都市の歴史と都市構造 第1回
人類初の都市「ウルク」
河村 茂(都市建築研究会代表幹事、博士(工学))
■プロローグ
 都市は、人類が狩猟・採取から農業・牧畜生活へと移行、食糧生産が拡大し人口が増加、また余剰も出て社会集団内で職能分化・階層分化が起こり、共同体を組織したことに始まる。都市は、その後も社会経済の発展を受け、商業・交易を拡大、工業化を成し遂げ、機械文明が隆盛、交通・輸送網の充実に伴い、巨大都市圏を形成するまでになった。そして昨今では、情報・通信網の整備に伴い社会の知識・情報化が進展、経済活動のグローバル化に伴う、都市発展の行方に人びとの関心が集まっている。
 そこでここでは、都市の創生から今日の巨大都市圏形成まで、社会の中核をなす都市が、時代のニーズや社会環境の変化に応じ、どのように進化してきたのか、都市誕生から5000年ほどの間の人間社会発展の各段階において、最も輝いた都市や特徴的な都市を、世界の各地から取り上げ、その都市形成の軌跡を描くことで、将来の都市づくりに役立ちそうな知見を得ることとする。
 具体には、世界を舞台に、社会発展の各段階に応じ、都市を15前後ピックアップし、都市の創生・興隆から、成長・安定、成熟・衰退など、さまざまな動きを紹介。時代状況をふまえた、都市のつくられ方、その構造、機能等について記述する。第1回は、人類初の都市創生に向けた動きとして、メソポタミア南部シュメール地域から、ウルクを取り上げる。
図1. 人類、世界各地への展開
(酒々井町HP https://www.town.shisui.chiba.jp/docs/2018032900012/より引用)
図2. 完新世の気温の変化と主な出来事(ウィキメディア・コモンズ、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Holocene_Temperature_Variations.pngから、著者が必要な情報を取り出して作図。追加の事項を挿入)
※完新世とは、地質時代区分で最も新しい時代で、最終氷期が終わる約1万年前から現在までをいう。
図3. メソポタミア南部の主な都市の位置
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Karte_Mesopotamien.png
図4. メソポタミア南部の地勢
(中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書、2007年、p.6 より引用 https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/mesopotamia-ubaido)
写真1. ウルクの粘土板文書
(ウィキメディア・コモンズ、British Museum、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pictographs_Recording_the_Allocation_of_Beer_(London,_England).jpg
■都市誕生に向けた人類の歩み
狩猟・採取から農耕・牧畜へ
 人類は、50万年ほど前、狩猟・採取の生活を送る中、木を用い、肉や魚を焼いたり、寒さを凌ぐため暖を取った、また動物から身を護るため、火を利用した。そうして人類の暮らしの場が、極寒の地にまで広がる(図1)。そして約20~30万年前、現世人類(ホモサピエンス)が、アフリカに誕生。そして7万年ほど前に、彼らは他の種との戦いや食糧の確保など、地球上に生き残っていくため、集団として行動する必要を感じると、仲間と目標イメージを共有し、連携して対応する必要から、情報伝達(コミュニケーション)の手段として、言語能力を身に着ける。
 こうして現世人類による、陸上の大型動物を中心とした狩猟が進み、生命と食糧の確保、毛皮の獲得など、生存の基盤が確立すると、人口が増加また自然生態系も徐々に変化していく。
