建築史の世界 第13回
国会議事堂──迎賓館赤坂離宮(旧・東宮御所)と並ぶ近代日本を象徴するモニュメント
藤岡 洋保(東京工業大学名誉教授、近代建築史)
写真1 帝国議会議事堂俯瞰(『帝国議会議事堂建築の概要』営繕管財局、1936、p.46)
はじめに
 国会議事堂(1936、竣工時の名称は「帝国議会議事堂」、写真1)は、日本人にとってなじみ深いものである。テレビのニュースでその姿が頻繁に写しだされるし、東京で育った人にとっては社会科見学で訪れたことがある建物でもある。しかし、その設計趣旨や適用された技術についてはあまり知られていないように思われるので、計画・建設の経緯を振り返りながら、この議事堂の政治的役割だけでなく、建築としての意義を説明することにしたい。
図1 エンデ&ベックマンの議事堂計画案透視図(『同前、p.8)
写真2 2代仮議事堂(同前、p.6)
帝国議会議事堂建設計画と木造仮議事堂
 1889(明治22)年の大日本帝国憲法公布、そしてそれにあわせて1890(明治23)年にはじまる帝国議会のための議事堂建設は、当時の政府にとって重要な課題だった。また、幕末に列強との間で締結された不平等条約(安政の五カ国条約)の改正が長年の懸案で、その交渉を進めるうえで、日本が欧米と同様の近代的な政体を有する国家であることを示すためにも議事堂や官庁街の整備が必要と考えられ、それを担う組織として臨時建築局が1886(明治19)年2月に設置された。その局長の井上馨(1836 – 1915)は、この壮大な官庁集中計画を進めるにあたり、その策定をドイツ・ベルリンのヘルマン・エンデ(1829 – 1907)とヴィルヘルム・ベックマン(1832 – 1902)の事務所に委嘱した。
 1886年2月にベックマンらが来日し、官庁街の全体配置や議事堂・司法省・裁判所の略設計図を作成した。それは天覧に供された後、ベルリンでショー・ドローイングに整えられ、それを携えたエンデが1887(明治20)年5月に来日した。同年3月には、大ベルリン計画を立案したジェームス・ホープレヒト(1825 – 1902)が来日していた。ホープレヒトは、日比谷練兵場(現在の日比谷公園と、霞ヶ関の法務省・東京高等裁判所・厚生労働省・農林水産省・林野庁などの庁舎があるところ)に官庁街を建設することを勧め、エンデ&ベックマン事務所はそれを前提に配置計画を作成した。時の内閣は、1887(明治20)年4月に永田町2丁目の高台(いま国会議事堂が建つところ)を議事堂建設予定地とした。
 エンデ&ベックマンは、ネオ・バロック風の壮大な議事堂計画(図①)を提案し、のちには祇園祭の山車のような塔を冠する和洋折衷案も作成したが、それらは、当時の日本の国力では実現不可能なものだったといってよい。
 いずれにしても、第一回帝国議会(1890/明治23年11月召集)までに本格的な議事堂を建設することはできず、当座は木造の仮議事堂でしのぐことになった。それは、内務技師の吉井茂則(1857 – 1930)とエンデ&ベックマン事務所のアドルフ・ステヒミューラーの設計で、1890(明治23)年10月30日に麹町区内幸町2丁目(いま経済産業省総合庁舎が建つ場所)に完成したが、2カ月後に焼失したため、新たな仮議事堂が吉井とエンデ&ベックマン事務所のオスカー・チーツェの設計で1891(明治24)年10月30日に竣工した。いずれも2階建てで、延床面積は、初代が2,562坪、2代目は4,845坪だった。
 2代仮議事堂(写真2)は1906(明治39)年度から1908(明治41)年度にかけて大修理を受け、関東大震災でも無事だったが、1925(大正14)年9月に焼失したので、3代目の木造2階建ての仮議事堂(延床面積6.304坪)が同年12月に突貫工事で完成した。なお、日清戦争時の1894(明治27)年には、広島大本営に仮設の木造議事堂がつくられている。
臨時建築部による議事堂計画
