私の休日 ⑦
北方領土訪問
井桁 正美 (オルカ一級建築士事務所、東京都建築士事務所協会渋谷支部副支部長)
整備された道路と真新しいアパート。
先祖の墓の前で。
 来る平成28(2016)年12月上旬にロシアのプーチン大統領が訪日することが報じられ、テレビや新聞で北方領土という言葉を目や耳にすることが多くなった。私は母親が北方領土の択捉島の出身であることから、微力ながら北方領土返還運動にかかわってきた。その関係で去る平成28(2016)年9月2日から5日まで北方領土の択捉島を4年ぶりに訪問してきた。今回はその模様を紹介したい。
 北方領土とは、北海道の北東に位置する歯舞群島、色丹島、国後島および択捉島の4島をいい、北方四島とも呼ばれている。国後島の面積は沖縄本島の面積に匹敵し、択捉島はその約倍の面積を有し、北方四島の総面積は5,036km2に達する。
 北方領土は、安政元(1855)年に署名された日魯通好条約によって日露両国の国境が平和的な話し合いにより決められたわが国固有の領土である。
 しかし、先の大戦でわが国が降伏の意図を明確に表明した後にソ連軍がわが国固有の領土である北方領土に侵攻し、終戦当時四島に住んでいた17,291人の日本人島民を強制的に追い出し、現在に至るまで北方領土を不法に占拠していることに対して、わが国としてその返還を求めている。
 現在、北方四島は日本人が住めない島になったが、四島への墓参について、遺族の切なる願いに沿い、政府は人道的見地からこれらが実現するようソ連側と折衝した結果、1992年より北方四島への訪問を、旅券・査証なしで行う「北方四島交流事業」が始まった。
 私の場合は母親が択捉島出身のため元島民2世として訪問の機会を与えられた。
北方領土の今
 今回の訪問の目的は、択捉島の母の生まれた紗那と、有萌、別飛での墓参と島内の視察である。訪問団の構成は元島民およびその家族が39名、通訳、医師・看護師、内閣府職員、外務省職員、北海道庁職員、千島歯舞諸島居住者連盟職員の総勢50名である。9月2日朝9時に根室港を「えとぴりか」という客船で出港し、国後島の沖で入域手続きを行い、択捉島の上陸地である内岡沖に着いたのは深夜であった。
 翌3日早朝、ロシア側の小型の船に乗り換えて内岡港に上陸した。4年前、内岡港はあちこちで工事をしていたが、現在ではその工事も終わり綺麗に様変わりしていた。
 島には観光バスなどないため、一団は17台のロシア人の乗用車に分乗して島内を移動する。4年前はすべての車が日本製のオフロード車だったのに対し、今回は同じ日本製ではあるが普通の乗用車が目立った。これは以前、町の中心部しか舗装されていなかったが、幹線道路の舗装化が進んだことを示す。その綺麗に舗装された道路を走り紗那の中心部に移動した。車窓から見る風景から建物もずいぶん増えているのに気がついた。一行がまず案内されたのは新しく建てられた文化施設である。この中には資料館、体育館、プール、映画館が入っている。その後、元日本人の墓地を2カ所訪れ、現地の水産加工場を視察した。
 翌日も早朝に上陸して、私の母の曾祖父の墓がある紗那の墓地を訪れた。そこには倒れて半分土に埋まった先祖の墓が静かに横たわっていた。その後、町の中心部に戻るがここでロシア人島民から日本人の建てた建物が残っているという話を耳にする。それは旧紗那村を見下ろす丘の上にある明治36(1903)年に建てられた測候所である。それをロシア人が手を加え最近まで地震研究所として使っていたという。そしてもうひとつ、日本人が建てたというマスの孵化場を視察した。これはほとんど手を加えずにそのまま使っているという。
 前回来たときは日本人が建てた郵便局が朽ちながらもまだあったが、今回は撤去され更地になっており、淋しい思いをした。インフラが整備され、建物が増え、人が増え、近年急激にロシア化が進んでいるのが感じられる中、残っている日本の建物を見ると嬉しさとともに確かにこの地に日本人が住んでいたと実感する。
整備された内岡湾の港湾施設。
新しく建てられた文化施設。
文化施設の内部の体育館。
カラフルなアパートが立ち並ぶ住宅地。
日本人が住んでいた証し。
ギドロストイ社の水産加工場。
水産加工場の内部。
日本人が建てた測候所と言われる建物。
日本人が建てた孵化場を現在もそのまま使用している。
孵化場の内部。
井桁 正美(いげた・まさみ)
建築家、オルカ一級建築士事務所代表、東京都建築士事務所協会渋谷支部副支部長
1960年東京都生まれ/1983年 東京工芸大学工学部建築学科卒業後、株式会社エム建築事務所/1989年 株式会社エイムクリエイツ/1996年 イゲタ建築・デザイン事務所開設/2012年 オルカ一級建築士事務所に事務所名を変更
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