Kure散歩|東京の橋めぐり 第2回
日本橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
1. 右岸上流側から写した日本橋全景(2017年撮影)。構造は石造アーチ橋。橋長49.1m。
2. 日本橋の右岸下流側橋台に設置された事業関係者プレート(2017年撮影)。右から4行目に米元晋一、10行目の妻木頼黄の名が見える。
3. 米元晋一(1878~1964)
日本橋の設計者
 建築では、あの建物は〇〇さんの設計、この建物は△△さんの設計など、設計者の名前が前面に出てくる。しかし橋では、レインボーブリッジやベイブリッジのようなメジャーな橋でも設計者の名前は? だ。
 関東大震災の復興では、短期間に多くの橋を架けるため、桁、橋台、基礎などのパーツに分け、複数人で設計が行われた。このため、設計者を特定させることなく、他方責任の所在は明確にするため、「復興局」と事業者を記したプレートを橋に付けることを決めた。これ以降現在まで、事業者を記した「橋銘板」を設置するというルールが続いている。
 ところが震災前には、東京市内の主だった橋には、設計者の名前を記したプレートが付けられていた。その名残を、唯一見ることができるのが日本橋(1)である。銀座側の橋台の側面に取り付けられたプレート(2)には、設計者「米元晋一」、橋上装飾「妻木頼黄」、橋名揮毫者「徳川慶喜」、技師長「日下部辨二郎」、橋梁課長「樺島正義」……など、橋の建設に関わった人びとの名が刻まれている。
 ここに記された米元晋一(3)は東京市橋梁課の技師で、アーチ橋の構造設計を担当。妻木頼黄は言わずと知れた明治の官庁建築の雄で、横浜の赤レンガ倉庫や旧横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)などを設計し、日本橋では高欄や照明などのデザインを担った。日本橋以前は、高欄などのデザインは市中の鋳物師などに任せていたため建築家の出番はなく、日本橋が土木技術者と建築家が協働してつくり上げた初めての橋となった。このスタイルは、大正期やその後の震災復興の橋にも引き継がれた。
4. 親柱に鎮座する獅子像(2017年撮影)。抱えるのは東京市の市章。対の獅子は口を閉じ、「阿吽」を成す。
5. 橋中央に置かれた麒麟像(2017年撮影)。翼に見えるのは背びれ。対の麒麟は口を閉じ、「阿吽」を成す。
日本橋のデザイン
 妻木は日本橋のデザインについて、以下を3点のコンセプトとして挙げた。①橋本体との調和。②帝都橋梁の「重鎮」としての美観と威厳を持ち、かつ道路元標(全国道路の起点)を表現。③日本的な典雅なデザイン。
 個々のデザインを見てみたい。橋を彩る彫刻は東京美術学校助教授の津田信夫や彫刻家の渡辺長男が担当した。入口には東京市を守るという意味から百獣の王「獅子」を据えた(4)。この獅子は、奈良の手向山八幡宮や薬師寺の狛犬がモデルになった。
 橋中央に鎮座するのは「麒麟」である(5)。麒麟は中国神話の伝説上の動物で、泰平の世に現れる「獣類の長」とされ、この像は東京の繁栄を祝福する意味があるとされた。日本橋の麒麟と聞き、東野圭吾のベストセラー推理小説『麒麟の翼』を想い浮かべる方も多いと思う。日本橋を巡る殺人事件で、映画化もされヒットした。ところが、ビールで有名なあの麒麟もしかり、翼がある麒麟って他に見たことがない?!