 本格的な議事堂の建設計画がはじまるのは、1905(明治38)年10月に大蔵省に臨時建築部が設けられてからである。これは官庁営繕のための組織(建設省の源流)で、その技師には、妻木頼黄(よりなか)(1859 – 1916)や矢橋賢吉(1869 – 1927)、小林金平(1867 – 1942)、大熊喜邦(よしくに)(1877 – 1952)など、後に議事堂の計画・設計や建設を担うメンバーが含まれている。臨時建築部の設置以降、予算を管轄する大蔵省が議事堂や官庁建築の計画や建設を担うことになった(宮内省や内務省、逓信省、鉄道省、陸・海軍省はその後も独自の営繕組織を維持)。
 臨時建築部は、1908(明治41)年8月に建設予定地の実測調査を、そして同年10月から約1年かけて地質調査を行い、1910(明治43)年秋には地耐力試験を実施して、地盤強度を確認した。あわせて、本館敷地の西側道路の向かいの3,348坪の民有地を取得した。また、1908(明治41)年10月から1909(明治42)年4月にかけて、矢橋賢吉、武田五一(1872 – 1938)、福原俊丸(1876 – 1959)を欧米に派遣し、各国の議事堂を調査した。その成果は大熊喜邦『世界の議事堂』(洪洋社、1918)にまとめられている。このような動きを見て、建築学会が「議院建築の方法に就て」と題する声明を出し、議事堂のデザインを設計競技(コンペ)で募集すべきことを訴えた。
 1910(明治43)年5月に「議院建築準備委員会」が立ち上げられた。会長は大蔵大臣の桂太郎(1848 – 1913)、副会長は貴族院議長の徳川家達(いえさと)(1863 – 1940)で、委員には辰野金吾(1854 – 1919)や塚本靖(1869 – 1937)、伊東忠太(1867 – 1954)らの建築学会関係者が含まれていた。妻木の指導のもとで、臨時建築部の矢橋・小林・大熊らが原案を作成したのに対して、辰野ら建築学会側の委員が設計競技の実施を主張した。しかしそれは否決され、主体構造が鉄骨造、屋根と床が鉄骨鉄筋コンクリート造の地下1階地上3階建てで、経費を1,729万3,050円とし、年限15カ年の継続費とすることや、できるかぎり国産材を使用することになった。
 しかし当時は財政難で、この案を帝国議会に上程できず、敷地拡張のための買収費として1911(明治44)年度予算に40万4,800円が認められただけに終わった。1910(明治43)年度の国家予算は5億4,825万314円で、軍事費が1億8,556万5,000円を占めるという状況では、議事堂建設予算の1,730万円は過大で、15カ年の分割とはいえ、当時の財政事情はそれを許さなかったのである。
 一度頓挫した議事堂建設計画は、1916(大正5)年に再び動き出した。財政状況を踏まえた現実的な案をつくることになり、それを受けて同年8月大蔵省内に「議院建築調査会」が設けられ(会長:市来乙彦)、矢橋賢吉を中心に作成された案が承認された。それによれば、計画案は設計競技で求め、応募者・審査員とも帝国臣民に限り、様式は任意だが、議院建築として相当の偉容を保つものとし、経費は750万円で、年限10カ年の継続費とすることになった。そして、1918(大正7)年度から1927(大正16)年度に至る10カ年の継続予算とすることで帝国議会の協賛を得た。
 議事堂計画が進むことになったのには、当時の大蔵事務次官・市来(いちき)乙彦(1872 – 1954)の判断によるところが大きい。議事堂の実施設計者のひとりだった大熊喜邦の回想によれば、市来はこの時しか議事堂予算を計上する機会はないと踏んで、その計画の作成を指示した。その試算額は1,500万円だったが、それでは大蔵大臣や帝国議会の承認が得られないとして、市来が半額の750万円での計画修正を指示し、議会を通したのである。それはまともな議事堂をつくれる額ではなかったが、議会での承認を得るための方便として、あえて提示したわけである。市来のこの英断がなければ、その直後の不景気や関東大震災などで、帝国議会の承認が得られないままになった可能性が高い。
