特別講演「江戸城天守再建」
研修委員会|令和5(2023)年1月30日@明治記念館
鷹取 奨(東京都建築士事務所協会研修委員会・南部支部、鷹取1級建築士事務所)
 広島大学名誉教授、NPO法人江戸城天守を再建する会特別顧問の三浦正幸先生をお迎えし、賀詞交歓会に先立って特別講演「江戸城天守再建」が明治記念館にて開催された。
 三浦先生の著書を拝読したことがあり、その膨大な情報量に圧倒されていたので、今回記事を担当するにあたりちょっと肩に力が入っていた。ところが実際に講演が始まってみると、ユーモアを交えた明快で簡潔なお話に、90分の講演時間があっという間に過ぎてしまった。
 徳川家康(1543–1616)が築いた江戸城天守(ちなみに太田道灌は天守を築いてはいない)は当然のことながら諸藩のそれを圧倒する規模のものだ。それをオリジナルに忠実に木造で再建するというのは、壮大なロマンを感じるが実現の可能性はどんなものかな? と正直思っていた。しかしながら講演を拝聴した後には、ぜひとも実現してもらいたい、しなければならないとの思いを強く抱くようになった。
講演する三浦正幸広島大学名誉教授
江戸城天守再建の意義
 講演でも触れられていたが、世界の名だたる都市には壮大な歴史的建造物が存在し、都市の、ひいては国のシンボルとなっている。ロンドンのビッグベンしかり、パリの凱旋門、ニューヨークの自由の女神しかり。ところが東京はどうだろう? 東京タワー? スカイツリー? 技術の粋を集めたそれらも東京を象徴するものだろうが「歴史的」建造物ではない。雷門ですらコンクリート造だ。
 江戸城天守閣を木造で再現する、そのことは欧米の石の文化に対するわが国の木の文化と卓越した木材加工技術を象徴するものとなるだろう。東京観光パンフレットの表紙を飾り、東京の、ひいては日本のイメージを強く印象付けてくれることだろう。
3度建てられた江戸城天守
 江戸城は2度建て直されている。初代の天守(慶長12/1607年)は家康によって、二代目天守(元和8/1622年)は二代将軍秀忠によって、三代目天守(寛永15/1638年)は三代将軍家光によって。そしてそれぞれ建て直しまでの期間は極端に短いものだった。
 その理由として、家康と秀忠、秀忠と家光の不仲説があるそうだが、三浦先生は「それは嘘です」ときっぱり。何と当初、不仲説を唱えたのは先生ご自身だったそうで「説を流した本人が違うと言っているのですから間違いありません」とのこと。
 初代天守は本丸の真ん中付近に建てられたが、参勤交代制度が敷かれて本丸に広い御殿が必要になったことで、二代目天守は北西角に再建された。しかし、堀を埋め立てて石垣を築いたため不同沈下してしまい、倒壊の危険が生じたから再度建て替えられた、というのが真相だそうだ。
 そして、各々の再建は、石垣(天守台)を除けばなんと3カ月半ほどの短い工期で成し遂げられた。そのことから先代の天守を解体し組み直したということがわかるという。実際、初代と二代目はまったく同じで、三代目も、4階の屋根が千鳥破風付きから唐破風付に改められ、屋根と外壁の仕上げが変更されたこと以外、平面サイズ、高さともにまったく同一なので間違いないそうだ。
史上最大の木造建築
 江戸城天守は1階平面が38.4m×34.2m。高さは石垣下端から58.63m。本体だけでも43.63m。城郭史上最大の高さと体積を誇る巨大建築物だ。ちなみに姫路城の本体高さは31.5mだから、いかに巨大だったか想像できる。こんな巨大な天守閣が東京の真ん中に聳え立ったら、と考えただけでワクワクするのは私だけではないだろう。しかもそれを木造で、となれば、日本の木造建築の優秀さや発想力、そしてそれを実現可能なものとする確かな技術力を世界に知らしめるのに充分なものになるのではないだろうか。
江戸城寛永度天守復原正面図
合理的な構造、美的感覚、そして職人技
 江戸城は7尺間を基準に計画されている。5層にわたってその原則を貫くことで、上階に行くにつれて徐々に小さくなる5層の建築物の柱の位置を揃え、無理・無駄のない構造としている。また四隅だけは7尺間の原則を崩して3.6尺間に柱を配している。ラーメン構造の建物では四隅の柱に大きな引き抜き力がかかることはご存じだろう、構造的にも非常に合理的なのだ。
 また、上階に行くにつれて階高が小さく、屋根勾配が大きくなり、軒の出も小さくなって行く。パースペクティブ効果を経験的に知っていたのだろうか。その美意識が光る。
 そしてなんと、これほどの大規模建築にかかわらず、図面は平面図と、立・断面図を兼ねる建地割図、そして木材リストだけなのだ。つまり構造計画やディテールは職人の頭の中にあるからそれだけあれば大丈夫、というわけだ。
 明治のころ、日本を訪れた欧米人は農民ですら文字を読めることに驚愕したというが、名もない職人ですらそれぞれの職能に関する高い知識を持っていたことを覗わせ、長い年月をかけて代々培われてきた日本人の勤勉さ、職業意識の高さを改めて実感させられる。
再建されなかった天守
 江戸城天守は明暦の大火(明暦3/1657年)で焼失し、その後再建されることはなかった。
 天下泰平の世になって必要性が薄れたことに加え、大火で疲弊した江戸の町の復興を第一に考え、大量の木材や人工を天守に注ぎ込むことで木材価格や人件費が高騰することを恐れたから、だそうである。
 英断であったことは間違いないだろうが、江戸~東京のシンボルが失われたまま、今日まできてしまったこともまた確かだ。
江戸城天守再び!
