Kure散歩|東京の橋めぐり ㊱
浅草橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶江戸時代の浅草橋(『古今東京名所浅草見附より柳橋の景』、三代 歌川広重)。(紅林所蔵)
江戸時代の浅草橋
 浅草橋といえば、まず駅名や地名が頭に浮かび、人形店や屋形船をイメージするが、その名は神田川を渡る橋名に由来する。橋から道を北へたどれば2kmほどで浅草寺へ通じるいわゆる浅草口であったため、橋に「浅草」の名が付けられた。
 神田川は江戸時代初期に外堀の一部として開削された人工河川で、この川の誕生に伴い1638(寛永15)年頃に現在地に「浅草橋」が架設された。現在、「浅草橋」は国道6号(水戸街道)が通るが、江戸時代には加えて奥州街道(現国道4号)も通っており、江戸の北の玄関口であった。
 当時、江戸城から放射状に延びる街道が、内堀や外堀を渡る箇所には、「見附」という城門が計36カ所も設けられ、当該箇所にはそのひとつである「浅草見附」があった。❶は江戸時代の浅草見附と門前に架かる「浅草橋」を左岸上流側から描いた浮世絵(『古今東京名所浅草見附より柳橋の景』、三代 歌川広重)である。立派な石垣や城門があり、門前には格式の高い橋だけに許された擬宝珠付きの高欄を持つ木造太鼓橋の「浅草橋」が描かれている。この門をくぐると、敵の侵入を防ぐために道が直角に曲がる桝形が設けられていた。
 「浅草橋」は、1657(明暦3)年に発生した明暦の大火では焼失を免れたが、小伝馬町牢奉行の石出帯刀が火事から逃すために囚人たちを仮釈放したことを、浅草見附の門番は知らずに脱走者と勘違いし門を閉ざしたために一般の町民も逃げ場を失い、この地で2千人とも2万人ともいわれる焼死者を生んだ。
❷1874年に架け替えられた石造アーチ橋の浅草橋(『東京名勝浅草橋ヨリ両国柳橋之真景』、三代 歌川広重)。(紅林所蔵)
❸2階建て馬車が通る石造アーチ橋の浅草橋(『東京開化十六景』、三代 歌川広重)。(紅林所蔵)
石造アーチ橋の浅草橋
 1874(明治7)年1月、「浅草橋」は新政府によって、東京では秋葉原の「万世橋」につぐ明治以降2例目となる石造アーチ橋に架け替えられた。
 『東京名勝浅草橋ヨリ両国柳橋之真景』(三代 歌川広重)(❷)は、石造アーチ橋に架け替えられた「浅草橋」を描いた浮世絵である。橋の上は人力車や馬車や多くの人で溢れ、神田川にも荷を載せた多くの船が行き交う。この絵からも、東京の北の玄関口に位置し、街道と物流の大動脈だった神田川との結節点にあたり、加えて料亭や置屋が立ち並ぶ東京屈指の繁華街でもあった当時の「浅草橋」の繁栄を垣間見ることができる。
 橋長30.9m、幅員10.9mで、1径間で神田川を跨ぎ、明治初期に東京に架設された13の石造アーチ橋中、最大支間長を誇った。江戸時代に国内に架設された石造アーチ橋の最大支間長は、熊本県の「霊台橋」の28.4mであり、「浅草橋」はそれに匹敵する国内屈指の石造アーチ橋であった。工事は「万世橋」と同じく、肥後の種山石工の棟梁だった橋本勘五郎が差配して行われた。なお勘五郎は、この橋の完成を最後に東京から去り、以後の石造アーチ橋の架設は、勘五郎から指導を受けた関東の石工らに引き継がれた。
 『東京開化十六景』(三代 歌川広重)(❸)は、「浅草橋」を渡る2階建て馬車を描いている。当時このようなハイカラな馬車があったとは驚きである。この浮世絵は『古今東京名所浅草見附より柳橋の景』(❶)とほぼ同じアングルで描かれている。ふたつの絵を見比べると、『東京開化十六景』(❸)では見附の石垣がなくなったことに気づく。石造アーチ橋は、この石垣を撤去した石材で造られたのである。
 しかしこの橋は、アーチライズ比が0.15と著しく偏平で、加えて地盤が多少軟弱であったため、架設直後から不等沈下を起こして橋体に変形を生じ、架設からわずか8年後の1882(明治15)年には撤去された。
❹1884年に錬鉄製のポニーボーストリングトラス橋に架け替えられた浅草橋。(紅林所蔵)
❺1884年架設の浅草橋を通る馬車鉄道(『両国橋及浅草橋真図』、井上探景)。(紅林所蔵)
❺-2 同上部分。
ポニーボーストリングトラス橋の浅草橋
 不等沈下による撤去後、「浅草橋」は1884(明治17)年1月に鉄橋が架設された。橋梁形式は錬鉄製のポニーボーストリングトラス橋(❹)で、橋長26.1m、幅員12.9m。材料の錬鉄は英国から輸入し、製作は官営工場の赤羽製作所で行われた。東京では、「山里釣り橋」(1870年)、「新橋」(1871年)、「弾正橋」(1878年)、「高橋」(1882年)につぐ5番目の鉄橋で、設計は「高橋」や後に「吾妻橋」を設計した東京府技師長の原口要が担った。
