伝統建築工匠の技 第3回
金沢金箔伝統技術保存会
松村 謙一(金沢金箔伝統技術保存会会長、松村製箔所)
仕入れ(しきいれ)。
約1/1,000mmの厚さの澄(ずみ)を切り分け、箔打紙(はくうちがみ)に挟む工程。これを箔打機で打ち延ばし、約10cm角まで延ばしていく。
(写真提供:金沢金箔伝統技術保存会)
渡し仕事。
約10cm角に延ばした澄をさらに薄く延ばすため、別の箔打紙へと渡す。これを1/10,000mmまで箔打機で打ち延ばす。
抜き仕事。
1/10,000mmまで延ばされた箔を三椏紙でつくられた一時保管用冊子(広物帳/ひろものちょう)に1枚1枚挟み替える。
抜き仕事。
抜き仕事。
うつし仕事。
広物帳の箔を、枠(わく)と呼ばれる四角い竹製の刀で規定の大きさに1枚1枚裁ち、「箔合紙」と呼ばれる三椏製の台紙の上に重ね、100枚を一包として完成品とする。
完成した縁付金箔。
完成箔を台紙(箔合紙)の上に一枚一枚重ねる時に、台紙の寸法が金箔を縁どるようにひと回り大きいことから「縁付(えんづけ)」と呼ばれる。
日本の金箔
 平安時代後期に建立された平泉・中尊寺の「金色堂」(天治元/1124年上棟)はすべてが金色に輝いている。この金色堂が、13世紀のベネチアの冒険家マルコ・ポーロの記した『東方見聞録』に書かれている黄金島ジパング伝説だといわれている。
 奈良、平安時代の後、足利義満の北山文化、豊臣秀吉の桃山文化と、金箔の芸術が花が開いていった。北山文化の華である金閣寺は、日本の黄金文化の象徴といっていい。
 石川県では、文禄2(1593)年4月7日、豊臣秀吉の朝鮮侵攻に従って、前田利家が秀吉から明の講和の使節を迎えることを命じられたことから、武者揃えの槍などを飾るため金沢城を預かっていた篠原出羽守一孝らに銀箔の製造を命じ、同時に能登、七尾城を預かっていた三輪藤兵衛吉宗に金箔の製造を命じた。このことから七尾には金箔職人がいたことが知られている。
 寛文7(1667)年、徳川幕府は、金銀銅すべてを管理、統制下に置き、元禄9(1696)年、江戸に箔座を設けて管理統制を強化した。その結果、箔の製造は江戸・京都の箔屋だけにしか許可されなくなった。しかし宝永6(1709)年、箔座が廃止され、代わりに金座が設けられて、尾張徳川家、奥州伊達家、会津松平家の3家にも箔打ちが許可された。
金沢の箔打ち
 金沢の箔の歴史は、このような規制の中で、幕府に隠れて密かに箔打ち(隠し打ち)が行われ金箔の生産が続けられたという説と、幕府の規制を遵守して箔打ちは停止され、その後、再興されたというふたつの説があるが、現在、再興説が妥当であるとされている。
 金沢では、文化5(1808)年正月15日の夜、金沢城二の丸御殿から出火、御殿をはじめ御広式などすべてが焼け落ちた。二の丸御殿を修復する際、藩は安江木町の町人、箔屋伊助に金箔の調達を命じ、京都から熟達した職人を呼び寄せ、無事に必要な金箔を整えることができたと記されている。しかし、その後、職人は京都に帰ってしまい、金沢でも製造が続けられたが、品質は向上しなかった。もし金沢で密造が行われていたのなら、わざわざ京都から職人を呼び寄せる必要がなかったであろうということから、再興説が妥当だとされている。
 明治以降、金沢の金箔の歴史は不透明な部分が多い。生産額を見ると、金沢では清酒などに次いで4番目(明治27/1894年)だったようで、それなりの生産額はあったようだ。しかし日光東照宮の修復や伊勢神宮の修復の際は、まだ京都などから金箔を調達していたようで、今後このあたりの調査を進めていきたい。
