3つの「ときわ橋」
日本橋本石町、辰野金吾が設計した日本銀行本店裏の日本橋川に、「ときわ橋」と名付けられた橋が3橋架かる。常盤橋:1926(大正15)年架設
最も下流に架かるのは関東大震災の復興で1926(大正15)年に架設された「常盤橋」。2連の石造アーチ橋に見えるが、アーチスパンドレルに石を貼った鉄筋コンクリートアーチ橋である。現在は、石が薄汚れ首都高の高架下というロケーションもあり、うらぶれた佇まいであるが、竣工時は壁高欄のグリル(戦争で供出して復元されず)がモダンな美しい橋であった(❶、❷)。
常磐橋:1877(明治10)年架設
真ん中は、1877(明治10)年に架設された石造アーチ橋の「常磐橋」(❸)で、現在東京の河川に架かる橋では最古である。建設年に比べ新しく見えるのは、東日本大震災で被災し、解体補修工事(2013/平成25年〜2021/令和3年)を行った際に表面を洗浄したためである。橋の創架も古く、家康が江戸へ封じられた直後の1590(天正18)年と伝わる。江戸の街は巨大な城郭都市で、周囲を2~3重の堀が囲み、堀を渡る主な街道の出入り口には、「見附」という城門が36カ所も設けられていた。そのうちのひとつで大手筋にあたり奥州街道へ通じる常盤御門の前に、「常磐橋」は架設されていた。
「古今東京名所 常盤橋御門不二の遠景」(❹)は、歌川広重(三代)が描いた常盤御門と橋(現常磐橋)の浮世絵である。江戸時代は橋名を「常盤橋」と書いたが、1877(明治10)年の架け替えにあたり、「常盤」の「盤」の字の下の造りが「皿」のため「割れる」→「落ちる」を連想するため縁起が悪いとされ、下の造りを「石」である現在の「磐」の字に改めた。
新常盤橋:1918(大正7)年架設
最も上流に架かるのは「新常盤橋」である。最初の橋は、東京市初代橋梁課長の樺島正義の設計により、1918(大正7)年に架設された。橋長29.6m、3連の無筋コンクリートアーチ橋で、鉄筋を用いなかったのは、第1次世界大戦の影響で鉄が高騰したことから、建設費の縮減を図ったためである。樺島は、コンクリートの地肌を「安っぽい」からと嫌いアーチスパンドレルに石を貼り、石造アーチ橋を模した手法をよく用いたが、この橋では石を単に布積み風に貼るのではなく、石の彫刻が取り付けられた橋脚と一体となったデザインが施された。このような意匠のコンクリートアーチ橋は、国内では他に例がない。関東大震災後、復興都市計画で橋の拡幅が明記され、これを受けて両側に同ライズのアーチ橋が架設された。その際にアーチスパンドレルの意匠は、以前のデザインが継承された(❺)。しかし残念なことに、この橋は東北・上越新幹線の東京駅延伸の際に支障となったため、1988(昭和63)年に現在の鋼床版箱桁橋に架け替えられた。
明治の石造アーチ橋「常磐橋」
明治初期の文明開化期、東京の都心部には、1873(明治6)年に秋葉原の「萬世橋」を皮切りに、「江戸橋」や「浅草橋」など13の石造アーチ橋(❻)が架設されたが、時代を経て次々と架け替えられ、「常磐橋」(1877/明治10年)が唯一の生き残りとなった。❼は架設直後の「常磐橋」と日本橋川左岸側を写した写真である。橋の後方には多くの家屋が写っているが、現在この箇所には日本銀行が建てられており、明治初めの日本橋界隈の風景は、かなり違っていたことに驚く。
橋の構造は、橋長28.8m、幅員12.6mの2連の石造アーチ橋で、江戸時代に九州で多く架設されたモルタルを使用しない空石積みの「和式の石造アーチ橋」である。石造アーチ橋の施工者といえば、九州の石工が思い浮かぶが、明治初年の東京の石造アーチ橋は、1、2例目の「萬世橋」と「浅草橋」は、熊本の種山石工の棟梁の橋本勘五郎ら九州の石工を中心に架設されたが、以降は両橋の建設を通して技術を培った関東の石工により施工された。東京都公文書館に遺された資料によれば、「常磐橋」は茨城の石工により架設されたと推察される。
両側に歩道が設けられ、高欄は鋳鉄製で束柱には国産の大理石が用いられた。文明開化期ならではの西洋のデザインを取り入れた擬洋風の意匠で、これは他の石造アーチ橋には見られない「常磐橋」ならではの特徴である。
