古民家から学ぶエコハウスの知恵 ⑤
茅葺きの神秘
丸谷 博男 (一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル代表/(一社)エコハウス研究会代表理事)
図❶茅葺き屋根断面詳細図(高知県檮原町)
図❷針目覆詳細図(高知県檮原町)
日本の民家は、木と土と草と竹と紙でつくられてきました。身近な材料だったから使っただけではなく、今改めて再評価してみると、性能的にも、循環型社会・経済においても、たいへん優れていたことが理解できます。それも感動を交えないではいられない真理を包含しているのです。
茅葺き屋根は、循環型建築の典型
 伝統民家の壁は、木材か土でできています。その壁は大きな屋根によって風雨から守られてきました。さて、その屋根は、茅葺きか板葺き、ところによっては石葺き(天然スレート葺き)でできています。石葺き以外は、こまめなメンテナンスが必要となります。茅葺きも板葺きも、地域共同体の互助制度の存在によって、その頻繁なメンテナンスに比して、一軒一軒の金銭的な負担は意外に少なく済んでいたのです。さて、ここで茅葺き屋根に注目してみましょう。どのように維持管理がされていたのかたいへん興味深い物語があります。
 雪国では、寒い冬に備えて「雪囲い」を行います。その茅はいつもその年に新しい茅を刈り取り、一冬使い、使用後はストックしておきます。それらは20〜30年に一度の葺き替えや、時々の修理に使います。葺き替えや修理をする時には、腐ってしまった茅は畑の堆肥や緑肥に使います。まだ使える茅は、さらに屋根材として使い続けます。囲炉裏からでる煙に包まれ、ほどよく腐食した屋根の茅は、肥料としてはたいへん好適だったようです。その古茅も大切なものでしたので、集落で平等に分け合っていたそうです。
 明治時代に入り、養蚕が全国の農家に急速に広がりました。それまでの屋根裏では蚕の生育には適さなかったため、通風、採光の工夫がなされました。その結果が全国各地にある現在の民家の形をつくり出したのです。蚕は温湿度の変化にたいへん弱い昆虫でしたから、農夫たちはさまざまな工夫をし、毎日の気象の変化に対応していたのです。民家は人間のためよりも、蚕のための環境装置となっていたといっても言い過ぎではないようです。馬も東南の角の温かいところに厩が設けられていたことも同じ事情です。農家に泊めていただいたら、厩に寝かせられたという話を聞いたことがあります。それは、失礼なことではなく、いちばん温かいところを提供していただいたということなのです。
 世界遺産の町、南イタリアのマテーラでは、洞窟住居が今でも使われていますが、昔農業を営んでいた時には、その洞穴のいちばん奥の低い所がワインの貯蔵庫でした。年間平均気温の安定した保存庫だったのです。その手前が家畜のスペース。その手前に寝室スペース。さらに外気に接した所にダイニングキッチンが配置されていました。家畜たちの屎尿と藁が発酵し、その発酵熱が暖房に役立っていました。発酵し切った藁は、ワイン畑に敷肥として役立てていたに違いません。民家には無駄はありません。利用できるものは徹底して利用していたのです。
茅葺き屋根の通風・採光の工夫
 建築にとって欠くことのできないものが屋根。竪穴住居は屋根しかありませんでした。しかし、内部空間の有効性を高めるためには、屋根を突き上げ、壁を建てる必要がありました。そこで初めて屋根は壁から独立して「屋根」となったのです。
 屋根の役割は、雨からの浸水を防ぎ、太陽からの熱放射を防がなければなりません。また、風による破壊や吹き上げに負けてもいけません。養蚕は屋根裏での作業でした。そのためには、明かり取りと通風が欠かせませんでした。それなしに養蚕は成り立ちません。暑くても寒くても蚕は生きていけないのです。
 多くの民家は、人間の暮らしの場であると共に、生産の場でもありました。どちらかというと生産のための建築であったと理解した方が、建築の仕掛けを理解しやすいと考えます。蚕はとても繊細な生物。温度、湿度、光線、風・空気などの環境要素すべてが満足されなければ、人間が期待する生育を望むことはできませんでした。
