Kure散歩|東京の橋めぐり 第1回
聖橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
 東京は古くから川や運河に囲まれ、水の都と言われてきました。川が多いということは、必然橋も多いということ。戦後、戦災の復興や首都高建設により川が埋め立てられて数を減したものの、今でも東京都全域で約7,000橋を数えます。しかも、長年東京が橋の建設で全国を先導してきたため、技術的にもデザイン的にも魅力的な橋に溢れています。今月から、橋オタクのKureちゃんが、東京で渡ってほしいオススメの橋をご紹介します。
写真1 神田川に架かる聖橋を東より見る。手前に東京メトロ丸ノ内線。奥はJR御茶ノ水駅に停車中の中央快速。(2018年撮影)
東京で最も多くの人に見られている橋
 今年、令和5(2023)年は、関東大震災が発災してから100年目にあたる。「永代橋」や「清洲橋」など隅田川に架かる橋は言うに及ばず、日本橋川や神田川、江東内部河川に架かる橋の多くも震災の復興で架橋された。この時に架けられた橋の数は425橋にも上り、現在でも100橋ほどが現存している。この中で私が最も好きな橋が、神田川に架かるお茶の水の「聖橋」(写真1)である。
 東京でこの橋ほど、日々多くの人に見られている橋はないだろう。御茶ノ水駅のすぐ脇に架かるため、JR中央線に乗っていれば否応なしに姿が目に入る。橋は渡るもの。よほどの橋好きでなければ、横や下から見る機会はないと思う。しかし聖橋は、電車に乗ってさえいれば、横と下からいずれもアップで観察できる。東京メトロ丸ノ内線では、淡路町駅と御茶ノ水駅の間で車内が急に明るくなり、「なんで地下鉄が地上を走るのだ」と思った瞬間、車窓一杯に雄大なアーチが映し出される。地下鉄に乗っていて突然に橋が現れるインパクトは半端じゃない。多くの人が、東京を代表する景観として、聖橋が架かる神田川の風景を挙げることも納得できる。
写真2 山田 守(1894–1966)
写真3 成瀬 勝武(1896–1976)
建築と土木の協働作業
 「聖橋 設計者」とWebで検索すると、「山田守」という名前が複数のサイトでヒットする。山田守(1894–1966、写真2)といえば、あえて説明するまでもなく、「日本武道館」(1964年)や「京都タワー」(1964年)を設計した建築界の巨星である。しかし、これらのWebサイトは必ずしも正解とはいえない。山田は聖橋のデザインを担当し、構造設計は土木技術者の成瀬勝武(1896–1976、写真3)が担った。
 この当時山田は、逓信省から内務省復興局土木部橋梁課へ異動し、復興橋梁のデザインを担当。成瀬は橋梁課に席を置く土木技術者で、後に復興局橋梁課長を経て、日本大学土木工学科教授に就き、戦後まで永きにわたって日本の橋梁技術のリーダーのひとりとなった。
 ところで震災復興の橋梁の設計では、建築家と土木技術者は、それぞれどのような役割を演じたのだろうか。これについて、復興局土木部長の太田圓三(1881–1926)は、土木雑誌に寄稿した「復興局橋梁設計に就て」の中で、橋のデザインについての概念や、建築家と土木技術者の役割分担などについて以下のように述べている。

 ドイツのある大家が言った「目的にあった構造は必ずしも美しい」と言うには、無論これは美の全部を説明しているのではないのであるが、充分一つの真理をもっているのである。橋梁の様な力学的構造では、これは重要な要素であって、力学的の美しさが橋梁の美しさの過半を占めると言っても決して過言はあるまいと思う。
 余分な装飾は大抵失敗に終わり構造を醜化せしめる。この構造主義は動ともすると誤解されてアメリカ風な不細工な状態に陥りやすいのであるが、あれなどは没趣味の極端であって以って非なるものである。
 浮華軽薄な流行的装飾や不愉快な意匠や退嬰的な悪趣味を棄てて、そのデザインには、もっと本道的な力ある心をその主題にしたい。普通通用される常套句を借りてみれば、『意匠、それは建築家に頼まねばいけない』私はあながちにこの言葉を非難しようとは考えない。
 生来あまり絵心などを持ち合わせていない所の、我々土木技術者に向かって意匠まで完成しろと言った所で、それは全く無理な注文であるに違いない。そこで、仕方がないから意匠はひと先建築家の手許に送付され、そして完成するということになる。
 多くの場合、その完成したものを見るのに、構造は構造として申し分なく、又意匠は意匠として申し分なく立派である場合にもそこに何所かまだ物足りない感じや不愉快な印象を与える。竹に木をついだ様に、銘々は完成していても、二つの間に関係が無くて融合を欠いている。そこで、両者の存在は心を共にする事の必要が起こってくる。だから、さっきの言葉は訂正しなければならない。