 また、第2次世界大戦前の最盛期には全国で1万人以上の職人がいて、京都市内で300人、亀岡で30人、下田(旧甲賀郡甲西町、現在の滋賀県湖南市)で100人という記録が残されている。金沢では大正時代に機械化されて以降、金箔の製造が盛んに行われるようになり、金沢で金箔の製造が多くなったのはこの時代であろうと推測できる。
 昭和44(1969)年、滋賀県が県の重要無形文化財保持者に金箔職人の今越清三郎(金沢出身)を指定した際の調査報告書に、金沢市内に170軒、高岡20軒、滋賀県甲西町(下田)に20軒、会津若松に6軒、京都市内で4軒、亀岡で2軒という報告がされている。この時点で、京都での箔打ち職人が激減していることがうかがい知れる。では、なぜ京都で箔打ち職人が姿を消していったのか疑問が残る。
金沢金箔伝統技術保存会の立ち上げ
 平成21(2009)年、伝承者の養成、周辺材料の調達、歴史調査をはじめとする記録の作成を目的として、金沢金箔伝統技術保存会を立ち上げた。
戦後の最盛期には金沢で200人以上いたといわれる職人も、このときの保存会会員には、縁付金箔*1の職人が15人、澄*2職人が5人で、平均年齢は70代。伝承者は縁付職人が2人、澄職人が1人。このままでは口伝で伝えられてきた技術の継承が危ぶまれたことから、まずは職人からの聞き取り調査を開始した。
 特に紙の仕込みなど技術的なことを中心に聞き取りを行った。あとは、なぜこの仕事にかかったのか、また誰に仕事を教わったのかなどを聞き取った。
 聞き取りを行った結果、戦後の高度成長期にはかなりの職人がいて、今でいうと脱サラをしてまで金箔の職人になったという人がいたことがわかった。ただ、聞き取り調査がもう20年早ければ、明治期の頃の手打ちの時代がわかったのではないかと思われ、残念だった。

*1 縁付金箔(えんづけきんぱく)
 約400年以上の伝統がある製法で、雁皮(がんぴ)紙などを含め4種類の手漉き和紙を使い、金箔を1/10,000mmまで打ち延ばします。延ばし終えた金箔は形を整えるために、竹製の道具を用い、一枚一枚、規定の大きさに裁断します。

*2 澄(ずみ)
 金に少量の銀と銅を合金したものをローラで延ばし、澄打紙(手漉和紙)を使い約1/1,000mmまで打ち延ばしたもの。
箔打ちに必要な4種類の紙
 縁付金箔の製造に欠かすことのできないのが紙。縁付金箔を製造するのに4種類の、それも産地も材料も違う紙が使われることはあまり知られていない。
 まずは、澄打紙につかわれる西の内紙。この紙は合金された金を約1,000分の1まで打ち延ばすのに使われる紙で、ニゴと呼ばれる稲藁の芯を原材料に漉かれる。金沢の二俣地区で漉かれていたが、現在は山梨県と福井県今立で漉かれている。
 金箔を1枚ずつ挟むのに使用される箔合紙(切紙)は、三椏100%の紙で、これは岡山県津山市横野で漉かれている。
 箔を打つ際に箔打紙の保護のために上下にあてる白蓋は、楮100%の厚手の紙で、私が知る限りでは、当初は石川県の白山の麓の鳥越地区で漉かれていたようだが、今は漉かれておらず、現在は箔合紙を漉いてもらっている工房に頼んで漉いている。
 最後に箔打ちの生命線ともいえる箔打紙(下地紙)を漉いているのは、現在、兵庫県名塩の手漉き和紙職人、馬場和比古さんおひとりしかいない。
どの紙も特殊な箔打ち専用の手漉き和紙で、縁付金箔の需要の減少に伴って、どの紙も1軒ないし2軒しか残っていないのが現状で、箔打紙の確保も重要な課題となっている。
 西の内紙(澄打紙)は原材料の入手ができなくなって、一度技術が途絶えてしまったが、漉き手の職人がまだおられたので、約10年かけて技術を継承した。