 なお、国産材使用の原則から、まず木材について1909〜10(明治42〜43)年に全国の産地や産出量、立木価格、運搬方法などを調査し、理学検査も行った。その成果は大蔵省臨時建築部編『建築用本邦産木材及石材第一編木材之部』(建築世界社、1914)にまとめられた。次いで全国の石材について、1910〜12(明治43〜45)年度に石質、成分、組織、色沢と斑紋、施工の難易度、風化、強度、採石量、産地の地理的状況、運搬方法および運賃、粗石価格を調査した。その成果を掲載したのが臨時議院建築局編『本邦産建築石材』(三菱鉱業、1911)である。この悉皆調査によって、全国の建築用木材と石材についての情報が建築界に知られることになり、その後の建築資材の選定の基本資料になった。
図2 帝国議会議事堂コンペ1等当選案透視図(同前、p.16)
写真3 帝国議会議事堂本館鉄骨全景(同前、p.33)
設計競技の実施と臨時議院建築局による実施設計・建設
 議事堂建設のために、1918(大正7)年6月に大蔵省に臨時議院建築局(1925/大正14年5月の官制改正で「営繕管財局」に再編)がつくられた。そして、先述のように、設計案募集のための設計競技を行うことになった。そこでは敷地図や参考平面図(線図)が与えられただけでなく、所要室数やその坪数、各階天井高など、細部にわたる情報が示されていた。この設計競技は2段階で、第1次の締め切りは1919(大正8)年2月15日で、当選案20作品を選び、その当選者を対象に、同年9月15日締め切りで第2次設計競技が行われ、『官報』第2161号(1919年10月16日、p.440)に以下の当選者が告示された。
1等(1名:賞金1万円)
渡辺福三(宮内技手)(図2)
2等(1名:賞金6千円)
吉本久吉(片岡事務所技師)
3等(2名:賞金各3千円)
永山美樹(宮内技手)
竹内新七(陸軍技手)
 しかし、これらの当選案には平面計画などに問題があって、実施案の参考にはなり得ないものだったので、臨時議院建築局が別に実施案を作成した。そもそもその設計競技の前提になっていた条件(たとえば、地階なしでの3階建てだったことや、ボイラー室を本館脇に置く配置計画)は、750万円という、無理に切り詰めた予算を前提にしたもので、当選案をもとにするのは非現実的だったはずである。それではなぜそのような大規模な設計競技をする必要があったのかという疑問が湧くかもしれないが、臨時議院建築局としては、平面計画を含め、よりよい案につながるアイデアを広く求めたいと考えていたからと見られる。そのことは、『帝国議会議事堂建築報告書』(営繕管財局、昭和13年)に収められた矢橋賢吉の批評(pp.128 – 130)にうかがえる。
 1920(大正9)年1月30日に議事堂建設の地鎮祭が行われ、同年6月末に敷地鋤取りから工事がはじまり、実施設計が並行して進められた。1927(昭和2)年4月7日に上棟式、1936(昭和11)年11月7日に竣工記念式が行われた。
 完成した議事堂は、地下1階地上3階建て一部4階、正面幅が681尺(206.4m)、延床面積15,780坪の巨大なもので、高さ216尺(65.5m)の中央高塔は当時の日本で最も高い建物になった。実行予算総額は2,579万2,624円である。
 着工から完成までに17年も要したのは、1923(大正12)年の関東大震災と、国産品で建設という方針のために鉄骨や大理石などの調達に時間がかかったことや、1925(大正14)年の普通選挙法施行にともなう関係諸室の設計変更、そして1929(昭和4)年の大恐慌による経費削減のためである。
 関東大震災では、建設中の建物に被害はなかったものの、臨時議院建築局の庁舎が罹災し、設計図や構造計算書、設計検討用の模型、世界の議事堂の図面や、全国から収集した石の見本などが失われてしまったので、設計図などをつくり直すのに時間を費やすことになった。