東日本大震災で被災後、解体復元工事が行われ、これにより詳細な構造が明らかになった。架橋地点は地盤が軟弱なため、橋台と橋脚の基礎には松杭(φ15cm×7.2m)が群杭で打たれていた。その上に十露盤木(15cm×15cm×1.8m)と呼ばれる角材が橋軸直角方向に枕木状に敷かれ、さらにその上に捨土台と呼ばれる角材(6cm×6cm×3.6m)が、十露盤木と直交して組まれていた。このようにして着地面積を広げることで、石造アーチ橋の重い荷重を分散するよう細工されていたのである。これらを基礎にして、この上に石でアーチを構築していた。同様の構造は、九州の石造アーチ橋にも見られる。
「常磐橋」の昭和の復旧工事
「常磐橋」は1923(大正12)年の関東大震災で被災し、復興計画で隣接して鉄筋コンクリートアーチ橋の「常盤橋」が架設され、一度は撤去が決まった。しかし渋沢栄一が撤去に異を唱え、残すなら補修費を寄付すると申し出た。これを受け東京市は橋の存続を決定し、橋の補修と隣接する常盤橋公園の整備が行われた。ゆえに公園には渋沢の銅像が立つのである(❽)。幕末、明治、大正と日本をリードし発展を見守ってきた渋沢にとって、文明開化の名残が消え去ることは、胸が張り裂けるような思いだったのかも知れない。復旧工事では、基礎とアーチリングはそのまま存置し、壁石や中詰石は一度撤去して積み直された。❾は東日本大震災前の「常磐橋」であるが、これを建設時(❼)と見比べると、橋脚に設けられた水切りの形が異なっていることが分かる。水切りは関東大震災で破損し、形状を変え❾のような形状で、しかも震災以前は上下流両側に設置されていたが、下流側のみ再建された。なお破損した水切りは、東日本大震災で被災後に行われた補修工事の際に、日本橋川の川底から発見された(❿)。
「常磐橋」の平成の復旧工事
東京では石は採れないが、石造アーチ橋の材料の石はどこから運ばれたのだろうか? この解も、東日本大震災の復旧工事で得られた。「常磐橋」は、東日本大震災で右岸側径間のアーチリングにクラックが生じて橋体が30cm沈下したため、橋体すべてを解体して復元工事が行われた(⓫)。壁石や中詰石を撤去し、アーチリングを露出させたところ、アーチリングを構成する石の形状はバラバラで整形されていなかった(⓬)。これらの石には岡山 池田藩の刻印があったことから、石は見附のひとつで水道橋にあった小石川御門を解体した石材を転用したものと判明した。さらに、空石積みだと思われていたが、アーチリングの上側にはコンクリートが敷かれ、不均等な石の間にはモルタルが詰められていた。これは関東大震災の復旧工事で施されたもので、これらのコンクリートやモルタルが東日本大震災で破損したことで、橋体の沈下が生じたと推察された。
今回の工事では、石材に番号を付けて橋を解体し、クラックがある石は交換したり、形状が不安定なものは石を継いだり(⓭)、150N/m㎡の超高強度モルタルを使って形状を整えたりし、明治期と同様に空石積みで石造アーチ橋が復元された。基礎は、将来の日本橋川の計画断面を踏まえ、河床低下しても突出することがないように、周囲をシートパイルとプレキャストのコンクリート擁壁で防護された。
改変されていた水切りや鋳鉄製の高欄(⓮)も、建設時の形状に復元された。またコンクリート造だと思われていた親柱(⓯)と高欄の束柱は、表面を覆うモルタルを除去したところ、茨城県産大理石の寒水石であることが判明したため、不足箇所は新しい寒水石を継ぎ足すなど補修が施され復元された(⓰)。工事は2013(平成25)年から2021(令和3)年にかけて行われ、文明開化期の美しい姿が蘇った(❸)。
「常磐橋」竣工150年にあたる2027年には隣接して、国内の建築で最高層となる「東京トーチ」が完成予定で、2040年には橋の上を覆う首都高も地下化される。太陽の下に輝く美しい石造アーチ橋。東京の新しい観光名所の誕生を予感させる。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)
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