 蚕が発育する温度の範囲は7〜40℃くらいですが、正常な発育のためにはだいたい20〜28℃位の範囲が必要で、さらに早い発育を望むのであれば温度はやや高めの方がいいようです。また、それぞれの生育時期によっても好まれる温度が異なります。稚蚕期は26〜28℃、成長に従って適温は低くなり、壮蚕期には22〜24℃と考えられています。
 湿度の影響も大きく、60%以下や90%以上では、蚕は健康を害して病原菌(硬化病菌・麹黴病菌など)の繁殖や、桑葉が萎れてしまうことがあります。また成長と共に湿度は低くして行くことが望まれます。稚蚕期は85〜90%で、壮蚕期には70%内外が適当といいます。 
 空気についても、蚕は酸素を必要とし、二酸化炭素を排出します。暖房用の燃料、人間の呼吸、蚕座の「いさ」(蚕の食い残した桑の葉や糞等の混ざったもの)の蒸れなどによって生ずる二酸化炭素、一酸化炭素、アンモニア、亜硫酸ガスの発生は蚕の成長を妨げます。これらの条件を改善するためには通風が必要です。通風は蚕が気門から水分を蒸散させ、気化熱によって体温を下げるのに役立てることができます。気流の効果は、稚蚕期よりも壮蚕期に有効となります。
 光線量については、蚕は強い光線と暗闇とを避け、15〜30lux程度の弱い明るさの光を好むといいます。また明るい方が蚕の運動量と食桑が活発となります。夜22時ごろから翌朝6時ごろまでを暗くして飼うのが、蚕の成長が揃い、繭質も良くなるとのことです。(参考資料:「蚕糸科学研究所レポート」) 
 養蚕という生業は、これほどまでに微妙な環境管理が必要だったのです。これらを人間の勘と経験で操ってきたのに違いありません。
 こうしてみると民家の仕組みが見えてくるようにも思えます。茅葺きの民家に、窓が大きくとられ、通風と採光のための装置が明治以後、養蚕の発展と共に改造されてきた姿がひしひしと感じられます。そのような目で茅葺き屋根を見直してみましょう。
茅葺き屋根の寿命から知る地域循環型社会
 「茅葺き屋根は美しい」このひとことに尽きます。その厚み、立体感、ボリューム、3次元曲線、経年変化、稜線を造る感性、多様で地域性あふれる棟押さえ、などの言葉が続いて出てきます。また養蚕の普及によって、明かり取り窓、通風窓の工夫が現れ、さらに変化のある屋根の形が誕生してきました。これも地域性あふれる表現となっていました。
 民家の構造は、屋根構造を受ける桁までが大工の仕事です。その上に載る屋根構造は、竪穴住居から続いてきた丸太と竹と草と縄による結束だけでつくりあげられていて、それは、「講」、「結い」、「もやい」などと呼ばれるDIYによる相互扶助として、地域労働供与と材料の持ち寄りによって支えられてきた長久の歴史があります。
 生活をしながらの屋根の葺き替えは、原則として一日の仕事で終わります。その段取りが、昔から繰り返し続けられて来たことに改めて驚かされます。
 茅葺き屋根の材料は、20年から30年の寿命を保つヨシやススキ、その3分の1の寿命が麦ワラ、さらにその3分の1の寿命が稲ワラといわれ、いずれもごく身近にあるもので葺いています。また、同じ材料で葺いていても屋根形状、勾配、葺き厚、葺き方によってその耐久性は左右されます。また、囲炉裏を使わなくなったために寿命は短くなってしまいました。実際の葺き替えや、補修としての差し茅は、その地域地域によって考え方も方法も異なっています。
 6年から10年で葺き替える(丸葺き)のは富山県旧平村。50年から60年に1回という瓦並みの耐久性をもつ岐阜県旧白川村。屋根をいくつかに分割して数年ごとに順繰りに葺き替えて行く(分割葺き)のは、母屋の規模が大きい東北や北陸地域。葺き替えなしで差し茅だけで維持している新潟を含む東北地方の日本海側。また丸葺きと差し茅を取り混ぜて行う関東地方などがありました。丸葺きが20年から30年の寿命ということは、当主が自分の代で1回葺き替えるという勘定になります。
 屋根の葺き替えは屋根の寿命に合わせて実施していたとは限りません。そこにはあらゆる需要と供給の循環サイクルがありました。
 このように茅葺きは、地域の相互扶助の仕組みの中で支えられ、地域に必要なものとして長年継続して来ましたが、その互助組織が崩壊してしまった現代社会では、個人で葺き替えざるをえなくなっています。しかし、個人負担での葺き替えは、財政的に不可能であると言わざるを得ません。また、専門職人に依頼しての葺き替えは1日で葺き替えることは不可能であり、分割葺きとなります。さまざまな意味で茅葺き屋根の維持管理は住まい手の負担が大きく困難な情況となっています。(参考資料:『茅葺きの民俗学』安藤邦廣著、はる書房刊)
