東京を代表する橋
東京を代表する橋と問えば、「日本橋」や「二重橋」などと並んで隅田川に架かる「勝鬨橋」(❶)を挙げる人も多いであろう。勝鬨橋を有名にしたのは、橋の中央部分が「ハの字」に開く可動橋(❷)であったからで、1970(昭和45)年11月に桁の可動を終えるまでは、多い時は日に5回(定時、予約制)開橋していた。特に昭和20~30年代は、隅田川の舟運が盛んだったために開橋が頻繁に行われ、東京を代表する観光スポットとして多くの見物客で賑わった。初代ゴジラは東京湾から上陸後、最初に破壊したのが「勝鬨橋」であったが、このことからも東京をイメージし代表する建造物であったことが伺える。「勝鬨橋」は1940(昭和15)年に開通し、東洋最大の可動橋と謳われた。橋の構造は、橋長246m、幅員22mの3径間の鋼橋で、主径間は51.6mのシカゴ型双葉式跳開橋、両側の側径間は86mのタイドアーチ橋から成る(❸)。シカゴ型というのは、米国のシカゴ市に多く架設されたことから日本国内で付けられた呼称で、トラニオン式バスキュール型可動橋(trunnion bascule bridge)が正式名称である。東京では、日本の可動橋王と呼ばれた山本卯太郎が設計した、「常磐線隅田川駅構内運河跳上橋」(1926/大正15年、❹)と「芝浦跳開橋」(1929/昭和4年、❺)に次ぐ3橋目の可動橋であった。
架橋までの経緯
明治中期以降、隅田川河口周辺では、浚渫して喫水を確保するとともに、浚渫土砂で埋め立て地を造成しふ頭などを整備する東京港の近代化が図られた。これにより、1892(明治25)年に月島が誕生し、引き続き、大正にかけて勝どきの埋め立てが行われた。1903(明治36)年には「相生橋」が架設され、清澄通りが延伸されて市街地と繋がったが、市街化が進んで交通需要が増し、明治末には隅田川に新たな橋梁の架設が求められるようになった。1910(明治43)年11月24日の『読売新聞』には、東京市が架橋調査を行っている旨が書かれ、架橋位置については「築地本願寺側から一直線に月島へ架橋し……」、橋の構造については「船舶の航行に支障なからしむるため開閉橋とならざる……」と記されている。これから、架橋位置は概ね現在地で、構造は当初から可動橋を想定していたことがわかる。
1915(大正4)年には、構造を双葉式跳開橋と決定。ただし架橋位置は現在より150mほど上流に計画されていた。その後、1919(大正8)年に晴海通りを延伸した現在地を架橋位置と定めた。これは、周辺で地質調査を行った結果、現在地の地盤が、周辺に比べて著しく良かったためと考えられる。隣接する下流の「築地大橋」や上流の「佃大橋」では支持層は約30mと深く、ケーソンで橋体を支えているのに対し、「勝鬨橋」は直接基礎であり、隅田川下流付近では地盤の良さが際立っている。
関東大震災の復興では、東銀座~月島間の晴海通りが復興計画に明記され建設されたものの、「勝鬨橋」の建設は見送られた。このように、建設までに時間を要したのは、東京市最大の橋梁で、しかも可動橋であるため、建設費が膨大であったからである。
昭和になると、震災復興により月島には工場が林立するようになり、月島への交通需要はいっそう高まった。当時、築地と月島間には、勝鬨の渡し、月島の渡し、佃の渡しの3つの渡しがあり、利用者は年間で1,300万人(1930/昭和5年)にも上った。また月島の沖に晴海、豊洲の埋め立て地が造成され、これら地域の開発のためにアクセスの改善が求められた。晴海では東京市役所移転が予定され、晴海、豊洲を会場として万国博覧会も計画されるなど、架橋機運は一気に盛り上がりを見せた。
岡部三郎
