。私たちは気づかないままに、知らず知らずのうちに、かすかな木の香りのなかでその影響を受けているのです。そしてその香りに私たちの気分は安らぎます。
 ほとんどの木に多かれ少なかれ含まれる成分に「α-ピネン」があります。このα-ピネンが1ppm(ppm=10-6、1ppm=0.0001%)以下の低濃度で漂う部屋で睡眠をとると、疲労回復が早いことがわかっています。5〜100ppb (0.005〜0.1ppm)程度の低濃度のα-ピネンの下では、緊張時に現れる精神的発汗が減少することもわかっています。
 そんな希薄な濃度を鼻が感知できるのか疑問に思いますね。匂いを感知できるかどうかはその人の嗅覚能力にもよりますが、化合物の種類によっても大きな差があります。匂いを感知できる濃度を嗅覚閾値、あるいは検知閾値といいますが、たとえば代表的な悪臭のアンモニアは1.5ppm、エタノールは0.5ppm、スカンクの悪臭のメルカプタン類は0.000001ppmで感じますが、α-ピネンは0.018ppm、オレンジの香りのリモネンは0.038ppmといった具合です。犬に至ってはヒトの100万倍から1億倍の嗅覚能力をもっているといわれています。
香りを嗅いだ時に覚醒状態を引き起こすか、逆に鎮静状態になるかを判断するのに随伴性陰性変動(CNV)という脳波の一種を測定する方法があります。
 この方法を用いることで、スギ、ヒノキ、モミ等の葉の香りやジャスミン、ハッカ、クローブ、イランイランの香りには、コーヒーに含まれるカフェインと同じように頭がぼんやりとしている時にすっきりさせる覚醒作用があり、香木の白檀や沈香、ラベンダーやレモンの香りには鎮静剤を使用した時と同じような鎮静作用があることがわかっています。
図❶ 各種材油のCNV測定結果
 ところでスギやヒノキなどの木材の場合はどうでしょうか。スギ、ヒノキ、ヒバ材の香りによる作用を調べた結果が図❶です。黒丸のひとつずつが香りを嗅いだ人それぞれを表しています。これを見ますとひとりだけが例外で覚醒状態になっていますが、他の人は鎮静状態になっていることがわかります。ほかにもベイヒバ、ベイスギなどの木材の香りでも同じように鎮静状態をもたらすことがわかっています。一般に木材の香りには気分を落ち着かせる鎮静作用があります。
葉では覚醒作用なのに材では鎮静作用、これはどうしてでしょうか。その理由は香りに含まれている成分によります。
図❷ スギ葉油の成分
 一般に木の葉や材は、50〜100種類の成分を含んでいます。図❷はスギ葉の香り、すなわち精油に含まれている成分を表しています。ピークのそれぞれがひとつずつの成分を表していますが、同じピークに重複している成分もありますので実際はピークの数よりも多い成分が含まれていることになります。
 木の香りは揮発性の高い「モノテルペン」、それよりも揮発性の低い「セスキテルペン」と「ジテルペン」というグループに分かれますが、葉の精油は図❷からもわかるようにモノテルペンの量が多いのが特徴です。これに対して材の精油はモノテルペン量が少なく、セスキテルペンの量が多いのが特徴です。それで葉の香りは揮発性が高く、葉をちぎるとさわやかな香りがするのに対して、木材の香りはどっしりと落ち着いた香りになるのです。そのために葉では覚醒作用、材では鎮静作用となります。
 ヒノキ材の香りを嗅ぐと、安らいだ時に現れる脳波のα波が出ることからも、材の香りが気分を安らげる働きがあることがわかります。木の香が漂うヒノキ材などの風呂で疲れが取れ癒されるのは、温浴で血液の循環がよくなるせいもありますが、材の香りもひと役買っているのです。
 木質内装の部屋で気分が落ち着くのは豊富な自然のイメージを与える材の色や木目、そして肌触りの優しさに加えて、鼻では感じないまでも材の香りが関わっているのです。
森林浴はからだによい
 木々で被われた森林の中を散策しますと気分がやすらぎ、リフレッシュします。いわゆる森林浴効果です。「森林浴」という新語が生まれてから早30年以上が経過しました。今や森林浴は世の中に普及し、健康づくりのひとつになっています。森林浴効果は、森林の静けさ、新鮮な空気をもたらす森林の大気浄化機能、目にやさしい木々のみどり、そして木の香りなどによる複合効果です。木が放出する香りの効果については前述のCNVの測定や、ストレスホルモン、血圧、心拍数などの測定により実証されています。
 匂いは鼻腔の最上部にある嗅上皮にある嗅神経を刺激して嗅球、脳へと伝わっていきます。それだけではありません。森林ウォーキング前後の血液中のα-ピネンの濃度を測ると、ウォーキング後には血中濃度が5〜10倍に増加したという報告があります。このことは森林樹木の香りを肺で吸収しそれが血中に入ったことを意味しています。
 植物からの香り成分であるモノテルペンの濃度は、400ppm以下ならばヒトへの急性刺激はないこともわかっています。林内の香り成分の濃度は高くても1ppm程度ですので、健康を害するような濃度からはほど遠いことになります。森林内の濃度に限らず、木質内装の木から放出される匂いも極めて低濃度ですので、新築の家こそ木材の香りが強いものの、健康阻害を起こすような濃度ではありません。
 木の代表的な香り成分であるα-ピネンの作用についてはこのようなこともわかっています。マウスに毎日α-ピネンを1時間おきに5時間暴露して4週間後に腫瘍を植え付けると、α-ピネンを嗅いでいなかったマウスよりも腫瘍の増殖が大幅に減少したということです。
 山で狩猟をするマタギの人たちは花粉症を防ぐのにスギ葉の煎汁を飲んでいたという言い伝えがあります。昔から花粉によるアレルギーに悩んでいた人はいたようです。スギによる花粉症をスギで防ぐ、なんとも興味ある話です。これにヒントを得てアレルギーのひとつアトピー患者の患部にマカデミアナッツオイルに混合したスギ葉精油を使用したところ、かゆみが軽減することもわかっています。この試験は複数の皮膚科専門医が150名ほどの患者を対象に行い、その結果、80%近くの人がかゆみが軽減したという結果を得ています。
 花粉症で世の中を騒がせているスギですが、よい面もたくさん持ち合わせています。それを私たちが知らないだけです。よい面をうまく引出し、利用してあげるのが私たち人間の役目なのです。
谷田貝 光克(やたがい・みつよし)
香りの図書館館長、東京大学名誉教授、秋田県立大学名誉教授
栃木県宇都宮市生まれ/東北大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)/米国バージニア州立大学化学科およびメイン州立大学化学科博士研究員、農林省林業試験場炭化研究室長、農水省森林総合研究所生物活性物質研究室長、森林化学科長、東京大学大学院農学生命科学研究科教授、秋田県立大学木材高度加工研究所所長を経て、2011(平成23)年4月より現職。専門は天然物有機化学
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