図❸箱木千年家(神戸市)
図❹箱木千年家 復原平面図(移築後)
図❺箱木千年家 外気とオモヤ、ハナレの温度変動 2006年7月26日〜8月1日
図❻箱木千年家 外気とオモヤ、ハナレの相対湿度変動 2006年7月26日〜8月1日
箱木千年家での観察記録から茅葺き民家の性能を読み解く
 茅葺き屋根の温熱データで解りやすいものがないかと探している中で、早稲田大学の木村建一名誉教授のエッセイが目に止まりました。NHKの番組で、神戸市の「箱木千年家」をロケ地にして、茅葺き屋根の優れた働きを解説しようという内容でした。その時のデータがありましたので、引用させていただきます。(データ採集:早稲田大学田辺研究室)
移築復元された「箱木千年家」は、室町時代後期と推定されるオモヤ(母屋)と江戸時代中期に隣接して建築されたハナレ(離れ)があります。江戸時代末期に母屋と離れを連結し屋根を広げてひとつの家屋にしましたが、復元時に室町時代の建築当初の姿に近づけるかたちとしています。 
温湿度の測定値の中から、2006年7月26日〜8月1日を取り上げてみました。7月17日から25日までは大雨や曇天が続き、26日からようやく梅雨明け的な晴天となったことを気象データから確認しています。 
その影響があって、室内の相対湿度は徐々に湿気が室内から排出されていることが理解できます。建物はどちらも茅葺きですが、オモヤは、外部は大壁構造で、かつ開口部が少なくかなりの土壁量があります。それに対して「はなれ」は、建具と板壁が多く、さらに真壁構造となっているため、外気温の影響を強く受けています。また天井を張っているため、茅葺き屋根の恩恵を受けにくい室内環境となっていることも理解できます。床についても、オモヤは半分くらいが土間であるのに対し、ハナレの方は、外気が通じる床下空間をもつ床構造となっています。このことによってハナレはますます外気温の影響を受けやすい構造と理解できます。 
その結果が図❺、❻のような結果となっているものと考えられます。
図❼二階堂家住宅(鹿児島県肝属郡肝付町)
図❽室温変動 上:二棟造り(7月27日晴れ)下:瓦葺き木造住宅(7月30日晴れ)1970年代前半
図❾相対湿度変動 上:二棟造り(7月27日晴れ) 下:瓦葺き木造住宅(7月30日晴れ)1970年代前半
図❿二階堂家住宅 二棟造り平面図
大隅半島における二棟造り民家「二階堂家」の住居気候を読み解く
 九州の南端大隅半島の中部にある旧肝属郡肝付町に重要文化財の二階堂家住宅があります。気候の特色は春秋が長く、夏季には日射がたいへん強いのですが気温はそれほど上昇しないという温暖な土地柄です。さて、この建物は、九州地方に特徴的な二棟造り、重要文化財の二階堂家です。主屋のオモテの平面は田の字型、四間取り。釜屋のナカエは仲居と呼ぶ部屋と土間から構成されています。建物の床は相当高く、蟻害や湿気に対する考慮がなされています。外壁はほとんど板張りとなっています。
 引用したデータは、故花岡利昌氏の著書『伝統民家の生態学』(海青社刊)に掲載されているものです。茅葺き屋根の表裏では、内外の差が10℃あります。これは、茅葺き屋根の気化熱作用により、外部表面温度が低くなっていることを示しています。また、ナカエの方は、天井がなく茅葺きの裏面が現しとなっていることと同時に、土間面が多いことが寄与して、室内温度は外気温より4℃ほど低くなっています。それに対して、天井のあるオモテの客間や床間では、外気温に近い温度となっています。
丸谷 博男(まるや・ひろお)
建築家、 一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル代表、一般社団法人エコハウス研究会代表理事、東京藝術大学非常勤講師
1948年 山梨県生まれ/1972年 東京藝術大学美術学部建築科卒業/1974年 同大学院修了、奥村昭雄先生の研究室・アトリエにおいて家具と建築の設計を学ぶ/1983年 一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル arts and architecture 設立/2013年一般社団法人エコハウス研究会設立