 しかし、このポニーボーストリングトラス橋の寿命も長くはなかった。車道部の幅員は5.7mで、この中に馬車鉄道の単線軌道も敷設されていた(『両国橋及浅草橋真図』、井上探景、❺)。このため狭隘で通行に支障を来たし、さらに馬車鉄道の需要が増すと単線から複線への線増の声が高まり、橋の拡幅が求められるようになった。そして架設から14年後の1898(明治31)年7月に早くも架け替えが行われた。なお当時は鉄が貴重であったため、撤去された橋は神田川の「美倉橋」に移設され、関東大震災まで供用された。
❻鋼上路式アーチ橋に架け替えられた浅草橋。(紅林所蔵)
鋼上路式アーチ橋の浅草橋
 新橋は、橋長24.9m、幅員15.1mの鋼上路式アーチ橋(❻)で、鉄製では皇居に架設された「皇居正門鉄橋」(錬鉄製)に次ぐ国内2例目、鋼鉄製および日本人の手による設計ではいずれも国内初となる鉄製のアーチ橋であった。設計は、東京市役所の原龍太技師と金井彦三郎が担い、製作は石川島造船所が請け負った。
 アーチ曲線が織りなすフォルムの美しさ、橋名の「浅草」にちなみ「麻」の花をデザインしたおしゃれなアーチスパンドレルの化粧パネル、「麻」の葉をデザインした照明ポール、そして上路式ならではの橋上での開放的な眺望。これらは多くの市民の心を掴み。これ以降、市街地に架ける橋には上路式アーチ橋が相応しいとの評価が、官民問わずなされるようになった。
 その後、関東大震災までに東京市内に架設された鋼上路式アーチ橋は、「新橋」(1899年)、「高橋」(1900年)、「江戸橋」(1901年)、「京橋」(1901年)、「万世橋」(1903年)の5橋に上った。
❼左岸上流側から眺めた現在の浅草橋。(2026年、紅林撮影)
❽美倉橋側面図(『橋梁設計図集(第3輯)』、復興局土木部橋梁課)。茶色の箇所が旧地盤線。両岸に河岸があったこと、復興計画では河床を掘削し河川断面を増やしたことなどが分かる。
❾下流の柳橋から眺めた現在の浅草橋。両岸に多くの屋形船が係留されている。(2026年、紅林撮影)
関東大震災での架け替え
 関東大震災では落橋はしなかったものの、復興都市計画で道路幅員や河川断面が大きく変わったことから、1930(昭和5)年1月に現在の鋼上路式アーチ橋(❼)へ架け替えられた。橋長35.8m、幅員33mで、事業主体は内務省復興局が担い、鉄部は石川島造船所が製作し、橋台工事などは間組が請け負った。
 鋼上路式アーチ橋は、震災でほとんど損傷がなかったことから、震災復興では地盤が比較的良好で、川面から桁下端までのクリアランスが十分確保できる箇所では積極的に採用され、神田川では、「浅草橋」から上流に向かい、「左衛門橋」、「美倉橋」、「和泉橋」と4橋が連続して同形式で架設された。
 ❽はそのうちのひとつ、「美倉橋」の側面図である。茶色で着色した部分が震災前の地盤だが、復興計画で河床を掘削して河川断面が大きく拡げられたことが分かる。また、江戸や明治時代の浮世絵には神田川沿いに道や河岸が描かれているが、この図でも両岸に平場があり、震災前までは河岸が継続していたことがわかる。河岸が復興計画で設けられなかったのは、すでに物流が舟運から鉄道や自動車運搬に移行しつつあり、将来は不要になると推察していたためと思われる。
 ❾は下流の「柳橋」から「浅草橋」を写した写真である。神田川の両岸にはぎっしりと屋形船が係留されている。もし河岸が継続されていたなら、江戸時代さながらの風景を見ることができたのにと思うと少し残念である。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社多摩橋梁担当課長、室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/1985年 名古屋工業大学卒業後、入都/奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/平成29(2017)年度に『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で、令和6(2024)年度に『東京の美しいドボク鑑賞術』で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『浮世絵を彩った橋』(2025年4月、建設図書刊)