 その後、気候変動寒冷化により、食糧が不足すると、人びとは他の土地に食糧を求め移動する。そこで狩猟民同士、抗争となり、身の危険を感じることが度重なると、折からの地球温暖化の動きを受け(図2)、人びとは食糧確保の方法を変える。即ち、狩猟・採取から、土地生産性の高い(食糧確保という観点からすると、狩猟・採取は、農耕・牧畜に比べ100倍ほどの面積を必要とした)、農耕・牧畜への転換である。
灌漑農業へ
 ユーラシア大陸の内、土地が肥沃な地方では、大きな気候変動(寒冷化、乾燥化)を受けると、一部の人びとが南へと移動。野生の栽培種に恵まれた、山麓など草地で天水と豚・羊などを得て、土地の農牧地化を図り定住する(中東レバントや中国ではBC9000 – 8000年)。
 こうして農業が開始されても、人びとは暫くの間、狩猟・採取と農耕・牧畜とを併用する生活を続けるが、人口規模が大きくなると、他の集団との紛争を避けるため、多くの人びとは順次、湿潤な地域に移動、農耕・牧畜生活へと入っていく。しかし、狩猟採取に比し、口にする食物の種類は少なく、集住形態が進むと、病気になり幼年での死亡が増加、人口は増えても平均寿命は、狩猟採取民(約40歳)を下回り、これをなかなか取り戻すことができなかった。
食糧の確保
 BC8000 – 7000年、川の間の土地を意味する「メソポタミア」(図3、現在のイラク辺り)の山麓(図4)で、農牧業が始まる。農業社会では、土地に定住し集落を形成、家畜を飼い、その肉や乳から必要なカロリーを摂取、毛や皮は衣類、糞は肥料・燃料として活用した。しかし、農耕も天水に依存しているうちは不安定なので、BC6000 – 5000年、農業の安定化に向け水を制御すべく、チグリス・ユーフラテスといった、土壌が肥沃で交通・交易に便利な、河川沿いの沖積平野に出て、灌漑施設を整備する。また、人びとは、農業用の動力源として牛や馬の力を利用、また穀物を製粉する目的などで、次第に風力や水力など自然エネルギーの活用を始める。
 気候温暖化がさらに進むBC4500 – 4000年。食糧増産により人口が増加すると、集落では神殿を配し、その周りを住居で囲む。そして工房、倉庫、墓地などを設ける。この頃、ペルシア湾の水位が上昇、現在の海水面ほどに達する。BC3500 – 3000年にかけ、さらに温暖化が進み、高度な農耕用具も開発されると、単位面積当たりの収穫量が、現代と比較しても遜色ない状況を呈する。メソポタミア南部シュメール地域では、麦や豆類などの食糧が増産、農業生産力が増すと、さらに人口が増加していく。また食糧の余剰を貯蔵し、干ばつや水害時の食糧不足に対応するようになる。そうして交易ルートを整備、農業生産物を他所の木材、石材等の資材、手工業品等と交換することで、生活の豊かさを増していく。
 しかし、この温暖化によってペルシア湾の海水面が、さらに2mほど上昇したことに伴い、海水が川を上り灌漑施設にダメージを与えると、農耕地等が塩害被害を受ける。こうして食糧の生産手段を失った下流の民は、上流へと移動する。上流の集落では、他所者の侵入による食糧等の略奪を防ぐため、倉庫に鍵をかけたり、集落を取り囲むように、城壁を巡らせる。このように自然に起因する禍を幾度となく受け、この地ではエジプトなどよりも早く、文明の萌芽をみる。即ち、生活情報を記録して生活に役立てるべく、文字(写真1)が生み出される(BC3300年頃)。
写真2. ユーフラテス川
(ウィキメディア・コモンズ、Bertramz、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Zalabiya,Euphrat.jpg
図5. 都市ウルク白色神殿の復元図
(ウィキメディア・コモンズ、Fletcher Banister, published in 1898、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:White_Temple_%27E_at_Uruk,_3500-3000_BCE.jpg
■都市文明の創成
 BC3300 – 3100年、ユーフラテス川(写真2)左岸に位置する、ウルクでは農機具の開発が進み、食糧が増産され余剰が出たこともあり、海面上昇により土地を追われた難民を吸収、集落が大規模化する。すると農民や商人のほか、神官、土器製造や冶金また運搬輸送などを専門に担う職能が現れ、職を分担、また官僚や軍人も現れ、階層が分化する。こうした職能分化・階層分化の動きを組織化し、都市が誕生する。