 意匠それを、我々は建築家と協力してまとめよう。つまり、構造を設計する時から既にそれの眼に映ずる効果を考慮すると共に、意匠の方に携わる建築家は、橋梁を普通一般の建築から分離して、之を一つの力学的構造物として取り扱い、よく之に慣れて、しかる後、手法を講ずるべきであると思う。
(太田圓三「復興局橋梁設計に就て」『道路』4巻7号、1925年7月)

 これを要約すれば、以下のようになる。①橋の美しさは構造美にこそある。(橋上だけの)軽薄な装飾は捨てるべき。②橋のデザインは建築家に任せるが、構造は土木技術者、デザインは建築家と機械的分業では、構造物の統一性に欠ける。これを避けるためには、両者協働してデザイン・設計にあたるべき。③土木技術者はデザインも考慮して構造設計を行い、建築家も橋梁の力学特性を理解すべき。
 明治末頃から、日本での橋梁の設計は、構造設計は土木、高欄や照明、親柱などのデザインは建築というように、分業で行われていた。しかし太田の眼には、成果品には一体感がなく「竹に木をついだ様」に映っていた。橋の美は、橋上の付属物のデザインに負うものではなく、フォルムにこそあると考える太田(私も同感だが)にとって、たとえばアーチ橋であれば、設計のスタートラインであるアーチの曲線の設定から、建築・土木両者で相談し、互いに理解しながら進めるべきと考えたのだろう。
 後年、成瀬は土木雑誌で、「聖橋のスタイルでは、建築家の山田守氏に教わることが少なくはなかったが、私自身の個性も出ている。第一に高欄端に巨大な親柱を立てる旧習を廃し、装飾的なアクセッサリィを省いた」(成瀬勝武「土木技術家の回想」(その4)『土木技術』25巻4号、1970年4月)と記している。聖橋の設計者といえば、建築のビッグネームの「山田守」と世間で言われていたことが、成瀬にとっては忸怩たる思いがあったのかも知れないが、この記事からも、太田が示唆したように、建築家と土木技術者が意見を出し合い協働して、設計を行ったであろうことが十二分に察しられる。ゆえに、あのように素晴らしい橋を建設できたのだろう。
写真4 大正3(1914)年に外濠に架橋された鍛冶橋。東京で初めての鉄筋コンクリートアーチ橋だった。奥に東京駅丸の内駅舎が見えている。
コンクリートアーチ橋の概念を一変させた橋
 聖橋建設の前後で、わが国の鉄筋コンクリートアーチ橋の姿は一変する。国内で初めての鉄筋コンクリートアーチ橋は、明治36(1903)年に長崎市の本河内ダムに架橋された「本河内ダム管理橋」。東京では、大正3(1914)年に外濠に架橋された、アーチ支間長21.8mの「鍛冶橋」(写真4)が鉄筋コンクリートアーチ橋の嚆矢であった。鍛冶橋はアーチスパンドレルの両側面に鉄筋コンクリート製の壁を立ち上げ、中に砕石を詰めた充腹式アーチ構造で、壁の外側には花崗岩の切り石が貼られ石造アーチ橋を思わせる佇まいであった。
 この橋を設計した東京市橋梁課長の樺島正義によれば、「コンクリート色は安っぽい」ため、両側面に石を貼り重厚感を演出したという。これは、この時代の土木技術者たちに共通した感覚だったようで、充腹構造+模擬石橋という流れは、震災復興でも日本橋川の「常盤橋」、「堀留橋」や神田川の「万世橋」などに用いられ、概ね大正時代を通して続いた。
 ところが聖橋では、充腹式アーチ構造ではなく、アーチリングの上に支柱(鉛直材)を立ち上げ、その上に桁を渡した開腹式アーチ構造を採用した。これにより中詰めの砕石が不要となり、死荷重が大幅に軽減されたことで、それまで20~30m程度であった支間長は大幅に伸長された。そして戦前には、支間長70mを超えるビックサイズのアーチ橋も架設されるに至った。
 また側面には切り石を貼らずに、コンクリートの肌(化粧モルタル塗り)のままとした。石橋に模することを、山田も成瀬も良しとしなかったのであろう。これもこれ以後、日本の鉄筋コンクリートアーチ橋で標準となった。
 柔らかくゆったりとした重厚感溢れるアーチ。しかし開腹構造としてスパンドレルを抜いたことで、見る角度によっては軽快さも感じさせる。「これぞ鉄筋コンクリートアーチ橋」という構造美を前面に押し出したフォルムと、模することないディティール。この橋を見た若い土木技術者たちが、大きな衝撃を受けたであろうことは想像に難くない。震災復興を境に、新しい技術、そして新しい時代が到来したことを告げるには十分なインパクトがあった。
写真5 聖橋のアーチリング上の小アーチ内部は四角い断面。
写真6 外堀通りより聖橋を見る。アーチ橋の両端に桁橋が架けられている。(2021年撮影)
写真7 外堀通り上部の桁橋を見上げる。鋼桁であることがわかる。両側の桁の外面にコンクリートを貼り付けている。(2021年撮影)
一押しポイント
