勝鬨橋建設を主導した土木技術者
岡部三郎が東京市橋梁課長を辞した後、「勝鬨橋」(❶)の建設を主導したのは、東京市橋梁課設計掛長の滝尾達也(❷)と、安宅勝橋梁課技師(❸)、徳善義光工事掛長(❹)であった。滝尾達也は、1922(大正11)年に東京帝国大学土木工学科を卒業して東京市に入り橋梁課に配属。震災復興では隅田川の「両国橋」などを設計した。1940(昭和15)年に橋梁課長に、1951(昭和26)年に東京都建設局長に就任した。
安宅勝も東京帝国大学土木工学科を卒業して、1927(昭和2)年に東京市に入り橋梁課に配属。「曙橋」などを設計した。勝鬨橋建設後の1941(昭和16)年には朝鮮の京城帝国大学教授に、戦後は大阪大学教授へと転職した。
徳善義光は、1923(大正12)年に京都帝国大学土木工学科を卒業して東京市に入り橋梁課に配属。国内初のランガー橋の「海幸橋」(既撤去)などを設計した。戦後は1951(昭和26)年に東京都水道局長へ就任し、小河内ダム建設を推進した。
「勝鬨橋」建設は、3人の経歴を見ただけでも、東京市土木のエースを揃えた看板事業であったことが分かる。
跳開式可動橋選定の経緯
当時、築地と月島間には、勝鬨、月島、佃の3カ所に渡しがあり、1929(昭和4)年度には、渡船の利用者は1,000万人/年、自転車は250万台/年にも上っていた。一方、「勝鬨橋」より上流には、離島航路の乗船場や、石川島造船所、三菱倉庫や住友倉庫などがあり、大型船が航行していた。架橋にあたっては、これらの支障にならないように対策を施す必要があった。
これらを踏まえて、「勝鬨橋」はシカゴ型2葉式跳開橋を採用した。この橋梁形式を選定した理由について、滝尾は「築地月島間可動橋の設計」(『土木工学』、昭和10年7月)に記している。以下にその報文を要約する。
(1)渡河の基本構造比較
可動橋と、大型フェリー案、トンネル案、高架橋案の比較。
①大型フェリー案
収容能力の高い大型フェリーは、隅田川の舟運が多いため横断が危険で、移動距離が短いことから運営経費も高額となる。
②トンネル案
隅田川下の土被りは、河川条件から6m以上必要なため、地上とトンネル内の道路の高低差は約15mとなり、地上からのアプローチ(斜路)が長大となる。これにより工事費は可動橋の約3倍に達する。
③高架橋案
1,000t級の船の航行を考慮すると、桁下のクリアランスは23mが必要で、アプローチはトンネル案より長くなり、工事費はトンネル案より高額となる。また交差する道路は、桁下の建築限界が確保出来ないため横断が遮断される。
④結論
水上、陸上ともに交通量が多い場合は、交通の障害とならないように、工事費の大小に関わらず、トンネル案を選択すべきである。しかし隅田川は、開橋を必要とする大型船の航行は少なく、将来も増加は予想されない。このため、水上交通や開橋に伴う陸上交通への影響は限定的であると判断し、アプローチや工事費の観点で優れる可動橋を採用した。
(2)シカゴ型2葉式跳開橋採用理由
可動橋の橋梁形式には、主に以下の3種類がある。これらについて比較検討のうえ、跳開橋(2葉式)を選定している。
①旋回橋(❺)
桁が橋脚上で水平に回転する可動橋。橋の幅員が22mと広いため、桁が90度回転した開橋状態でも航路を22m塞いでしまう。同様の橋で、桁の回転半径内に船が入り込み、接触事故を起こすことがある。故障すると航路を閉鎖してしまう。
②昇開橋(❻)
橋脚上にタワーを建て、それを伝い桁が上下に昇降する可動橋。1,000t級の船を通すためには、桁が上がった時に桁下のクリアランスが23m以上必要なため、タワーの高さは30m程度と大規模な構造となる。桁が上がった際の耐震性に問題がある。景観上美しくない。故障すると航路を閉鎖してしまう。
③跳開橋(2葉式、❼)
桁の片側を固定し、もう一方を跳ね上げる可動橋。安全性が高く、タワーなどの構造物がなく景観的に優れる。可動桁をふたつ設けた2葉式とし、動力をそれぞれ別系統とすることで、可動桁のうちひとつが健全であれば、航路を完全に閉鎖することはない。
可動桁の構造