都市ウルク誕生
 人類最初の都市はウルクである。この地の都市文明は、その初期、アヌ(クッラバ)とエアンナという、ふたつの聖域を有していた。その後、このふたつの集落が合体し、都市ウルクの形成へと向かう。エアンナ地区で発掘された、粘土版に記された絵文字風の、楔形文字は最古の文字とされる。BC3100年頃のウルクの人口は、約4万人。この地では権力者の役割が、祭祀の執行や紛争処理から、政治指導へと広がり、王が神の代理人となって、神権政治が行われた。また、暮らしのルールも設定され、その運用組織もでき、社会活動はより円滑に遂行されていく。この頃、都市ウルクでは、都市づくりにあたり周辺の遊牧民や難民の侵入、また水利権などで紛争状況にある近隣都市の攻撃などから、都市を防御するため、周囲10kmを城壁(幅2 – 3mほど、日干し煉瓦製)で囲んだ。この時代、軍事的防御が基本的な都市機能とされ、メソポタミアなどでは環濠城塞都市が形成された。
 都市ウルクの区域面積は約400haで、都市の中央には神殿(図5、石灰岩でつくられた)や付属倉庫(徴収した税を保管する国庫)が置かれ、その周りに学校など公共建築物が配されるとともに、これらを取り囲むように、集住形態で砂漠性気候に対応し、中庭型住居(日干し煉瓦ででき、主に2階建て)が広がり、同じ職業のものが集まって暮らした。この地には都市計画も施され、用途別に住宅地域、宗教施設地域、商業地域が設定され、排水施設(土管)を備えた道路や広場が整備された。広場には隣接して倉庫が置かれ、ここに設営された市場では、工房で製作された土器や手工業品が取引された。そして市内には全市的に運河が大きくめぐり、河川沿いの河港を介し、植民地や他都市と交易、また周辺農業地帯とも結ばれた。
 この時代は、歩行が主体で、物資はロバ等で運搬、車輪も開発され荷車もあったが、重いものや嵩の張る物は、川船で輸送した。また、城門辺りの広場には、物品交換の市が立った。そして市街周辺や少し離れた所に、火を用い土器や青銅器などを製造する工房や墓地が置かれた。
 メソポタミアの土地は肥沃であったが、鉱物資源は非常に少なく、金属や木材・石材といった基礎的な資源さえ不足した。そこで他の地域との交易が活発化、上流の森林地帯などから、生活基礎物資やエネルギー源として、木材(レバノン杉など)を得るルートが確保された。BC3100 – 2900年頃、青銅器(容器、武器、工芸品に活用)が開発されると、シュメール都市文明は、広くメソポタミア各地に伝播していく。
写真3. 都市ウルク全体模型。南メソポタミア、初期王朝時代、BC2500年頃。古代オリエント博物館
https://twitter.com/aom_tokyo/status/1235526114719592449/photo/1より引用)
写真4. 砂漠の中にたたずむ都市ウルクの遺跡
(ウィキメディア・コモンズ、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:White_Temple_ziggurat_in_Uruk.jpg
図6. メソポタミア関連の気温の変化と出来事(縦:変位 / 横:西暦年)
「永井俊哉ドットコム>3.2気候と文明の関係」挿入図https://www.nagaitoshiya.com/ja/2017/west-roman-empire-fall-climate-change/)に、著者が主な出来事を落とし作成。
図7. メソポタミアの地理
(裏辺研究所>歴史研究所>西アジア(中東)史>第3回メソポタミア初期国家の成立と興亡、http://www.uraken.net/rekishi/reki-westasia03.htmlより引用)
写真5.ウルのジッグラト(現存)
(ウィキメディア・コモンズ、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ancient_ziggurat_at_Ali_Air_Base_Iraq_2005.jpg
■シュメール都市文明の盛衰