 議事堂の構造は鉄骨鉄筋コンクリート造である(写真3)。使用した鉄骨は9,810トンで、それまでに日本につくられた単体の鉄骨使用建物では最大だったはずである。当時の八幡製鉄所の鉄鋼生産能力では国内の建設需要を満たせなかったので、建築用の鉄骨はアメリカやイギリスから輸入することが多かった。しかし、議事堂建設においては国産材使用が至上命題だったので、鉄骨はすべて八幡製鉄所であつらえることになり、同製鉄所では枝光(えだみつ)の製罐工場を鉄骨加工用に改良して対応したが、最大でも1年間に2,000トンしか供給できなかったので、鉄骨の組み立てだけで6年もかかった。
 内外装の石工事も大変で、これだけの大規模建物の全面にコンクリートの型枠を兼ねる厚い石を張るということだから、その切り出しや組み立てにも時間と労力を要した。外装には花崗岩と安山岩を用いることになり、花崗石は茨城県稲田産、香川県小豆島産や山口県蛙島産のものを使用し、安山岩は神奈川県伊豆の白丁場石や静岡県伊豆の月出石を用いた。あわせて、本館腰部や中庭外装用に山口県黒髪島産の花崗石を使用した。本館外壁用には尾立(おだち)石(広島県倉橋島産)を使用することになった。また、内装の大理石については、工程の進捗にあわせて全国から標本を集め、そこから37種類の大理石を選んだ。中央広間に使われた琉球石灰岩は、沖縄の瀬底島産だけでは足りず、新たに宮古島で探してようやく間に合わせることができた。
 ちなみに、竣工時には、建物正面にアプローチする道路が議事堂本館の東西の中心軸にではなく、やや北東側に斜めについていた。それが現在のように建物の中心軸に合わせて整備されたのは、1957(昭和32)年決定の「東京都市計画一団地(霞ヶ関地区)の官公庁施設位置決定および道路計画」によるもので、その際に敷地形状もそれまでの三角形から現在のような長方形に拡げられた。この計画は1936(昭和11)年の竣工時にはすでに予定されており、20年以上経ってようやく実現したのである。
図3 帝国議会議事堂本館正面図(同前、p.17)
図4 帝国議会議事堂本館地階平面図(同前、p.20)
図5 帝国議会議事堂本館1階平面図(同前、p.21)
図6 帝国議会議事堂本館2階平面図(同前、p.22)
図7 帝国議会議事堂本館3階平面図(同前、p.23)
図8 帝国議会議事堂本館中3階・4階平面図、屋根伏図(同前、p.24)
図9 中央広間透視図(『『帝国議会議事堂建築報告書付図』営繕管財局、1936、口絵)
図10 便殿前広間床モザイク配色図(同前)
図11 便殿配色図(同前)
議事堂のデザイン
 議事堂を設計した臨時議院建築局によれば、そのデザインでは「一国の議事堂としての威容を保たしむるは勿論なるも一般官庁と異ならざる一種最高の事務用建築として実現せしめんとの方針」*1のもと、「荘重、穏健といふやうな外観上の要素は議院建築の如き性質の建物には最も必要な要素で(中略)見飽きのせぬ穏和な表現が非常に必要」*2であって、「敷地地勢上の関係から、建物は其一部に成るべく高いものを設けて、外観を顕著に力強く現はすこと」が基本方針になった*3。
 設計陣は当初4階建てを想定していたが、階段の上がり下りが多くなることや、エレベーターという新設備への議員の不安から、地下1階3階建てになった。
 貴族院と衆議院の2院制なので大きな議場と中庭が両サイドに配され、正面中心軸上に天皇の動線を設けることになるから正面の幅が大きくなるが、階数が3階までということになれば、かなり扁平で横長の立面になってしまう。敷地が上り勾配の先の高台で、そこに偉容を示す建物を配するということからも、正面中央に高塔を配することがデザインの要点になった。
