VOICE
関 和典(東京都建築士事務所協会賛助会員会情報委員、株式会社ゼットアールシー・ジャパン 代表取締役社長)
ようやく高い青空に金木犀が香る気持ちの良い季節になりましたね。私は、昨年のこの季節に家内の母、そして今年自分の母と、ふたりの母を相次いで亡くしました。
 家内の母は昨年の10月に亡くなり、今号が発行されるころには1周忌の法要が終わっていると思います。約3年前の検診で肺にがんが見つかり、手術も放射線治療もできない場所ということで、抗がん剤治療をはじめました。しかし、副作用に耐え切れず、がんとの共生を選択しました。いわゆる「緩和ケア」というもので、「基本は自宅で痛み止めだけを服用し、ひどい時は病院に行く」というものです。「次の桜は見れるかしら?」と言いながらその後2度の桜を楽しみ、昨年のこの季節に、この世に別れを告げました。86歳でした。
 まだ自分でトイレに行ける状態の時に、家内がサポートしてあげたら、お母さんが抱きついてきて、抱き合いながらただただふたりで泣いたそうです。お母さんは、ノートの1ページにお父さんと家内を含む子供たちひとりひとりに短い言葉を残し、自分の宝石をまとめて娘たちに残していました。自分の最後を自覚しながらその日を待つということがどういうことなのか、私にはいまだに想像ができません。
私の母は以前から心不全という基礎疾患を抱えており、ちょっと疲れると「ハアハア」と息が荒くなり辛そうでした。医者からは「常に整備しながらなんとか低空飛行しており、いつ突然墜落してもおかしくない状態」と言われていたのですが、本人はまったく意に介さず、本当にごくごく「普通」に明るく父とふたりで暮らしていました。今年正月、それでも「ハアハア」がひどくなり父を介護施設に預けて2週間ほど入院しました。退院許可が出たものの、実家でのひとり暮らしは困難と判断し、父とは違う介護施設にお世話になりました。夕食後、「ここ(介護施設)のご飯は病院とは比べ物にならないくらいとってもおいしくて、天国にいるみたいだよ」と、とても幸せそうな声で電話がありました。しかし、次の日の早朝、母は昨日まで入院していた病院に救急搬送され、その日の午後、帰らぬ人となりました。88歳でした。直接の死因は心不全ではなく「コロナによる急性肺炎」。病院を退院する時に「陰性」、介護施設に入る時も「陰性」。そして、翌日病院に戻ってきた時には「陽性」。介護施設にも、私たち家族にも陽性者はなし。はたしてどこでコロナに感染したのか、病院の先生も首をかしげていました。
 父を含め誰とも言葉を交わせず、手を握ることさえもできない、ガラス越しでのお別れでした。本当に突然の、そしてあっという間のお別れでした。「生きているうちにありがとうと言いたかった」父がガラス越しにポツリと言ったひとことが耳に残ります。私の母は、「自分が死ぬなんてこれっぽっちも思わずに亡くなった」と、私はそう思っています。
さて、私も今年63歳、人生には限りがあるということがかなり身近に感じられるようになってきました。「自分の人生を何に使うべきか?」そう自問しながら、その一方で「何をいまさら」と冷めた自分も認めながら、今、いろいろな本を読んでいます。読書の秋ですよ。みなさん!
「人間は誰かの役に立つ生き方に専念したとき、それによって得られる報酬に関係なく、幸せを感じることができる」喜多川泰『「また、必ず会おう」と誰もが言った』(サンマーク出版)より。
関 和典(せき・かずのり)
東京都建築士事務所協会賛助会員会情報委員、株式会社ゼットアールシー・ジャパン 代表取締役社長
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