 シュメール地域に建設された、ウルク、ウル、ラガシュなど(図3)の都市国家は、BC2900 – 2335年頃、全盛期を迎える。この時期のウルク(写真3)は、区域面積約600ha、人口約6万人を擁した。そして他のシュメール都市も含め、都市の中心には、聖塔「ジッグラト」が建設される。また、各都市に設立された学校では、文書を扱うためのスペシャリスト・書記が養成された。そして粘土板を用い、文字記録システムも編みだされる。
大洪水の発生
 そうした状況下のBC2600年頃、気候変動(図6)の変曲点を迎え、前後300~400年間位、洪水や海進などで飢饉が度々起こる。温暖化が進むBC2500年頃、山岳地帯の氷雪が融け大洪水となり(BC600年代にも大洪水が起こる)、土石とともに灌漑施設を破壊。周囲の土壌も流出し下流へと堆積していった(その旨は、ウルク王ギルガメシュを描いた叙事詩に出ており、旧約聖書・創世記「ノアの箱舟」物語へとつながる)。こうしてBC2500 – 2100年にかけ、大麦の収穫量が60%も減少する。なお、塩害に弱い小麦は、既に収穫できなくなっていた。
森林の喪失
 メソポタミアにおいて、「木」は建築材料や燃料など、生活基礎資材として大いに活用された。また、農耕地開発の進展により、森林は順次伐採されていった。さらに、牧畜において木の根や芽が、家畜の食材となったこともあり、原初の森林は姿を消してしまった。森林が存在すると、上昇気流が発生し降雨をもたらす。これを樹木が地中で涵養、吸い上げてまた上昇気流となる。土壌が失われると、植物プランクトンを育成するミネラル分も、河川へと溶け出し岩盤が露出、灌漑施設を整備した影響もあり、地下水位が上昇し岩塩が溶出、耕地に塩害をもたらす。
 こうして土地の食糧生産力が低下したところに、気候変動(寒冷化、乾燥化)により、食糧を求め遊牧民が動く。即ち、BC2330年にはアッシリア南東部からアッカド人が、またBC1600年頃には小アジアからヒッタイトが、この地に侵入してくる(図7)。さらに、これに続くBC300年頃の、アレクサンダー大王の遠征により、メソポタミアの諸都市は衰退、都市ウルクも現在、その姿のほとんどが、砂漠に埋もれてしまっている(写真4)。
領域国家の都ウル
 また、ウルクと並ぶ古代都市ウルは、BC3000年頃に成立した港町で、ペルシア湾河口近くのユーフラテス川右岸に位置、区域面積は約60ha、人口は約3万人であった。そしてBC22 – 21世紀には都市国家から発展、領域国家(ウル第三王朝)の都となる。この時代、王の責務が、「防衛、豊穣、平安」に加え「正義」の維持にまで広がり、世界最古の法典「ウルナンム」が編纂される。これは建築事故等に絡む、建築事業者の責任を規定した、ハムラビ法典の制定より古い。
 この時期の都市ウルには運河が縦横に走り、インドやペルシャ(現イラン)などからの商船が行き交った。街には毛織物や絨毯を生産する工場もでき、アナトリア(現トルコ)方面から隊商が定期的にやってきた。ウルの都市形態は卵形、北側に宮殿と神殿それに聖搭ジッグラト(写真5、構成・規模は、第1層が底面62.5m×43m、高さ11m、第2層が底面38.2m×26.4m、高さ5.7m、最上部に神殿が載る。材料は日干し煉瓦で、表面仕上は焼成煉瓦)が配置される。住居は集住形態で、砂漠性気候に対応し中庭式であった。都市ウルは、気候温暖化の進展に伴い、たびたび洪水や海進に襲われ、河川の流路が変わり、河川と都市が10数km離れてしまうなどして、衰退へと向かった。
 ウルクやウルなどシュメール都市は、灌漑技術により都市誕生へと導かれたが、この便利な技術の適用拡大(農耕地化)等により、森林を失ったことが大きく影響し、気候変動も絡み、時を経て都市や文明そして生活をも失うことになってしまう。現代、地球環境問題とも絡み、都市のサステナビリティが課題となっているが、都市づくりにあたっては、新たな開発技術適用の事前評価も重要で、人間活動は大きな自然の摂理の中に収まり、自然とよく共生するよう、十分留意することが肝要となる。
Column 1
言語と文字