中央径間の可動桁(❽)は、橋脚から中路式鋼鈑桁橋を片持ちで突きだす構造で、桁は最大で70度まで開いた。閉橋時には、桁は回転軸であるトラニオンと活荷重沓の2点で支持され、開橋時にはトラニオン1カ所で桁とカウンターウエイト(合計約2,000t)を支持している。シェアーロックは、閉橋時に片持ちされたふたつの桁を繋げるヒンジであり、ふたつの桁のたわみ差を吸収している。リアーロックは、主桁後端部の防振の役割を果たしている。可動桁の後方にはカウンターウエイトが設置されている。可動桁の荷重は950t、カウンターウエイトの重量は1,050tで、その重心にトラニオン(❾)が設置されている。このように前方と後方の重量バランスをとることで、電動で約40度まで開橋すればカウンターウエイトの重量だけで開くことができた。こうすることで、約70秒という短時間での開橋が可能となった。カウンターウエイト(❿)は、重量バランスの微調整ができるように、約100kgの鉛入りコンクリート塊に分けられている。
床版は、車道部はT形鋼を溶接し、コンクリートを間詰めしたTグリッド床版(⓫)を、国内の橋梁で唯一採用した。「勝鬨橋」は、大半を国内の技術で施工したが、この床版だけは米国から輸入された。当時は鋼床版がなかったため、可動のためにできるだけ死荷重を減らす上で、この特殊な床版を使用したのである。なお、歩道部の床版には木板が用いられた。これらの床版は、1979(昭和54)年に歩道の一部を残し鋼床版に交換された。
開閉の動力源は電力で、築地側にある「勝鬨橋変電所」(⓬)で、3,300V交流電気を動力にして250kw直流発電機を駆動した。これは当時、交流だと安定したモーターの駆動が不可能だったためである。直流電流は、川底をケーブルで橋脚内の機械室に引き込み、125馬力直流モーター2基で開閉した。通常はモーター1基を使用し、強風時や積雪時には2基を使用した。
下部構造
橋台躯体は鉄筋コンクリートのバットレス型で、基礎は、道路中心から上流側は木杭基礎、下流側は地盤が大変良好だったため直接基礎で建設された(⓭)。橋脚躯体は鉄骨コンクリート造(⓮)で、仮設はシートパイルを2重に施し、その間には止水を兼ねて粘土が充填された。
基礎は、設計時には木杭基礎を想定していたが、地盤が想定より相当強固であったため、杭基礎から直接基礎に、加えて橋脚の床付け高を3m上げるよう設計変更された。その経緯について、滝尾は「築地月島間可動橋の設計」に以下のように記している。「……橋脚底の標高を-12mとし7.2mの杭打ちをなして-18mの点まで到達せしめ橋脚位置の確保を期した。……然るに月島側橋脚の掘削を開始したるところ、地盤が予想外に堅硬で、そこで-6m程度で一時掘削を中止し試験杭打を行ったが、木杭は破損して到底打ち込めない。……設計変更を行い月島側橋脚は杭打を廃し、かつ基礎高を-9mまで上げた」。
勝鬨橋は開くのか
勝鬨橋は開通当初は1日あたり5回の開橋が行われ、最盛期の1950(昭和25)年には年間829回の開閉を数えたが、道路交通の増加と舟運の減少に伴い、1970(昭和45)年11月29日を最後に桁の開橋を終えた。かつての雄姿を再びという声に背中を押され、2020東京オリンピックに合わせて開橋を実現しようと、10年ほど前に内部の詳細調査を行った。その結果、開橋の要となるトラニオンの健全性が確認できなかった。橋を解体して、支障のある部材を更新すれば開橋は可能であろうが、解体に必要となるフローティングクレーンは、下流に「築地大橋」が架設されたことで進入できなくなり、また都内屈指の幹線道路である晴海通りを長期間に渡って閉鎖することもできず、開橋は諦めざるを得なかった。
2005(平成17)年から旧変電所を「かちどき橋の資料館」として、毎週火、木、金、土曜日に開館しており、木曜日には予約制で橋脚内部の開閉機械装置や塔屋の運転室(⓯)の見学会を実施している。東洋一と謳われた可動橋の神髄に、ぜひ一度触れていただきたいと思う。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)
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