連載:Kure散歩|東京の橋めぐり ㉘
一ツ橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶明治初年の一ツ橋御門と一ツ橋。(『江戸見附写真帖』向陵社)
一ツ橋の由来
 一ツ橋といえば大学の名前か、15代将軍 徳川慶喜を輩出した御三卿の一橋家を思い浮かべる。これらの名前の由来になったのが、竹橋の「毎日新聞社本社」のすぐ北側の日本橋川に架かる「一ツ橋」である。
 橋の北西の「如水会館」の敷地には、関東大震災以前は東京商科大学が建っていた。同校は震災後に郊外の国立に移転し、戦後の新制大学移行の際に発祥地の一ツ橋の地名を校名に冠した。一橋家は、8代将軍徳川吉宗の四男宗尹を家祖とし、「一ツ橋」脇に屋敷を賜ったことから一橋家と称され、現在の「一ツ橋」から大手町の「神田橋」付近までの広大な屋敷を構えていた。
 「一ツ橋」の歴史は古く、江戸時代当初まで遡る。家康の江戸入府時にこのあたりには日本橋川の前身の平川が流れており、ここに丸木の一本橋を架けたのが名前の由来と伝わる。正確な建設年は不明だが、1629(寛永6)年に現在の日本橋川が外濠の一部として整備された際に、江戸城の36見附のひとつとして櫓を持つ一ツ橋御門(❶)が建設され、門前の橋も擬宝珠を持つ立派な橋に改修されたと思われる。もっともこの頃は、後年一橋家の屋敷になった区域は、松平伊豆守の上屋敷であったことから伊豆殿橋と呼ばれていたが、享保の頃には屋敷替えになりその後に戸田氏が住んだことから、元の一ツ橋という呼び名が復活し今日まで続いている。現在でも、橋の下流側に御門の石垣の一部が残されている。
❷現在の一ツ橋。(2025年、紅林撮影)
❸一ツ橋開通記念絵葉書。(紅林蔵)
❹開通直後の一ツ橋。(後ろの建物は如水会館、紅林蔵)
❺一ツ橋竣工図(側面図)(東京都建設局蔵)
❻橋灯と高欄。(2025年、紅林撮影)
❼橋歴板。(2025年、紅林撮影)
建設時の姿を伝える現在の一ツ橋
 明治になると東京市内の見附の桝形は交通の支障になることから撤去され、一ツ橋御門も1973(明治6)年に破却された。これに合わせ「一ツ橋」も架け替えられ、その後1900(明治33)年にも架け替えが行われた。いずれも桁は木造であったが、1900年の架け替えでは橋脚には鉄管柱が用いられた。この橋は関東大震災では崩落はしなかったものの、直後に発生した火災により焼失。このため、帝都復興事業により現橋に架け替えられた。
 現在の「一ツ橋」(❷)は復興局が架設したもので、1925(大正14)年11月3日に開通した(❸、❹)。設計は復興局橋梁課の阪東貞信で、橋長30.8m、中央径間14.7m、幅員28mである。両側の側径間が石造アーチ橋、中央径間が鋼鈑桁橋のように見えるが、実は石造アーチ橋に見える部分は、鉄筋コンクリートのラーメン式橋台で表面に石を貼ったものである(❺)。後述するように、復興事業では同形式の橋が多く架設されたが、現在では大半が撤去され、現存する中で最も建設時の姿を伝えているのが「一ツ橋」である。
 橋台をアーチ状にかたどり、表面に石を貼って石造アーチ橋に模し、橋台上の高欄も石造、橋灯も石造の灯篭風(❻)で、皇居へ通じる橋に相応しい重厚な佇まいである。鋳鉄製の高欄は、戦争で供出され長年失われていたが、平成の初めにオリジナルを参考に復元された。
 皇居側の橋台の下流側には、「復興局建造」と記された緑色のプレート(❼)が設置されている。橋の世界では、明治大正期には、たとえば日本橋がそうであるように、構造設計者や意匠設計者など、事業関係者の名前をプレートに記して橋に設置することが多かった。このようなルールは震災復興で大きく変わった。以前のように橋に設計者名や工事関係者名の入ったプレートを設置することを禁じ、ただし建設の責任の所在を明確にするために「復興局建造」などと事業者名が刻まれたプレートを付けることに統一した。震災復興では、短期間に大量の橋を架けたために、設計は橋桁、橋台、橋脚などパーツごとに分担して行われた。多くの技術者で分担し積み上げて橋の設計を行うようになったのである。復興局が纏めた『帝都復興事業誌』では、「関係者諸名は、広汎にして詳記することは難しく」と記している。このようなルールは、現在でも多くの橋で続いている。