 人類は言語を獲得すると、意思伝達や集団での行動が、スムーズに行えるようになった。しかし、その後、時を経て文明の象徴ともいえる、文字の獲得へと動く。それは言語に、大きな欠点があったからである。即ち、言語は、目にできず、発したとたん消えてしまうので、未経験な知の獲得や、積み重ねによる知の発展は難しく,情報の送り手と受け手の間には、同時性(同時刻に同じ場所(声が届く範囲)にいなければならない)の制約があった。これに対し、文字は形を有し後に残る。文字は、時間的、空間的な隔たりを超越し、意思や情報を正確に伝達、事実や経験を共有することができる。また、それらを記録として残し、後から必要に応じ整理・分析することで、生活の向上に活用できる。なお、ウルクで生まれた楔形文字が、体系的に整えられたのは、BC2500年頃といわれている。
Column 2
青銅器と鉄器
 石器に代わる青銅器は、銅と錫の合金で、石より硬い。銅や錫は、鉄に比べ融点が低く、木炭などの弱い火力でも加工できることから、鉄器より先に作られた。青銅器はBC3000年頃、メソポタミアで使われ始め、その後、インド、ヨーロッパ、中国などにも普及していった。
 鉄器の本格的な開発・活用は、BC1400年頃にメソポタミアを支配した、ヒッタイトからである。彼らは炭を使用して比較的低温(800℃位か)で鉄塊を製造、これを再度加熱製錬・鍛造(ハンマーで叩く)する方法で、鋼を開発する。鉄器は、青銅器より硬く使いやすいことから、これが普及すると青銅器は使われなくなる。鉄は、加工が容易な割に強度が強いという特徴があり、材料となる鉄鉱石や砂鉄も、世界各地に産出することから、製造技術が明らかになると、農機具や武器などとして青銅器に代わり普及、農業生産性の向上に寄与し、第二の都市化をもたらす。ただ鉄はすぐ錆びること、また芸術性や美しさという点では、青銅器に劣ることから、装飾品や祭器などには、青銅器が使われ続ける。
[参考文献]
三笠宮 崇仁『生活の世界歴史〈1〉古代オリエントの生活』河出書房新社、1991年
クライブ・ポンティング『緑の世界史上・下(朝日選書)』朝日新聞社、1994年
(自然や環境の視点から書かれた初の世界史、森林の重要性、灌漑農業の負の部分などについても記述)
宇沢 弘文『地球温暖化を考える(岩波新書)』岩波書店、1995.8(温暖化の原因、影響や対策などについて、経済学の立場から記述)
『世界の歴史(全30巻)』中央公論社、1998 – 1999年
松本 健、NHKスペシャル「四大文明」プロジェクト『四大文明[メソポタミア]』NHK出版、2000年
小泉 龍人『都市誕生の考古学』同成社、2001年(考古学の立場から都市を捉える)
中田 一郎『メソポタミア文明入門(岩波ジュニア新書)』、岩波書店、2007年
日端 康雄『都市計画の世界史(講談社現代新書)』講談社、2008年(都市ウル等について記述)
青柳 正規『興亡の世界史00 人類文明の黎明と暮れ方』講談社、2009年
前川 和也『図説メソポタミア文明』河出書房新社、2011年(メソポタミア文明の大きな流れを紹介)
深井 有『地球はもう温暖化していない(平凡社新書)』平凡社、2015年(気候変動は一方向ではないことがわかる)
小泉 龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社、2016年(都市ができていく過程、当時の人びとの生活もつかめる)
ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上)(下)』河出書房新社、2016年(ホモサピエンスが生き残り文明を築き上げてきた理由がわかる)
出口 治明『人類5000年史Ⅰ・Ⅱ』筑摩書房、2017年
田家 康『気候文明史 世界を変えた8万年の攻防(日経ビジネス人文庫)』日本経済新聞出版社、2019年(気候と文明、人類の歴史について、その関係を教えてくれる)
「世界の歴史まっぷ」https://sekainorekisi.com/
「世界史の窓」https://www.y-history.net/
河村 茂(かわむら・しげる)
都市建築研究会代表幹事、博士(工学)
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など