 そこで採用されたのが、正方形平面の上に階段状のピラミッド屋根が載る、正面中央の塔である(図3)。この頂部は、20世紀初頭に欧米で流行していたモチーフで、そのもとは「ハリカルナッソス(小アジアで栄えた都市国家で、現在のトルコの南岸)のマウソレウム」5)と呼ばれる、古代ギリシャの墳墓にある。その復原案が19世紀後期に考古学者によって発表され、方形平面の塔頂部の「新しいモチーフ」として欧米で流行していたのである。エリエル・サーリネン(1873 – 1950)のフィンランド国会議事堂計画案(1908)などがその好例で、日本の帝国議会議事堂はそれに示唆を得た可能性が高い。このことは、建築家で建築評論家でもあった中村鎮(まもる)(1890 – 1933)の以下の指摘から裏づけられる。
 「例へば此の新議院建築の姿の上からの最も代表的部分である所の、其の中央高塔を見るも、これは古典ギリシヤ時代に於けるハリカルナソに於ける、巨大なる墳墓建築に対する、近来の各種の歴史学者の考證の結果出来た復旧図を基として、これを塔に応用したサーリネンの議院建築の意匠や、其の他アメリカ、ドイツ等の諸建築家に依る類似の図案の、いづれかから摂取せられたものである事を否み難いものである。」*4
 議事堂では、天皇、議員、事務官、新聞記者、傍聴人などの動線が重ならないようにすることが平面計画上の要点になる。まず機能を階ごとに振り分け、地階には機械室などの裏まわりの機能を、1階には議員用の玄関やクローク、事務室を配し、2階には貴衆ふたつの議場を中心に、大臣室や議長室、議員控室を、3階には便殿(びんでん)・皇族室をはじめ、両院協議室や予算委員室などを配した。中央棟と貴衆両院の間に設けられたふたつの中庭は、通風や採光を得るだけでなく、動線確保の点でも有効だった(図4 – 5)。
 ちなみに、天皇の鹵簿(ろぼ)(正規のお出まし)のために、敷地を掻き取って勾配を1/19まで緩やかにしたことから、後背道路と敷地の間に1階分の段差ができたのを利用して、本館背面の両端に地階付きの陸橋を設けた。
 天皇の動線は、正面中央軸線上の1階正面中央玄関から3階奥の便殿までの一直線で、そこから議場御座所への廊下が通じている。貴衆両院の議員はそれぞれの議場の正面側から出入りする。新聞記者は、中庭から専用階段で議場の記者席に至る。傍聴人は西側道路に接続する陸橋脇の階段を降り、地階背面左右に配された専用入口から待合室を経て、別の専用階段で貴衆両院の傍聴席に向かう。基本設計完了後に平面計画だけでも20回以上改訂されているので、動線計画に手を入れ続けていたことがうかがえる。完成までに時間を要したことが、結果として平面計画の完成度を上げることにつながったわけである。なお、背面道路の向こう側の付属地にボイラー室を設けたので、高い煙突を本館のはるか後に離すことができた。付属地は、後に議員会館建設用地にもなった。
 内装では、中心軸上に沿って並ぶ格の高い室が、大理石やステンドグラス、伝統文様を使った華麗な意匠で整えられている。中でも、便殿前と中央広間(図⑨)の床のモザイクタイル(図10)は、明治神宮聖徳(せいとく)記念館玄関ホール(1926年)のものと並んで、当時では最大だっただけでなく、精巧なつくりのものである。また、便殿(図11)や皇族室・両院協議室には和のモチーフが巧みに組み合わされており、細部に至るまで、鳳凰や宝相華(ほうそうげ)、唐草などの伝統的な文様が、精妙で優雅な意匠でまとめられている。その他にも、総理大臣室と大臣室に施された荘重な意匠、貴衆両院議長サロンに適用された華麗な意匠も注目である。
図12 議場換気風道図(『帝国議会議事堂建築報告書』営繕管財局、1936, p.296の次の付図)下の2枚の図に、送風を上向き(青)・下向き(赤)に変更するダンパーが記されている。
議事堂に適用された技術
 着工までに時間がかかったことが、結果としてより強固な鉄骨鉄筋コンクリート造の採用につながった。1917(大正6)年までの計画案では、鉄骨造で、壁をレンガで充填する工法が予定されていた。床と屋根のスラブは鉄骨鉄筋コンクリート造にすることになっていたものの、荷重や横力は鉄骨柱で受けるという想定だったわけである。