 箔合紙は後継者がいるので、何とか入手が可能であるが、今後、これ以上需要が減少すると入手できなくなる恐れがある。箔打紙(下地紙)は現在、紙を漉く人がひとりしかいないので、選定保存技術に選定された時点で、最初にその確保に取り組んだ。以前、名塩で箔打紙(下地紙)を漉かれていた重要無形文化財保持者である谷野武信さんのご子息にその技術を伝承してもらうことにし、現在も試験的ではあるが漉いていただいている。
このように、箔打ちそのものの伝承者の養成も喫緊の課題であるが、箔打紙の確保も重要で、金沢金箔伝統技術保存会として、重要課題として取り組んでいる。
金箔の謎
 最近、日光東照宮の古文書から1,700年ころの金箔の仕様書が見つかり、そこから、使われた金箔が考えられない薄さだということがわかってきた。
 現在の金箔は3寸6分角(約109mm)で100枚の重さが5分から7分(1.8〜2.6g)ある。一方、その古文書から推測される金箔は、100枚で3分9厘(1.46g)程度であったと考えられる。最近、その記述を追随するかのように加賀藩前田家につかえる家臣の書いた日記からも、同じような記述があり、手打ち(ハンマーで手で打つ)でその薄い金箔が打たれていたことは、ほぼ間違いないようである。しかし、なぜ、そのような金箔を製造していたのか、どのような技術だったのかは、まったくもって謎である。
金箔はどのように使われたか
 金箔の歴史を遡っていく上で、金箔はどのように使われてきのか、言い換えればどのようなものに貼られていたのかを見ていくことが必要になってくる。
 世界を見ると古代エジプトで製造が始まったとされている。日本では7世紀後半の法隆寺四天王像、そのほかに高松塚古墳壁画が認められている。
 金箔ではないが天平18(746)年の東大寺盧舎那仏は、建立当時は全体が金色で覆われていた。これは今でも使われている方法だが、アマルガム法という方法で、盧舎那仏は水銀に金を混合してこれを塗り、加熱し水銀を飛ばして金メッキするという方法が行われた。当時、塗金の仕事をする人びとに不思議な病気流行りだしたということが書かれているが、まさに水銀中毒であった。現在もこのアマルガム法は社寺などの金属部分を金色にするのに用いられている方法だが、今は無鉛水銀を使用し水銀中毒になることはない。その水銀を銅板に塗布しそこに金箔を吸い込ませて加熱しメッキする。
 金箔の主たる使用方法は漆で貼ることで、何層にも塗られた漆に金箔を貼っていくことである。これは木材を漆で保護し、金箔で保護・加飾するという意味を持つ。
 その他、多く使われているのが膠貼りで、金屏風などが膠で貼られている。また寺院などの襖、障壁画の多くが膠である。
 金箔は非常に薄いもので、どのような接着剤でも貼ることができ、その使われ方によって表情を変える。海外でも金箔は貼られてはいるが日本のような繊細な使い分けがされているようには見受けられない。

 金箔は長い歴史の中で日本の文化の一翼を担ってきたのは事実である。現在、金箔の謎を解明すべく科学的な調査研究、歴史的な背景の研究を進めているところである。
 金沢金箔伝統技術保存会では調査研究に加えて、伝承者の養成にも本格的に取り組み、世界ユネスコ無形遺産に登録されたこの技術を絶やさないよう努めていきたいと思う。
松村 謙一(まつむら・けんいち)
金沢金箔伝統技術保存会会長、松村製箔所
1960年金沢生まれ/1978年 父 譲(ユタカ)に師事/2001年 伝統工芸士認定/2009年 金沢金箔伝統技術保存会を設立し、会長に就任
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