 像をデザインした津田の言を借りれば、翼ではなく「背びれ」だという。日本橋は、江戸時代は五街道の起点で、近代でも日本全国の道路の原点。そのため、「旅立つ」というイメージを強く打ち出し、背びれをあたかも翼の如く誇張しデザインしたのだ。
 また、獅子の背後や2体の麒麟が背中合わせに挟む橋灯に刻まれた植物は「榎」と「松」、これは江戸時代に一里塚によく植えられた樹木であった。
 橋全体のデザインはルネッサンス様式といわれているが、橋上の彫刻を見ると、このように和風のテイストを色濃く取り入れている。妻木が意図したように、道路元標をイメージさせ、日本的な典雅な美観と威厳を持ったデザインが色濃く反映されている。
6. 大連の日本橋(現在名:勝利橋)の絵葉書。メダリオンなど豪華な装飾に驚かされる。日本の威信をかけ、最新技術とデザインを駆使し建設された。
7. 吉田橋絵葉書。現在の関内駅前に架橋された(下は大岡川)。完成当時、国内最長の鉄筋コンクリートアーチ橋であった。
日本橋の構造
 日本橋の構造は石造アーチ橋である。開通は明治44(1911)年4月3日。すでに東京市内には多くの鉄橋が架けられ、コンクリート橋も登場。そんな中、日本橋は石造アーチ橋として、市内で最後の架橋事例となった。
 東京を代表する橋を、なぜ時代遅れともいえる構造で設計したのだろうか。設計者の米元は、『土木学会誌』(昭和39/1964年11月号)に寄稿した「日本橋の思い出」という随筆の中でその理由を記している。「あの時私は鉄筋コンクリートでやってはどうですかと言ったら中島先生に叱られまして、もし失敗したらどうするか、石橋でやれと言われたのでした」。
 鉄筋コンクリート橋は、日本に入ってきてまだ日が浅かったものの、海を隔てた満州の大連では、橋長97mという世界的規模の鉄筋コンクリートアーチ橋の日本橋の建設(明治42/1909年完成、6)が、日本人の手(鉄道院技師 太田圓三設計)で進められ、国内でも横浜の吉田橋(橋長39.7m 石橋絢彦設計、7)が、明治44(1911)年に鉄筋コンクリートアーチ橋で完成している。これらの動向は、米元の耳にも当然届いていたはずである。
 米元が述べた「中島先生」とは、東京市の技術系のトップの技師長に就いていた中島鋭二である。中島は東京帝国大学教授も兼任しており、米元にとって単なる職場の上司というだけではなく、大学時代の恩師でもあった。若き米元が、新しい構造にチャレンジしたかったという気持ちは痛いほどわかる。しかし、土木界の重鎮で恩師でもある中島の言葉には逆らえなかったのであろう。これもまた理解できる。
 石造アーチ橋は、アーチスパンドレルに壁石を積み上げ、内部には通常は砕石を詰めるが、日本橋は橋脚付近にはコンクリートを、それ以外には煉瓦を充填している。いうなれば、石と煉瓦、コンクリ―トのハイブリッド型のアーチ橋。当然、砕石を詰めた石造アーチ橋に比べ、よりマッシブな構造である。耐震性も高く、また本郷台地から延びる江戸前島の尾根筋に架橋され地盤が良いため、地盤沈下による橋体の変形の心配もない。さらに、鉄筋を使用していないため、中性化や塩害とも無縁だ。
 すでに吉田橋は老朽化で架け替えられ、大連の日本橋も美しかった表面の装飾がはげて落ち劣化の進行が見てとれる。結果的に、石造アーチ橋を選択したことは、大正解だったのではないだろうか。
8. 日本橋。明治44(1911)年4月3日の開橋を記念した絵葉書。
9. 関東大震災(大正12/1923年)前、大正期の日本橋の絵葉書。京橋方向を見ている。
日本橋リボーン
 戦後、日本橋の上空には首都高が架けられた。前述した「日本橋の思い出」は、その首都高の工事が進む最中に書かれた。米元は文の最後をこう結んでいる。
 「日本橋は上を高速道路が通って非常に窮屈なようです。築造したものにとっては非常に遺憾であります。が、急速に進歩する現代だから止む得ないことと諦めている。しかしオリンピックがすんで、もし何かの機会があれば何とかもっと高速道路を高くするとか、その他の美術家にも見ていただいて、もっと引き立つようにして頂きたいと思っております」。
 半世紀を経てこの米元の願いが届いたのか、首都高の地下化プロジェクトが動き出した。あと15年で、青空の下で輝く日本橋が復活する。その姿を見るのが今から待ち遠しい。(8、9)
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