 この議事堂に導入された冷暖房設備は、当時の日本では画期的なものだったといってよい。まず暖房装置は、新鮮空気を取り入れるため、本館左右の植込み内と中庭にその取り入れ口を設け、それを地下のダクトを介して機械室に送り、水に潜らせて洗浄した後でその空気を暖めて、主要室や議場に送るようになっていた。議場は大空間なので、暖房効率を上げるために送風機の先にダンパーをつけて、吹き出しを天井からでなく、床下からにも切り替えられるようにしてあった(図12)。なお、議会が夏に開かれるのは稀ということで、冷房は冷凍機によるのではなく、地下水や氷水に空気を潜らせる方式が採用された。
 また、清掃や、新聞記者の記事送付、議員への情報伝達をスムーズかつ遅滞なく行うための機械・電気設備も注目される。清掃には真空掃除装置が採用された。これは、各室や廊下の幅木に全部で173個の吸引口を設け、地下室に設置された集塵機で吸い取る装置で、アメリカ製である。また新聞記者の記事送付のために気送管が配備された。議場傍聴席最前列の新聞記者席背面に設けた管を介して1階の受送室に原稿を送る装置で、これもアメリカ製である。国産品ではないが、利便性を優先して最新の装置を導入したわけである。また電気設備では、電気時計や、議員に会議や委員会の開始を知らせるベル、登院議員数の確認が速やかにできる装置が導入された。建設に時間を要したことが、その間に開発された最先端の技術の導入を可能にし、竣工時には世界でもっとも先進的な設備を持つ議事堂になったのである。
まとめ
 帝国議会議事堂(現・国会議事堂)は、1920(大正9)年から17年かけて建てられた建物だが、その間に設計変更を重ねることができたこともあって、先行した欧米の議事堂にひけをとらない機能と規模に加えて、近代的なデザインと設備をもつ、当時の世界最新鋭のものになった。
 立憲国家の象徴として、また日本が欧米に比肩しうる国であることを内外に示すための記念建造物として、当時の最高・最新の知恵と技術をもとに、多くの資金と知恵や労力、年月をかけてつくられたもので、迎賓館赤坂離宮(旧東宮御所:国宝、1909年)とともに、近代日本を代表するモニュメントといえる。なお、旧東宮御所の建設の際には、その構造用鉄骨や大理石・調度・設備機器などは輸入に頼らざるを得なかったが、その27年後に竣工した帝国議会議事堂は、構造用鉄骨・鉄筋から室内調度、設備に至るまで、ほとんどすべてを国産の資材・製品と技術でまかなっており、その間の日本の建築技術の進展を象徴する建物でもある。
[註]
*1 営繕管財局編『帝国議会議事堂建築報告書』(1938)p.97
*2 同上p.129
*3 同前
*4 中村鎮「新議院建築の批判」(『建築様式論叢』六文館、1932、 pp.469 – 470所収)
*5 「ハリカルナッソスのマウソレウム」をインターネットで検索すれば、その復原案を複数確認できる。
藤岡 洋保(ふじおか・ひろやす)
東京工業大学名誉教授
1949年 広島市生まれ/東京工業大学工学部建築学科卒業、同大学院理工学研究科修士課程・博士課程建築学専攻修了、工学博士。日本近代建築史専攻/建築における「日本的なもの」や、「空間」という概念導入の系譜など、建築思想とデザインについての研究や、近代建築家の研究、近代建築技術史、保存論を手がけ、歴史的建造物の保存にも関わる/主著に『表現者・堀口捨己─総合芸術の探求─』(中央公論美術出版、2009)、『近代建築史』(森北出版、2011)、『明治神宮の建築─日本近代を象徴する空間』(鹿島出版会、2018)など/2011年日本建築学会賞(論文)、2013年「建築と社会」賞
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