❽親父橋竣工写真。(紅林蔵)
❾竣工直後の海運橋。(『橋梁設計図集第1輯』復興局土木部橋梁課)
❿築地橋竣工側面図(紅林蔵)
⓫竣工直後の菖蒲橋。(『橋梁設計図集第1輯』復興局土木部橋梁課)
⓬菊川橋側面図(『橋梁設計図集第4輯』復興局土木部橋梁課)
復興局型橋梁
 道路や橋を建設する際に、事業期間の長さに最も影響を与えるのが、用地取得の期間である。工事期間は概ね計算できるが、用地買収は所有者の同意に左右されるため時間を計算しづらい。まして復興事業は、世界でも前例のない都市部での区画整理事業で行われたため、地権者が一定割合で土地を供出して、それを合算して公共用地にあてるという「減歩」の考え方が地主たちに理解されず、私権の複雑さも相まって用地確保が難航。震災後1年を経ても、目に見えた工事進捗は図られなかった。
 そこで復興局橋梁課長の田中豊は、用地取得が必要になる橋台の大きさを小さくするよう工夫を施した。たとえば「永代橋」をはじめとする隅田川の橋では、河川内の橋脚の支承条件を「固定」に、陸側の橋台を「可動」とし、地震時に働く力を橋脚に集中させることで橋台の寸法を抑えた。
 また川や運河などに架かる中小の橋では、大胆にも橋台を河川や運河の中に設けて、用地取得をほとんど必要としない構造を提案。この橋台は、水の流れを阻害しないよう中央部分をくり抜いたラーメン構造で、橋梁工学ではこのような橋梁形式は後に「復興局型橋梁」と呼ばれることになった。
 復興局型橋梁の開通第1号は、日本橋にあった堀留川に架設された「親父橋」(❽、1949/昭和24年に川の埋め立てに伴い撤去)で、1925(大正14)年9月15日に、震災復興橋梁の第1号として開通した。「一ツ橋」や「親父橋」は、中央径間は鋼鈑桁であるが、この部分にアーチを用いた「海運橋」(❾)や「築地橋」(❿)、方杖桁を用いた「菖蒲橋」(⓫)、橋台をラーメン構造の代わりにU型にした「菊川橋」(⓬)などさまざまなバリエーションが生まれた。
これにより、震災後のバラックが建ち並ぶまちなみの中に、忽然と新形式の橋が出現した。復興の姿が東京市民の前に、現実として見えてきたことで、停滞していた家屋移転にも拍車がかかり、震災復興は目覚ましい進捗をみせるようになる。メディアはこのような状況を「復興はまず橋から」という見出しで報じた。復興局型橋梁が、復興事業にとって起死回生の先導役を務めたのである。
 震災から100年が経過し、復興局型橋梁も「一ツ橋」と「弾正橋」(中央区)、「千代橋」(中央区)、「法恩寺橋」(墨田区)、「茂森橋」(江東区)などわずかになってしまった。
 また現在では、河川構造令により、河川内にこのような橋台は設置できないし、日本橋川では橋脚設置も認められず、1径間で川を跨がなければならない。新たに同様の橋を架設しようとしても許可されないのである。「一ツ橋」は震災復興と歴史の生き証人であり、貴重な文化財といえる。ぜひ大切に管理、保存していってもらいたいと願う。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社多摩橋梁担当課長、室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/1985年 名古屋工業大学卒業後、入都/奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/平成29(2017)年度に『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で、令和6(2024)年度に『東京の美しいドボク鑑賞術』で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『浮世絵を彩った橋』(2025年4月、建設図書刊)