勝鬨橋の事業化の任を負ったのが、東京市橋梁課長の岡部三郎(❻)であった。岡部は、1916(大正5)年に東京帝国大学土木工学科を首席で卒業して内務省に入り、新潟県の信濃川分水路工事などに従事した河川のエキスパートであったが、信濃川ダム決壊の責任をとって内務省を退官。その後、東京市の安芸土木局長から誘われ、1927(昭和2)年に東京市橋梁課長に就任した。歴代の橋梁課長で唯一の内務省出身者であった。「勝鬨橋」の工事係長で、戦後東京都水道局長になった徳善義光は、岡部を迎えた橋梁課の様子を後年以下のように述べている。「橋梁課は市の中でも花形的な部署で、震災復興事業に追われていた大繁忙期でありました。私どもは、新任の大物課長に対する期待感とともに、反面、河川の技師に橋梁ができるのかという心配も多少あった」。国から乗り込んできた課長を迎える雰囲気は、決して好意的でなかったことが伺える。
しかし岡部は、秋葉原の「万世橋」や「両国橋」の架け替えなど、滞っていた困難案件を、斬新なアイデアを出すことで迅速に解決し、橋梁課職員の人心を掌握していった。震災復興後期ということもあり、在任中に180橋もの完成をみた。そして、東京市の橋梁にとって、長年の懸案であった「勝鬨橋」の建設について、市議会の議員を説得して回るなどし、ついに設計予算を獲得した。
ところが岡部は、「勝鬨橋」の基本設計を行い、市議会に建設予算を上程し通した直後の1929(昭和4)年12月に東京市を突然退職した。震災復興もあらかた終了し、長年の懸案であった「勝鬨橋」の計画案を作成し事業化を果たし、外様である自らの仕事はやり終えたと考えたのかもしれない。就任時とは違い、多くのプロパー職員から惜しまれての退職であった。
岡部が残した「勝鬨橋」の計画案
現在、「勝鬨橋」については、現橋の図面(❸)以外に4枚の計画案が東京都に残されている。うち2枚は、図面の作成日から岡部在職時に書かれたものと推察される。(1)計画図第一案
岡部が辞任した直後、❼のようなパースが新聞や土木雑誌などに掲載された。これは計画第一案と記された図❽をもとに描かれたものである。複数のメディアに掲載されていることや右下の決済欄(❾)に、他案の図面にはない課長である岡部の朱印が押されていることなどから、この案がプレス発表案=市の当初決定案だったと推察される。跳開式可動橋であることを除けば、現在の「勝鬨橋」とは構造も意匠も大きく異なる。この案の特徴を以下に列挙する。
①橋脚上に2本ずつ塔を配し、橋脚間には川底トンネルを、橋脚内にはエレベータを設置し、これらを経由することで開橋時にも交通は遮断されず行き来できた。エレベータやトンネルは、人や自転車に加え小型自動車も利用可能。
②橋脚上の2本の塔はゴシック様式、親柱も巨大など、いずれも装飾性豊かで、ロンドンのタワーブリッジを連想させるデザイン。
③側径間は中路式のソリットリブアーチ橋のため大きな水平力が働く。中央方向に働く水平力は橋脚とトンネルと一体化させることで相殺。橋台は水平力を処理するために、大きな重力式橋台を採用。
④中央径間長は36.118mと現在の44.0mより狭い。中央径間の橋梁形式は、現在は下路式鈑桁橋であるが、当案は上路式トラス橋。
(2)計画図第二案
図面❿には、作成日が昭和4(1929)年10月(⓫)と記載されており、これから岡部が在職時に作成したことが分かる。
橋脚間の川底トンネルやエレベータ、側径間や主径間の橋梁形式、橋台などの構造は、計画図第一案と同じであるが、ゴシック調の塔や親柱はなくなり装飾性に乏しい。
しかし、これらの2案は最終的に採用されることはなかった。この後、現在の構造に至った経緯については次回で述べる。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)
カテゴリー:歴史と文化 / 都市 / まちなみ / 保存、海外情報
タグ:東京の橋