 江戸城天守再建は文化的に意義があると冒頭に述べたが、その意義はそれだけに留まらない。
 オリジナルの天守には12寸角の柱が多用されているが、これは伐採適齢期を過ぎてしまって放置されている人工林のヒノキ材で賄える。13本あった特大の17寸角の通し柱は、4寸角の木材を9本貼り合わせた接ぎ柱(集成材)で代替できる。
 安価な外材の輸入に頼るようになり、日本の林業は衰退し森林は荒廃している。そしてそれは自然災害の増大や花粉症の蔓延にも繋がっている。今般、輸入木材の価格が高騰したことによって日本はウッドショックに見舞われたが、国内の林業を蔑ろにしてきた報いであるようにも思える。
 また、人工林を適切に伐採して新たに植林することで、苗木はCO2の吸収源となり脱炭素にも貢献する。これからはむしろ日本の木材を輸出するくらいになってしかるべきで、そのことに江戸城天守は格好の広告塔にもなりえる。
 東京の新たなシンボルとなり、日本伝統の木造建築技術を世界に知らしめ、国内の産業を再興し、環境や経済にも貢献できる。良いことづくめではないか。
 三浦先生の講演を拝聴するにつけ、江戸城天守再建を願って止まなくなった。
三浦正幸(みうら・まさゆき)
広島大学名誉教授
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」、「青天を衝け」、「鎌倉殿の13人」、「どうする家康」建築考証
日本伝統建築技術保存会(ユネスコ無形文化遺産登録団体)特別会員
NPO法人江戸城天守を再建する会特別顧問
文化財石垣保存技術協議会評議員
日本城郭協会評議員

1954年 名古屋市生まれ/1977年 東京大学工学部建築学科卒業/広島大学工学部助手・助教授を経て、1999年に広島大学文学部教授/2018年 広島大学大学院文学研究科教授を定年退職/工学博士、一級建築士
専門は日本建築史・城郭史・文化財学。神社・寺院・城郭・茶室・民家の歴史や構造・意匠などを文科・理科の両分野から研究。多くの城郭のほか、備後国府跡、等妙寺跡、原爆ドームなどの国史跡の整備委員等を歴任。
復元設計:史跡吉川元春館跡台所、史跡万徳院跡風呂屋、史跡河後森城馬屋、史跡岡山城本丸供腰掛、史跡諏訪原城北馬出門、岡崎城東櫓、浜松城天守門、高根城城門および井楼、西尾城二の丸丑寅櫓、饒津神社唐門および両部鳥居(広島市)
著書:『天守 芸術建築の本質と歴史』(吉川弘文館)、『図説近世城郭の作事 天守編』(原書房)、『図説近世城郭の作事 櫓・城門編』(原書房)、『城のつくり方図典』(小学館)、『城の鑑賞基礎知識』(至文堂)、『神社の本殿』(吉川弘文館)、『平清盛と宮島』(南々社)ほか多数
鷹取 奨(たかとり・すすむ)
東京都建築士事務所協会南部支部副支部長、鷹取1級建築士事務所
1958生まれ/芝浦工業大学建築学科卒/鷹取一級建築士事務所、東京都建築士事務所協会南部支部
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