 さらに、山田ならではのスパイスも効いている。アーチスパンドレルには、小アーチが並んでいる。小アーチは先に行くほど尖がったパラボラアーチという形状。大正14(1925)年に竣工した山田の初期の代表作である「東京中央電信局」にも、パラボラアーチの窓がリズミカルに連続していた。この時代、表現主義一派の分離派という建築グループに属していた山田が、好んで用いたディティールであった。
 本郷側の外堀通りの歩道から聖橋の小アーチの内部を覗き込むと、アーチ形状は外側の一皮だけで、内部は四角い断面であることがわかる(写真5)。つまり小アーチは構造体としてではなく、デザインとして用いたのだ。スパンドレルに小アーチを配した橋は他にもあるが、パラボラアーチ型は聖橋が唯一。先が尖ったこの形状を見れば、山田守が関わったという、いわば名刺代わりのようなものだったのではないだろうか。
 聖橋は、アーチ橋を挟んで両側に、都心側ではJR中央線を、本郷側では外堀通りを跨いで、いずれも桁橋が架けられている(写真6)。この桁を側面から眺めるとコンクリート製に見えるが、下から覗き込むと桁は鋼鉄製で、両端の桁の外面だけコンクリートを貼り付けていることがわかる(写真7)。成瀬はこの理由について、横から見た際に鉄とコンクリートが混在するのを避け「純の美」を求めたためと記している。レール面や道路面からのクリアランスを確保するには、桁高を薄くできる鋼桁を採用せざるを得なかったが、そうすると材質の違いから外観に煩雑さが生じる。それを回避するために、桁の外面だけコンクリートを貼ることで、聖橋全体がコンクリート橋に見えるよう図ったのである。
 このような対策を施した橋は、国内には他に例がない。ここまで美しさを追求したのも、建築家と土木技術者が協働し、互いの感性を刺激し合った故であろう。
図1 聖橋配筋図 鉄骨(形鋼)が使用されているのがわかる。
写真8 平成初めの修景事業では石橋風の模様がつくられていた。(2010年撮影)
写真9 令和の補修事業で石橋風の模様は撤去。建設時の姿が蘇った。(2018年撮影)
写真10 復元された橋灯。(2022年撮影)
聖橋永遠たれ
 聖橋を管理する東京都では、平成27(2015)から令和2(2020)年にかけて、橋の延命化を図る「長寿命化工事」を実施し、私もこのプロジェクトに参加した。工事では、コンクリートのクラックや中性化などをチェックし、その対策を行うと共に、最新の設計基準により耐震性能のチェックも行った。その際、都に残されている竣工原図(図1)から驚くべきことが判明した。
 聖橋の内部には鉄筋ではなく、山形鋼などの形鋼が使用されていたのである。この形鋼の効果は絶大だった。阪神淡路大震災並みの地震に襲われても、大きな損傷を生じない「橋梁の耐震性能レベル2」を、補強なしにクリアできたのである。100年前の設計にも関わらず!
 しかし、なぜ高価な形鋼が使用されたのであろうか? このことについても、後年成瀬が記していた。震災復興の1~2年度は、調査や設計が主業務で執行が上がらず、予算を大幅に余らすことが想定された。そこでいわゆる予算消化のため、いずれ工事に使用する鉄を買い入れることになったが、鉄筋は放置すると腐食して使用できなくなるため、多少放置しても、厚いために腐食の影響が少ない形鋼を購入したのである。このため聖橋に限らず、復興局が施行したほとんどの橋で、いわゆるSRCの橋が誕生した。
 この長寿命化工事に合わせ、失われていた建設時の意匠の復元も行った。平成の初め頃、聖橋では修景事業が行われ、その際にアーチリングと支柱に、花崗岩を砕いた化粧モルタルを吹き付け、石造アーチ橋を模した模様が付けられた(写真8)。まるで山田や成瀬の想いが、ないがしろにされたような行為であった。これらを今回撤去。クラックの修復後に表面にコンクリート色に近い樹脂モルタルを塗布し、概ね創建時の姿を蘇らせた(写真9)。
 また戦後永らく失われていた橋灯も復元。ただし材質はアルミ、ライトはLEDというように、メンテナンスを考慮して現代風の仕様とした(写真10)。コンクリートの中性化も進展しておらず、今回の工事を終え、少なくても今後100年の延命は図れたと思う。
 戦後、東京には多くの橋が架けられたが、技術やデザインいずれの面でも、震災復興で架けられた橋を越えた橋はなかったと思う。戦後は、建築、土木の分業が進んで両者が協働で橋をつくり上げる機会はほぼ皆無になった。現在、橋梁行政の主軸は、橋を補修することで延命する「長寿命化」にシフトしている。これにより新たに架けられる橋の数は激減した。こんな状況であるからこそ、数少ない新設される橋では、橋の魅力を失わないためにも、より高いクオリティを示していかなければならないと思う。今こそ、震災復興がそうであったように、建築と土木が再びタッグを組んで、協働して建設すべき時ではないだろうか。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